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30 知りたいと思ったその人の事、聞かされた話。
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何も答えられなかった。
名前だけ知ってる。
仕事ももちろん。
でもそれだけかも。
話をすることが少なくて。
誰かに聞きたくても一緒に噂をしてくれる人が誰もいなかったから。
年齢も、家族の事も、お休みの日何をしてるのか、何も知らない。
そもそも下の階の人だって何も知らないのに。
会社のサイトにも何ものってない。
教授の元に学生の頃いたから、同じ大学だと思う。
それだけ。
だからお母さんに聞かれても何も説明できなかった。
あんなに話をしてた朝陽さんだって、本当は何も知らないと分かったけど、それ以上に春日さんの事は知らない。
下の階で研修をして、働けそうなところに配属してもらうって言った。
だからずっと同じ部屋にいるわけじゃなくなった。
でも、もし、悲しい事になったら、仕事も楽しくなくなるって言われた。
だから、よく考えなさいと言われた。
教授に聞いたらもっと教えてくれるんだろうか?
でもそう考える時点で本人に聞けないってことになってる。
本人に教えてもらえばいい。
そう思うまでにはすごく時間がかかった。
冷たく切られた電話に涙が出て。
とうとうお母さんが部屋に来て。
大きくため息をつかれた。
「芽衣が信じたいのなら、信じればいいから。もう大人よね。いつまでも子ども扱いしたらダメなのよね。」
頭を撫でられて。
「芽衣が思うようにしてみなさい。お父さんが心配するから、元気になって、夕飯は一緒に食べるからね。」
そう言っていなくなった。
携帯の画面を開き、それでも時間切れで何度も真っ暗になって。
『春日さん、電話してもいいですか?』
そのメッセージを送って、返事が来るのを待った。
握りしめていた携帯をとうとう床に置いて、それでも視界の真ん中に置いていた。
いきなり光って着信が、返事じゃなくて電話が来た。
『社長』そう表示されていた。
手に取って出る。
「もしもし、春日さん。」
声が震えそうになる。
『芽衣、ごめん。さっきは勝手に切ってしまって。本当に何で芽衣にはこんなに大人げない振舞いをしてしまうんだろうって反省してる。』
「春日さん、明日時間をください。話がしたいんです。」
『いいよ。芽衣に合わせる、時間も場所も。』
そう言われて、春日さんの部屋にお邪魔することにした。
外では個人的な話が出来ない、ちゃんと向き合って、話がしたいと思ったから。
『芽衣、じゃあ、家を出る時に電話して。改札で待ってるから。』
そう言われた。
「お願いします。」
そう言って自分から電話を切った。
春日さんが悪いと思ってくれるならいい。
ちょっと悲しかったけど、いい。
怒らせたのは私だろうから、しょうがない。
元気な曲をかけて、少し元気を出して。
夕飯の手伝いに降りた。
そこを忘れてたけど、家事見習い中、たった一回の週末じゃあ申し訳ない。
玉ねぎを喜んで切った。
水にさらしてと言われて、切り方も教わり、ガツッガツッと音を立てながら切った。もっとトントンと切れるようになりたいけど。まだまだだった。
おかしい、涙が出ないんですが。
それでも目をこっすた手に反応して出た、涙。
カレーとサラダ。
お母さんの作るカレーが好き、小さいころから馴染んだ味だから一番好き。
お父さん好みの辛めのカレーに追いついたのは中学生の時。
それまではハチミツと果物をすり下ろしたり、つぶしたりして、自分だけ子供用の甘いカレーだった。
余計なひと手間。
お父さんがカレーだけは甘いのは嫌だと言い張ったらしい。
それはそれで美味しいと思うのだけど。
「お父さん、ご飯出来たよ。」
隣で新聞を見ながらテレビを見ると言う中途半端な技で時間をつぶしていたお父さん。
新聞を畳んでこっちを向いて。
「芽衣、どうした?」
「何が?」
「目が腫れてるぞ。」
「玉ねぎ切りました。今日の玉ねぎは私が切りました。他にも野菜の担当です。」
「そうか、美味しそうだな。」
テレビを消してテーブルに着く。
すっかり準備は終わっていた。
「いただきます。」
「昨日は、芽衣は、会社の人のところに泊まったんだって?」
「・・・・うん、食事に誘われて、すごくおいしいカクテルを勧められたから、一番上から順番に飲んでたんだけど、すごくおいしかった。」
「仲間がたくさんいると楽しそうでいいな。」
「うん、皆優しいよ。同じ年の人がいないのが残念だけど、みんなお姉さん。」
嘘の飲み会。でも今まで数回参加してるからイメージは出来る。
「教授のお陰ね。芽衣、ちゃんと節目節目にはご挨拶状を出すのよ。」
「うん。今頃旅行中だと思う。帰ったらお土産を持って会いに来てくれるって言ってた。」
「待ってます、なんて言ってないでしょうね?」
「う~ん、言ったけど、ちゃんと気を付けてと、奥さんと仲良くとも言ったから。私だけに会いに来るんじゃないし。みんなで楽しみにしてるの。」
春日さんと朝陽さんの顔が浮かんだ。
いつもならクールな春日さんと笑顔の朝陽さんの顔なのに、二人とも笑顔だった。
すっかり春日さんの笑顔にも馴染んだらしい。
ちょっとだけ、うれしいような・・・・うん、やっぱり嬉しい。
腫れた目は誤魔化せて、お風呂に入って、お父さんがいない間にお母さんに話をする。
「明日、もう一度話をしたいってお願いしたの。昼に出かけてくる。いい?」
「いいわよ。夕飯には帰ってくること。」
「分かってます。」
「なんだかちょっと寂しい。お父さんと分かち合えないから、お母さんが一人だけ寂しいじゃない。」
「うん・・・・。」
「いい人だっていうのは分かってるから。」
「うん。」
「お父さんがお仕事辞めたら、お母さんものんびり旅行に連れて行ってもらいたいなあ。いいなあ、教授の奥様。あ~あ、その時は芽衣の事なんてほっぽり出して行っちゃうのに。」
「もう少し後だね。」
「なかなか遠いなあ。」
洗い物も手伝った。
作ったカレーはきれいになくなった。
時間をかけてもなくなるのはあっという間。
そんなものなんだなあ。
こんなことを永遠に繰り返すの?
そう思ったけど世の中の女の人はそうしてるんだから、そうなんだろう。
翌日のお昼過ぎ、駅の改札で待っててくれた。
急いで駆け寄って、差し出された手に自分の手を重ねて。
「芽衣、お昼は?」
「朝が遅かったから。あんまりお腹空いてないです。春日さん食べてないですか?」
「ああ、いつも朝は食べないから。部屋には何もないから少し買って帰ろう。」
そう言ってパン屋に立ち寄った。
焼き菓子を選んで小さなかごに入れていく。
小さな冷蔵庫に美味しそうなロールケーキとプリンと、シュークリームがあった。
とてもおいしそうに見える。
お値段もそれなりだけど。
帰りに買って帰ろうかなあ。
お母さんも食べたいだろうなあ。
「芽衣、食べるなら買おうか?」
「どれも美味しそうで、お母さんも食べたいだろうなあって思ってました。帰りに買って帰ります。」
「帰りだと、なくなるかもよ、今一緒に買うよ。」
そう言われて三種類をそれぞれ二個、買ってもらった。
お金はいいと言われて。
手に袋を下げて、昨日の道を逆に行く。
ひときわ大きなマンションの下にもぐりこんでエレベーターに乗るとあっという間に地上から離れた。
二度目の部屋に、少しだけホッとした気分になる。
バス、トイレと寝室の扉は分かる。
それ以外にもたくさんあった。
リビングに立ち尽くす。
どこに座っていいのか分からない。
本当に何もない。
ホッとしたはずなのに、やはりこの部屋は春日さんだけの部屋で、誰かを迎え入れるという気配がまったくない。
昨日春日さんが座っていたように窓辺に行って座る。
隣に来た春日さんに肩を抱かれた。
「お母さん、すごく怒ってたの?」
「違います、怒ってはいません。ただ、心配して。何でだか、すっかりバレていて、春日さんの部屋に泊まったことがバレていて、はっきりそう聞かれました。」
「・・・うん、それで。」
「どんな人なのかと、いろいろ聞かれて、何も答えられなくて。知ってるのは名前と出身地と大学が一緒ということだけで。」
「悲しい事になったら、仕事も嫌になるから、よく考えなさいって言われました。」
「そう。」
立ち上がってコーヒーカップを手に戻ってきた。
カップを真ん中に置かれて距離が出来た。
ぼんやりとカップから立ち上る湯気を見る。
「・・・春日さんの事を知りたいと思いました。」
「じゃあ、何でも聞いて。答えるから。」
「年齢はいくつですか?」
「朝陽と一緒だよ。31歳になる。」
知らなかった。朝陽さんの年も分かった。
もう少し、二人とも若いと思ってた。
「今、おじさんだなあって思った?」
顔をあげると笑顔で。
「いいえ、思ってないです。」
首を振る。
「出身は東京ですよね?どこですか?」
「生まれたのは違ったけど、子供のころから東京だよ。」
教えてもらった駅は東京の端っこだった。
それでも、無理すればそこから通えるくらいではある。
「兄弟は?」
「いないよ。」
そう聞いていっても、後は何を聞いて行けばいいのか。
趣味とか聞いてもこの部屋の空っぽ具合から本当に何もなさそう。
「他には?」
「他には・・・・・思いつかないんです。何か、ありますか?」
「じゃあ、聞く?」
「はい、聞きます。」
そう答えた。何でも知りたいと思ったから。
でも自分が想像してた話とは全く違った。
事実だけを淡々と並べられた話はとても悲しいはずなのに、どこか他人事のように話している春日さん。
ご両親と幼くして死別して、気がついたら施設に行くことになっていて、そこでは何かを手にすることがひどく贅沢で。
だから今でも必要なものしか手元にない。
「それでも、そんなにつらいことばかりじゃなかったんだ。園長はとてもいい人で、今はその娘さんが引き継いでるし、時々会いに行ってるんだ。仕事のつながりも始まりはほとんどその園の仲間だし。今があるのは本当にそこにいたからだと思ってる。」
そう言った後コーヒーを飲んで。
「仕事の内容が変わってるって思わなかった?営業でなんだか戸惑ってるって報告もあったし。」
「それは、思いました。人材派遣とは聞いてても、その派遣先に訪ねて行ったり、仲良さそうに声をかけてたりして、フォローがすごいんだなあって思ってて。でも営業の皆川さんは社長は人のために働いてるって。自分の仕事も人のためになるのが分かって、うれしい事だから頑張れるって、そう言ってました。」
「大勢の子供の中には自分より悲しい思いをしたり、自分より小さいころに引き取られたりする子もいるんだ。いろいろな子供たちがいて、失くしたものを数えるより、今、手に入れられるものを考えた方が自分も楽なんだ。こんな話は、朝陽と先生しか知らないけど。」
「言いません。不用意に漏らしたりはしません。」
「そうだね、そうしてもらった方が助かるかな。まあ、そう興味も持たれないと思うから。」
そんなことないと思うのに。
ちょっとだけクールなイメージがあるからそう思われてるけど・・・。
本当は優しい人だと教えたい。
改めて、やっぱり私はどこまでも甘かったらしい。
全てをお母さんに頼り切って、こんな年になっても好きになった人のことまで心配されて。春日さんがお世話してるのは皆若い子達だった。自分より下か、同じくらいの子。その子たちは今はしっかり独立している、そうせざるをえない環境にある。望まなくても、そうなるらしい。
飲み終わったコーヒーカップを背後に置いて、春日さんがこっちに近寄ってきた。
「後は何かある?」
肩を寄せられて、そのまま、もたれる。
私のカップも後ろに下げられた。
「また、聞きます。知りたいって思った時に。今は大丈夫です。ありがとうございました。」
「お母さんは安心してくれると思う?」
「はい、勿論です。」
笑顔で見上げた。
そこには安心してくれたような笑顔があって。
じっと見てたら、顔がもっと近くに来て、目を閉じた。
窓から入る明るい陽射しの午後。
目を開けると、相手の顔だってものすごくよく見えると思う。
色も音もない部屋でキスの音が大きく聞こえた。
「芽衣、今仕事の話をしたら申し訳ないんだけど、やっぱり下の階で働いたほうがお互いいいよね?」
そう思う。
いくら隠しても、バレるかもしれない。
なんだかあんまり外でデートってタイプじゃなさそうだけど、二人で歩いてるところを見られたりしたら・・・・。
それに朝陽さんはすぐに気がつくと思う。それはそれで、喜んでくれると思うけど、やっぱり申し訳ない気がする。
だったら、いっそ下の階で、少しでも役に立てるように働きたい。
会社ではちゃんと仕事をするから、早く終わったら・・・・は無理でも、週末には会ったり・・・・。
「それがいいと思います。その方がいいです。」
「じゃあ、研修頑張って。」
「はい。皆優しいから大丈夫です。」
本当に皆仲がいいし、優しい。
多分仕事の上でのストレスは他の会社より少ないんだと思う。
余裕があるから、雰囲気もいい。
「余計なのとはあんまり仲良くしなくていいから。」
「・・・・はい。そんなに心配されるようなことは実際ないですから。」
「ちゃんと言ってね。好きな人がいるって。」
もう遅い。
今更かも。
「はい。」
でもそう返事した。
名前だけ知ってる。
仕事ももちろん。
でもそれだけかも。
話をすることが少なくて。
誰かに聞きたくても一緒に噂をしてくれる人が誰もいなかったから。
年齢も、家族の事も、お休みの日何をしてるのか、何も知らない。
そもそも下の階の人だって何も知らないのに。
会社のサイトにも何ものってない。
教授の元に学生の頃いたから、同じ大学だと思う。
それだけ。
だからお母さんに聞かれても何も説明できなかった。
あんなに話をしてた朝陽さんだって、本当は何も知らないと分かったけど、それ以上に春日さんの事は知らない。
下の階で研修をして、働けそうなところに配属してもらうって言った。
だからずっと同じ部屋にいるわけじゃなくなった。
でも、もし、悲しい事になったら、仕事も楽しくなくなるって言われた。
だから、よく考えなさいと言われた。
教授に聞いたらもっと教えてくれるんだろうか?
でもそう考える時点で本人に聞けないってことになってる。
本人に教えてもらえばいい。
そう思うまでにはすごく時間がかかった。
冷たく切られた電話に涙が出て。
とうとうお母さんが部屋に来て。
大きくため息をつかれた。
「芽衣が信じたいのなら、信じればいいから。もう大人よね。いつまでも子ども扱いしたらダメなのよね。」
頭を撫でられて。
「芽衣が思うようにしてみなさい。お父さんが心配するから、元気になって、夕飯は一緒に食べるからね。」
そう言っていなくなった。
携帯の画面を開き、それでも時間切れで何度も真っ暗になって。
『春日さん、電話してもいいですか?』
そのメッセージを送って、返事が来るのを待った。
握りしめていた携帯をとうとう床に置いて、それでも視界の真ん中に置いていた。
いきなり光って着信が、返事じゃなくて電話が来た。
『社長』そう表示されていた。
手に取って出る。
「もしもし、春日さん。」
声が震えそうになる。
『芽衣、ごめん。さっきは勝手に切ってしまって。本当に何で芽衣にはこんなに大人げない振舞いをしてしまうんだろうって反省してる。』
「春日さん、明日時間をください。話がしたいんです。」
『いいよ。芽衣に合わせる、時間も場所も。』
そう言われて、春日さんの部屋にお邪魔することにした。
外では個人的な話が出来ない、ちゃんと向き合って、話がしたいと思ったから。
『芽衣、じゃあ、家を出る時に電話して。改札で待ってるから。』
そう言われた。
「お願いします。」
そう言って自分から電話を切った。
春日さんが悪いと思ってくれるならいい。
ちょっと悲しかったけど、いい。
怒らせたのは私だろうから、しょうがない。
元気な曲をかけて、少し元気を出して。
夕飯の手伝いに降りた。
そこを忘れてたけど、家事見習い中、たった一回の週末じゃあ申し訳ない。
玉ねぎを喜んで切った。
水にさらしてと言われて、切り方も教わり、ガツッガツッと音を立てながら切った。もっとトントンと切れるようになりたいけど。まだまだだった。
おかしい、涙が出ないんですが。
それでも目をこっすた手に反応して出た、涙。
カレーとサラダ。
お母さんの作るカレーが好き、小さいころから馴染んだ味だから一番好き。
お父さん好みの辛めのカレーに追いついたのは中学生の時。
それまではハチミツと果物をすり下ろしたり、つぶしたりして、自分だけ子供用の甘いカレーだった。
余計なひと手間。
お父さんがカレーだけは甘いのは嫌だと言い張ったらしい。
それはそれで美味しいと思うのだけど。
「お父さん、ご飯出来たよ。」
隣で新聞を見ながらテレビを見ると言う中途半端な技で時間をつぶしていたお父さん。
新聞を畳んでこっちを向いて。
「芽衣、どうした?」
「何が?」
「目が腫れてるぞ。」
「玉ねぎ切りました。今日の玉ねぎは私が切りました。他にも野菜の担当です。」
「そうか、美味しそうだな。」
テレビを消してテーブルに着く。
すっかり準備は終わっていた。
「いただきます。」
「昨日は、芽衣は、会社の人のところに泊まったんだって?」
「・・・・うん、食事に誘われて、すごくおいしいカクテルを勧められたから、一番上から順番に飲んでたんだけど、すごくおいしかった。」
「仲間がたくさんいると楽しそうでいいな。」
「うん、皆優しいよ。同じ年の人がいないのが残念だけど、みんなお姉さん。」
嘘の飲み会。でも今まで数回参加してるからイメージは出来る。
「教授のお陰ね。芽衣、ちゃんと節目節目にはご挨拶状を出すのよ。」
「うん。今頃旅行中だと思う。帰ったらお土産を持って会いに来てくれるって言ってた。」
「待ってます、なんて言ってないでしょうね?」
「う~ん、言ったけど、ちゃんと気を付けてと、奥さんと仲良くとも言ったから。私だけに会いに来るんじゃないし。みんなで楽しみにしてるの。」
春日さんと朝陽さんの顔が浮かんだ。
いつもならクールな春日さんと笑顔の朝陽さんの顔なのに、二人とも笑顔だった。
すっかり春日さんの笑顔にも馴染んだらしい。
ちょっとだけ、うれしいような・・・・うん、やっぱり嬉しい。
腫れた目は誤魔化せて、お風呂に入って、お父さんがいない間にお母さんに話をする。
「明日、もう一度話をしたいってお願いしたの。昼に出かけてくる。いい?」
「いいわよ。夕飯には帰ってくること。」
「分かってます。」
「なんだかちょっと寂しい。お父さんと分かち合えないから、お母さんが一人だけ寂しいじゃない。」
「うん・・・・。」
「いい人だっていうのは分かってるから。」
「うん。」
「お父さんがお仕事辞めたら、お母さんものんびり旅行に連れて行ってもらいたいなあ。いいなあ、教授の奥様。あ~あ、その時は芽衣の事なんてほっぽり出して行っちゃうのに。」
「もう少し後だね。」
「なかなか遠いなあ。」
洗い物も手伝った。
作ったカレーはきれいになくなった。
時間をかけてもなくなるのはあっという間。
そんなものなんだなあ。
こんなことを永遠に繰り返すの?
そう思ったけど世の中の女の人はそうしてるんだから、そうなんだろう。
翌日のお昼過ぎ、駅の改札で待っててくれた。
急いで駆け寄って、差し出された手に自分の手を重ねて。
「芽衣、お昼は?」
「朝が遅かったから。あんまりお腹空いてないです。春日さん食べてないですか?」
「ああ、いつも朝は食べないから。部屋には何もないから少し買って帰ろう。」
そう言ってパン屋に立ち寄った。
焼き菓子を選んで小さなかごに入れていく。
小さな冷蔵庫に美味しそうなロールケーキとプリンと、シュークリームがあった。
とてもおいしそうに見える。
お値段もそれなりだけど。
帰りに買って帰ろうかなあ。
お母さんも食べたいだろうなあ。
「芽衣、食べるなら買おうか?」
「どれも美味しそうで、お母さんも食べたいだろうなあって思ってました。帰りに買って帰ります。」
「帰りだと、なくなるかもよ、今一緒に買うよ。」
そう言われて三種類をそれぞれ二個、買ってもらった。
お金はいいと言われて。
手に袋を下げて、昨日の道を逆に行く。
ひときわ大きなマンションの下にもぐりこんでエレベーターに乗るとあっという間に地上から離れた。
二度目の部屋に、少しだけホッとした気分になる。
バス、トイレと寝室の扉は分かる。
それ以外にもたくさんあった。
リビングに立ち尽くす。
どこに座っていいのか分からない。
本当に何もない。
ホッとしたはずなのに、やはりこの部屋は春日さんだけの部屋で、誰かを迎え入れるという気配がまったくない。
昨日春日さんが座っていたように窓辺に行って座る。
隣に来た春日さんに肩を抱かれた。
「お母さん、すごく怒ってたの?」
「違います、怒ってはいません。ただ、心配して。何でだか、すっかりバレていて、春日さんの部屋に泊まったことがバレていて、はっきりそう聞かれました。」
「・・・うん、それで。」
「どんな人なのかと、いろいろ聞かれて、何も答えられなくて。知ってるのは名前と出身地と大学が一緒ということだけで。」
「悲しい事になったら、仕事も嫌になるから、よく考えなさいって言われました。」
「そう。」
立ち上がってコーヒーカップを手に戻ってきた。
カップを真ん中に置かれて距離が出来た。
ぼんやりとカップから立ち上る湯気を見る。
「・・・春日さんの事を知りたいと思いました。」
「じゃあ、何でも聞いて。答えるから。」
「年齢はいくつですか?」
「朝陽と一緒だよ。31歳になる。」
知らなかった。朝陽さんの年も分かった。
もう少し、二人とも若いと思ってた。
「今、おじさんだなあって思った?」
顔をあげると笑顔で。
「いいえ、思ってないです。」
首を振る。
「出身は東京ですよね?どこですか?」
「生まれたのは違ったけど、子供のころから東京だよ。」
教えてもらった駅は東京の端っこだった。
それでも、無理すればそこから通えるくらいではある。
「兄弟は?」
「いないよ。」
そう聞いていっても、後は何を聞いて行けばいいのか。
趣味とか聞いてもこの部屋の空っぽ具合から本当に何もなさそう。
「他には?」
「他には・・・・・思いつかないんです。何か、ありますか?」
「じゃあ、聞く?」
「はい、聞きます。」
そう答えた。何でも知りたいと思ったから。
でも自分が想像してた話とは全く違った。
事実だけを淡々と並べられた話はとても悲しいはずなのに、どこか他人事のように話している春日さん。
ご両親と幼くして死別して、気がついたら施設に行くことになっていて、そこでは何かを手にすることがひどく贅沢で。
だから今でも必要なものしか手元にない。
「それでも、そんなにつらいことばかりじゃなかったんだ。園長はとてもいい人で、今はその娘さんが引き継いでるし、時々会いに行ってるんだ。仕事のつながりも始まりはほとんどその園の仲間だし。今があるのは本当にそこにいたからだと思ってる。」
そう言った後コーヒーを飲んで。
「仕事の内容が変わってるって思わなかった?営業でなんだか戸惑ってるって報告もあったし。」
「それは、思いました。人材派遣とは聞いてても、その派遣先に訪ねて行ったり、仲良さそうに声をかけてたりして、フォローがすごいんだなあって思ってて。でも営業の皆川さんは社長は人のために働いてるって。自分の仕事も人のためになるのが分かって、うれしい事だから頑張れるって、そう言ってました。」
「大勢の子供の中には自分より悲しい思いをしたり、自分より小さいころに引き取られたりする子もいるんだ。いろいろな子供たちがいて、失くしたものを数えるより、今、手に入れられるものを考えた方が自分も楽なんだ。こんな話は、朝陽と先生しか知らないけど。」
「言いません。不用意に漏らしたりはしません。」
「そうだね、そうしてもらった方が助かるかな。まあ、そう興味も持たれないと思うから。」
そんなことないと思うのに。
ちょっとだけクールなイメージがあるからそう思われてるけど・・・。
本当は優しい人だと教えたい。
改めて、やっぱり私はどこまでも甘かったらしい。
全てをお母さんに頼り切って、こんな年になっても好きになった人のことまで心配されて。春日さんがお世話してるのは皆若い子達だった。自分より下か、同じくらいの子。その子たちは今はしっかり独立している、そうせざるをえない環境にある。望まなくても、そうなるらしい。
飲み終わったコーヒーカップを背後に置いて、春日さんがこっちに近寄ってきた。
「後は何かある?」
肩を寄せられて、そのまま、もたれる。
私のカップも後ろに下げられた。
「また、聞きます。知りたいって思った時に。今は大丈夫です。ありがとうございました。」
「お母さんは安心してくれると思う?」
「はい、勿論です。」
笑顔で見上げた。
そこには安心してくれたような笑顔があって。
じっと見てたら、顔がもっと近くに来て、目を閉じた。
窓から入る明るい陽射しの午後。
目を開けると、相手の顔だってものすごくよく見えると思う。
色も音もない部屋でキスの音が大きく聞こえた。
「芽衣、今仕事の話をしたら申し訳ないんだけど、やっぱり下の階で働いたほうがお互いいいよね?」
そう思う。
いくら隠しても、バレるかもしれない。
なんだかあんまり外でデートってタイプじゃなさそうだけど、二人で歩いてるところを見られたりしたら・・・・。
それに朝陽さんはすぐに気がつくと思う。それはそれで、喜んでくれると思うけど、やっぱり申し訳ない気がする。
だったら、いっそ下の階で、少しでも役に立てるように働きたい。
会社ではちゃんと仕事をするから、早く終わったら・・・・は無理でも、週末には会ったり・・・・。
「それがいいと思います。その方がいいです。」
「じゃあ、研修頑張って。」
「はい。皆優しいから大丈夫です。」
本当に皆仲がいいし、優しい。
多分仕事の上でのストレスは他の会社より少ないんだと思う。
余裕があるから、雰囲気もいい。
「余計なのとはあんまり仲良くしなくていいから。」
「・・・・はい。そんなに心配されるようなことは実際ないですから。」
「ちゃんと言ってね。好きな人がいるって。」
もう遅い。
今更かも。
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