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第一章:冷徹な夫との新婚生活
失敗できない結婚
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父の書斎の扉をノックすると、中から低い声が響いた。
「入れ」
扉を開け、重厚な木の香りが鼻をつく書斎へと足を踏み入れた。父ハインリヒは窓際の大きな机に向かって書類に目を通していて、僕が入ってきても顔を上げることはなかった。
壁一面に並んだ本棚には古い書物が整然と並び、重苦しい空気が部屋を満たしている。暖炉の火がパチパチと音を立て、薄暗い部屋の中でわずかな明かりを灯していた。
僕は父の机の前に立ち、返事を待つ。父はペンを走らせ続け、インクの擦れる音だけが静寂を破る。時計の針が進む音が妙に大きく聞こえて、喉の奥が渇いていくのを感じた。立っているだけで足が震え、膝の力が抜けそうになる。
やがて父はペンを置き、ゆっくりと顔を上げた。灰色の瞳が僕を捉え、表情のない顔で僕を見つめる。感情の読めない冷たい視線に、背筋が凍りついた。
「結婚が決まった」
父の声は淡々としていた。僕の心臓が跳ね上がり、息が詰まる。
「お、お相手は……」
声が震えた。父は書類を僕の方へと押し出し、冷たい眼差しで僕を見下ろす。
「レオニード・フェルゼン伯爵だ。先の戦争の英雄で、王の覚えもめでたい。将来、有望な人材だ。二十歳でお前より五歳若いが――お前を妻にしてもいいと言ってくれた唯一の男だ」
唯一の男……そう父に言われて胸が抉られるような痛みが走る。
「来週、式を挙げる。今度こそ失敗するな」
父の言葉が胸に突き刺さり、呼吸が苦しくなる。『今度こそ』その言葉の重みが、僕の肩に圧し掛かってくる。
過去三度の結婚に、三回の離縁経験がある。全てが失敗に終わった僕の結婚生活。
「はい」
僕は返事をすると頭を下げた。父はもう僕を見ていなかった。再び書類に目を落とし、ペンを走らせ始める。僕の存在など、もうどうでもいいとでも言うように。
(まあ、三回も出戻って来たオメガの息子など、どうでもいいんだろうけど)
「下がれ」
命令に従い、僕は書斎を後にした。扉を閉めると、足の力が抜けてその場に倒れ込みそうになる。壁に手をつき、なんとか身体を支えた。
廊下を歩きながら、僕は自分の部屋へと向かう。使用人たちが行き交い、僕の姿を見るとすぐに視線を逸らして通り過ぎていく。彼らの冷たい視線が背中に突き刺さり、胸が痛んだ。
四度目の結婚。
僕はもう二十五歳になる。オメガとしては高齢出産で、妊娠できる可能性は年々減ってきている。医学の書物によれば、オメガの初産における最高齢は二十八歳だという記録があった。それもその人は一人しか授からなかった。
初産でなくても、二十八歳以降の年齢で子を産んだという症例はない。
つまり、僕にはあと三年しか残されていない。妊娠期間を考えれば、今回の結婚が最後のチャンスだと、思っている。
部屋に戻り、窓辺に立って庭を見下ろした。冬の冷たい風が窓ガラスを叩き、木々が揺れている。空は灰色に曇り、雪が降りそうな気配があった。
(誰でもいい)
心の中で呟いた。
(誰でもいいから、子どもがほしい)
それが私の唯一の願いだった。自分の子どもを抱きたい。小さな手を握り、笑顔を見たい。子どもを育て、家族と呼べる存在がほしい。ただそれだけを望んでいるのに、どうしてそれが叶わないのだろう。
『エミール・リヒテンベルクは淫乱なオメガだ』
『結婚中にもかかわらず、複数の愛人がいたらしい』
『夜ごと違う男と寝ていたという話だ』
『三人の夫は皆、呆れて離縁したそうよ』
『オメガのくせに子どもも産めないなんて、欠陥品ね』
噂は全て嘘だ。
僕には愛人などいなかったし、夫以外の男と関係を持ったこともない。しかし、噂は一度広まれば消すことはできず、真実など誰も気にしなかった。人々は面白おかしく噂話を楽しみ、僕を嘲笑う。
三度の結婚は、全て失敗に終わった。どの夫も僕を抱いてはくれたが、痛いだけで何も感じることはなかった。
濡れることもなく、ただ義務として耐えるだけの行為。夫たちは僕に飽き、やがて離縁を言い渡してきた。妊娠できない僕には価値がないと、冷たく告げられた。
(実際、オメガなのに妊娠できないのだから、僕には価値はないんだ)
僕は窓ガラスに額を押し付け、冷たさを感じた。今度こそ、今度こそは。そう自分に言い聞かせるが、不安が胸を締め付ける。
(レオニード・フェルゼン)
名前を心の中で繰り返した。黒獅子の異名を持つ戦争の英雄。冷徹で無慈悲だという噂もある。
きっと今回も同じだろう。僕を道具として扱い、妊娠しなければ捨てられる。
◇◇◇
結婚式の日は、冷たい雨が降っていた。灰色の空から降り注ぐ雨が石畳を叩き、水溜りが出来ている。馬車が教会の前に止まり、僕は深呼吸をして外へと降り立った。雨が頬に当たり、冷たさが肌を刺す。
教会の扉を開けると、中は薄暗く、蝋燭の灯りだけが揺れていた。長い通路の先には祭壇があり、そこに一人の男が立っている。黒い礼服を着た背の高い男性。黒髪に、鋭い眼光。顔立ちは整っているが、表情は冷たく、感情が読み取れない。
レオニード・フェルゼン。
僕の四人目の夫となる男。
僕はゆっくりと通路を歩き始めた。足音が教会の中に響き、蝋燭の炎が揺れる。誰もいない教会。両親も親族も、誰も出席していない。ただ神父と、レオニード、そして僕だけ。簡素で寂しい結婚式だった。
祭壇の前に立つと、レオニードは僕を見下ろした。深い紺色の瞳が僕を捉え、何の感情も浮かんでいない。まるで物を見るような、冷たい視線だった。
神父が聖書を開き、祝福の言葉を述べ始める。長い祈りの言葉が教会の中に響き渡り、僕は頭を垂れた。言葉は耳に入ってこず、ただ心臓の音だけが大きく聞こえる。
「レオニード・フェルゼン、エミール・リヒテンベルクを妻として迎え、生涯を共にすることを誓いますか」
神父の問いかけに、レオニードは短く答えた。
「誓います」
感情のこもらない、機械的な返事に僕の胸が痛んだ。
「エミール・リヒテンベルク、レオニード・フェルゼンを夫として迎え、生涯を共にすることを誓いますか」
「誓います」
神父は満足げに頷き、聖書を閉じた。
「では、指輪の交換を」
レオニードは懐から小さな箱を取り出し、中から銀の指輪を取り出した。僕の左手を掴み、無言のまま指輪を嵌める。冷たい金属が指に食い込み、まるで鎖のように感じられた。
僕も用意していた指輪をレオニードの指に嵌めた。大きく、ごつごつとした手。戦士の手だと感じた。
「誓いの口づけを」
神父の言葉に、レオニードは僕の顎を掴んだ。顔を近づけられ、唇が重ねられる。冷たく、短いキス。愛情など微塵も感じられない口づけだった。
唇が離れると、レオニードはすぐに身体を離した。神父に軽く頭を下げ、踵を返して教会を出て行こうとする。
「あの……」
僕は思わず声をかけたが、レオニードは振り返ることなく扉へと向かった。扉が開き、外の冷たい風が吹き込んでくる。レオニードの姿は雨の中へと消え、扉が閉まった。
僕は祭壇の前に一人取り残され、蝋燭の炎を見つめた。神父は困ったような表情で僕を見ていたが、何も言わずに聖書を持って去っていった。
静寂が教会を満たし、雨の音だけが響いている。僕は指に嵌められた指輪を見つめた。銀色の輪が、光を反射している。
(今までで一番、最悪の結婚かもしれない)
レオニードの冷たい眼差しが脳裏に焼き付き、胸が締め付けられる。彼は僕を妻として見ていない。ただの道具、政略結婚の駒としか思っていないのだろう。
かつての夫たちでさえ、最初は優しく僕に接してくれた。彼は最初から、冷酷な眼差しで僕を見てくる。
(今度こそ、子どもを授かりたいのに)
僕の唯一の願いで、最も叶えられない望みだ。レオニードがどれだけ冷たくても、僕を愛していなくても構わない。
ただ子どもを産むことができれば、それでいい――。
「入れ」
扉を開け、重厚な木の香りが鼻をつく書斎へと足を踏み入れた。父ハインリヒは窓際の大きな机に向かって書類に目を通していて、僕が入ってきても顔を上げることはなかった。
壁一面に並んだ本棚には古い書物が整然と並び、重苦しい空気が部屋を満たしている。暖炉の火がパチパチと音を立て、薄暗い部屋の中でわずかな明かりを灯していた。
僕は父の机の前に立ち、返事を待つ。父はペンを走らせ続け、インクの擦れる音だけが静寂を破る。時計の針が進む音が妙に大きく聞こえて、喉の奥が渇いていくのを感じた。立っているだけで足が震え、膝の力が抜けそうになる。
やがて父はペンを置き、ゆっくりと顔を上げた。灰色の瞳が僕を捉え、表情のない顔で僕を見つめる。感情の読めない冷たい視線に、背筋が凍りついた。
「結婚が決まった」
父の声は淡々としていた。僕の心臓が跳ね上がり、息が詰まる。
「お、お相手は……」
声が震えた。父は書類を僕の方へと押し出し、冷たい眼差しで僕を見下ろす。
「レオニード・フェルゼン伯爵だ。先の戦争の英雄で、王の覚えもめでたい。将来、有望な人材だ。二十歳でお前より五歳若いが――お前を妻にしてもいいと言ってくれた唯一の男だ」
唯一の男……そう父に言われて胸が抉られるような痛みが走る。
「来週、式を挙げる。今度こそ失敗するな」
父の言葉が胸に突き刺さり、呼吸が苦しくなる。『今度こそ』その言葉の重みが、僕の肩に圧し掛かってくる。
過去三度の結婚に、三回の離縁経験がある。全てが失敗に終わった僕の結婚生活。
「はい」
僕は返事をすると頭を下げた。父はもう僕を見ていなかった。再び書類に目を落とし、ペンを走らせ始める。僕の存在など、もうどうでもいいとでも言うように。
(まあ、三回も出戻って来たオメガの息子など、どうでもいいんだろうけど)
「下がれ」
命令に従い、僕は書斎を後にした。扉を閉めると、足の力が抜けてその場に倒れ込みそうになる。壁に手をつき、なんとか身体を支えた。
廊下を歩きながら、僕は自分の部屋へと向かう。使用人たちが行き交い、僕の姿を見るとすぐに視線を逸らして通り過ぎていく。彼らの冷たい視線が背中に突き刺さり、胸が痛んだ。
四度目の結婚。
僕はもう二十五歳になる。オメガとしては高齢出産で、妊娠できる可能性は年々減ってきている。医学の書物によれば、オメガの初産における最高齢は二十八歳だという記録があった。それもその人は一人しか授からなかった。
初産でなくても、二十八歳以降の年齢で子を産んだという症例はない。
つまり、僕にはあと三年しか残されていない。妊娠期間を考えれば、今回の結婚が最後のチャンスだと、思っている。
部屋に戻り、窓辺に立って庭を見下ろした。冬の冷たい風が窓ガラスを叩き、木々が揺れている。空は灰色に曇り、雪が降りそうな気配があった。
(誰でもいい)
心の中で呟いた。
(誰でもいいから、子どもがほしい)
それが私の唯一の願いだった。自分の子どもを抱きたい。小さな手を握り、笑顔を見たい。子どもを育て、家族と呼べる存在がほしい。ただそれだけを望んでいるのに、どうしてそれが叶わないのだろう。
『エミール・リヒテンベルクは淫乱なオメガだ』
『結婚中にもかかわらず、複数の愛人がいたらしい』
『夜ごと違う男と寝ていたという話だ』
『三人の夫は皆、呆れて離縁したそうよ』
『オメガのくせに子どもも産めないなんて、欠陥品ね』
噂は全て嘘だ。
僕には愛人などいなかったし、夫以外の男と関係を持ったこともない。しかし、噂は一度広まれば消すことはできず、真実など誰も気にしなかった。人々は面白おかしく噂話を楽しみ、僕を嘲笑う。
三度の結婚は、全て失敗に終わった。どの夫も僕を抱いてはくれたが、痛いだけで何も感じることはなかった。
濡れることもなく、ただ義務として耐えるだけの行為。夫たちは僕に飽き、やがて離縁を言い渡してきた。妊娠できない僕には価値がないと、冷たく告げられた。
(実際、オメガなのに妊娠できないのだから、僕には価値はないんだ)
僕は窓ガラスに額を押し付け、冷たさを感じた。今度こそ、今度こそは。そう自分に言い聞かせるが、不安が胸を締め付ける。
(レオニード・フェルゼン)
名前を心の中で繰り返した。黒獅子の異名を持つ戦争の英雄。冷徹で無慈悲だという噂もある。
きっと今回も同じだろう。僕を道具として扱い、妊娠しなければ捨てられる。
◇◇◇
結婚式の日は、冷たい雨が降っていた。灰色の空から降り注ぐ雨が石畳を叩き、水溜りが出来ている。馬車が教会の前に止まり、僕は深呼吸をして外へと降り立った。雨が頬に当たり、冷たさが肌を刺す。
教会の扉を開けると、中は薄暗く、蝋燭の灯りだけが揺れていた。長い通路の先には祭壇があり、そこに一人の男が立っている。黒い礼服を着た背の高い男性。黒髪に、鋭い眼光。顔立ちは整っているが、表情は冷たく、感情が読み取れない。
レオニード・フェルゼン。
僕の四人目の夫となる男。
僕はゆっくりと通路を歩き始めた。足音が教会の中に響き、蝋燭の炎が揺れる。誰もいない教会。両親も親族も、誰も出席していない。ただ神父と、レオニード、そして僕だけ。簡素で寂しい結婚式だった。
祭壇の前に立つと、レオニードは僕を見下ろした。深い紺色の瞳が僕を捉え、何の感情も浮かんでいない。まるで物を見るような、冷たい視線だった。
神父が聖書を開き、祝福の言葉を述べ始める。長い祈りの言葉が教会の中に響き渡り、僕は頭を垂れた。言葉は耳に入ってこず、ただ心臓の音だけが大きく聞こえる。
「レオニード・フェルゼン、エミール・リヒテンベルクを妻として迎え、生涯を共にすることを誓いますか」
神父の問いかけに、レオニードは短く答えた。
「誓います」
感情のこもらない、機械的な返事に僕の胸が痛んだ。
「エミール・リヒテンベルク、レオニード・フェルゼンを夫として迎え、生涯を共にすることを誓いますか」
「誓います」
神父は満足げに頷き、聖書を閉じた。
「では、指輪の交換を」
レオニードは懐から小さな箱を取り出し、中から銀の指輪を取り出した。僕の左手を掴み、無言のまま指輪を嵌める。冷たい金属が指に食い込み、まるで鎖のように感じられた。
僕も用意していた指輪をレオニードの指に嵌めた。大きく、ごつごつとした手。戦士の手だと感じた。
「誓いの口づけを」
神父の言葉に、レオニードは僕の顎を掴んだ。顔を近づけられ、唇が重ねられる。冷たく、短いキス。愛情など微塵も感じられない口づけだった。
唇が離れると、レオニードはすぐに身体を離した。神父に軽く頭を下げ、踵を返して教会を出て行こうとする。
「あの……」
僕は思わず声をかけたが、レオニードは振り返ることなく扉へと向かった。扉が開き、外の冷たい風が吹き込んでくる。レオニードの姿は雨の中へと消え、扉が閉まった。
僕は祭壇の前に一人取り残され、蝋燭の炎を見つめた。神父は困ったような表情で僕を見ていたが、何も言わずに聖書を持って去っていった。
静寂が教会を満たし、雨の音だけが響いている。僕は指に嵌められた指輪を見つめた。銀色の輪が、光を反射している。
(今までで一番、最悪の結婚かもしれない)
レオニードの冷たい眼差しが脳裏に焼き付き、胸が締め付けられる。彼は僕を妻として見ていない。ただの道具、政略結婚の駒としか思っていないのだろう。
かつての夫たちでさえ、最初は優しく僕に接してくれた。彼は最初から、冷酷な眼差しで僕を見てくる。
(今度こそ、子どもを授かりたいのに)
僕の唯一の願いで、最も叶えられない望みだ。レオニードがどれだけ冷たくても、僕を愛していなくても構わない。
ただ子どもを産むことができれば、それでいい――。
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