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第一章:運命の婚約
十六歳、初めての嫉妬
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ブリーチをいただいてから三日後、王宮で催された夜会に出席した。
父に連れられ、華やかな広間に足を踏み入れる。シャンデリアの光が煌めき、無数の蝋燭が部屋を照らしていた。
楽団の音色が響き、優雅なワルツが奏でられていた。貴族たちが色とりどりのドレスや正装に身を包み、優雅に会話を交わしている。笑い声があちこちから聞こえてきて、華やいだ雰囲気が広間を満たしていた。
私は淡いピンクのドレスを纏い、父の後ろを歩いていた。ドレスは母が選んでくれたもので、レースの装飾が施された可愛らしいデザインだった。
でも、周囲の令嬢たちと比べると、やはり幼く見える気がした。大人の女性たちは深い色のドレスを着こなし、宝石を身につけ、成熟した美しさを放っている。
(私は女性としてまだ未熟だわ)
これではいつまでたっても、エドワールに振り向いてもらえない。
ふと視線をあげれば、窓際にいるエドワールを見つけた。黒いタキシードに身を包み、いつもの無表情で、一人グラスを傾けている。月明かりが窓から差し込み、彼の銀髪を淡く照らしていた。
(エドワール様!)
私は彼に近づこうとしたが、足を止めた。
一人の女性がエドワールに近づいていくのが見えたから。
プラチナブロンドの長い髪が、シャンデリアの光を受けて輝いている。紫水晶色の瞳が美しい。深紅のドレスが身体の曲線を美しく際立たせ、首元には大粒のルビーのネックレスが輝いていた。
まさに私が想像する大人の女性像だ。
ドレスの着こなしが洗練されていて、歩き方一つとっても優雅だった。私よりずっと年上で、大人の女性の色気を纏っている。
(私とは全然違う)
「ミリエル・フォン・アーデルハイト公爵令嬢だ」
父が小声で教えてくれた。
「宮廷で外交を担当されている、優秀な方だよ。若くして公爵家を支えておられる」
ミリエル。名前は聞いたことがある。
社交界の華と呼ばれ、多くの男性貴族から慕われている女性だ。多くの殿方から求婚されているのに、いまだに結婚を決めないという――。
ミリエルがエドワールに声をかけた。エドワールが振り返る。一瞬、彼の表情が変わったように見えた。
距離が近い。ミリエルがエドワールの隣に立ち、親しげに話しかけている。エドワールは一歩も引かず、ミリエルの言葉に耳を傾けていた。
ミリエルが何か言い、エドワールの肩に手を置く。まるで長年の友人のような、あるいはそれ以上の親密さを感じさせる仕草。ミリエルが微笑み、また何か言葉を交わす。グラスを傾け合い、乾杯するような仕草をした。
そして——エドワールが笑った。
(ああ……そういうことなんだ)
口角が上がり、表情が柔らかくなる。エドワールが、笑っている。ミリエルと話しながら、楽しそうに笑っていた。時折頷き、グラスを傾け、またミリエルの言葉に微笑む。
気づきたくなかったが、理解してしまった。
ミリエルが結婚をしない理由も、エドワールが私にキスしなかったのも――。
全てはそういうことなんだ。
胸に鋭い痛みが走った。
息が詰まり、視界が歪む。エドワールの笑顔。私には見せてくれなかった笑顔だ。ミリエルには見せている。あんなに自然に、心を開いて。二人の間には、私が決して入り込めない親密さがあった。
(私にはエドワール様を笑顔する方法がわからないわ)
「レティシア? 顔色が悪いが……」
父が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫です。人の多さに酔ってしまったのかもしれません」
ようやく絞り出した声は、震えていた。父が私の肩を支えてくれる。
「休憩室で休むかい?」
「いえ、大丈夫です」
全身は氷のように冷たく、全身が凍りついていくようだった。父から離れると、ふらつき足取りで、会場の隅へと移動した。
今は、誰の目にも触れられたくない。とくにミリエルとエドワールには自分の姿を見られたくなかった。
少し離れたところで父が心配そうに見ているのがわかったが、大丈夫だと笑顔を見せた。父は不安そうにしつつも、他の貴族に話しかけられて私から視線を外した。
(普通にしなくちゃ……)
ぎゅっと拳を握り、身体を強張らせた。
視線を動かして、エドワールたちへと向ける。
ミリエルがエドワールの腕に軽く触れていた。エドワールは自然にその手を受け入れている。拒絶しない。嫌がらない。私がキスしそうになった時は、あんなに慌てて身を引いたのに。ミリエルには触れられても平気なようだ。
(彼の好きな人は、ミリエルだわ)
私は家同士の発展のために結んだ婚姻なだけ。
確信が胸に落ちた。だから私を拒んだ。愛する人が別にいるから、私に触れることができなかった。
ミリエルのような、聡明で美しく、大人の女性がエドワールの好みなのだろう。
その場から逃げ出したい衝動に駆られたが、身体が言うことを聞かなかった。ただエドワールとミリエルから視線を逸らして会場の隅で、胸の痛みが落ち着くを待っているしかできない。目の端に映る二人の会話は続き、時折笑い声が聞こえてくる。ミリエルの優雅な笑い声と、エドワールの低く穏やかな笑い声に胸が張り裂けそうだった
楽団がワルツを奏で始めた。貴族たちがダンスフロアへと移動していく。ミリエルがエドワールに何か言い、手を差し出した。エドワールが僅かに躊躇うような表情を見せたが、ミリエルの笑顔に頷いた。
二人がダンスフロアへと向かう。美しい二人の光景に、会場の視線は注がれた。
私は静かにそっと、二人に背を向ける。壁に身体を預けて、苦しい胸を抑えた。
(どうしたら私は、魅力的な大人になれるだろう)
こぼれ落ちそうになる涙を堪えると、唇を噛み締めた。
(まだ泣いては駄目よ)
人が多すぎる。泣くのは家に帰ってから――。
「大丈夫ですか?」
男性の声がして顔をあげた。優しい笑みでこちらを見ている。
「ええ、少し緊張してしまって。人が多いところは苦手なんです」
震える手を重ね合わせると、にっこりと微笑んだ。
「可愛いらしいドレスがお似合いで、つい話かけてしまいました。良かったら――」
男性がレティシアに手を差し伸べてくる。
「レティシア」
背後から声がかけられた。聞き慣れた低い声。心臓が跳ね上がる。振り返ると、エドワールが立っていた。
いつもの無表情。さっきミリエルに見せていた笑顔は、もうどこにもなかった。冷たく、遠い表情。氷の侯爵の顔になっている。
「エドワール様」
私は小さく頭を下げた。声が震えないように、必死で抑える。喉が渇き、息が苦しい。
(どうしてここにいるのかしら)
ダンスしていたはずなのに。
いつから自分の存在に気づいていたのだろうか。
嫉妬で震える身体を、エドワールに見られていたのかもしれないと思うと居た堪れなくなる。
レティシアに声をかけてきた男性は、エドワールの姿を見るなり「またあとで」と逃げるように立ち去ってしまう。
きっとダンスを申し込もうとしていたところに、エドワールが来たから退散したのだろう。
「顔色が悪いが、体調が悪いのか?」
淡々とした口調だ。
「いえ、緊張してしまって」
エドワールの銀青色の瞳が私を見つめている。さっきまでミリエルを見つめていた時の温かさは、微塵も感じられない。
(婚約者である私を見つけてしまったから、致し方なくこちらに来たんだわ)
エドワールの楽しい時間を奪ってしまったのかもしれないと思うと、自分の存在が邪悪なものに感じられた。
「無理をするな。休憩室で休んだ方がいい」
心配するように私の腰に手を回してくるエドワール。ふわっと香ってきたフローラルな香水の匂いに、思わず顔を背けてしまった。
(これは彼の匂いじゃない)
女性がつける香水の匂い。さっきまで一緒にいたミリエルの匂いだ。
「ご心配をおかけてして申し訳ありません。でも、大丈夫です。久しぶりに父に連れられて、大きな場に参加したので、少々人に酔っただけですので」
私は笑顔を作り、エドワールとの距離をあけた。顔の筋肉が強張り、ぎこちない笑顔になっていただろう。エドワールの表情が僅かに曇った。眉が僅かに寄せられ、何か言いたげな表情でこちらを見つめている。
「……そうか」
短い返答。会話が途切れた。沈黙が重くのしかかる。
周囲では楽しげな会話が続き、笑い声が響いている。
(私はミリエルみたいに楽しい会話ができない)
何か話さなければと思ったが、何も言葉が出てこなかった。エドワールも何も言わず、ただ私を見つめている。視線が重い。
「ブローチ――」
胸元につけているブローチに、エドワールが気づいてくれたようだ。
私は胸元に手を当てる。淡いピンクのドレスの胸元には、銀のブローチが輝いている。エドワールが出張から戻った時にくれた、あのブローチ。
「先日いただいたブローチ、今日のドレスにつけさせていただいております」
明るく言った。エドワールの視線が私の胸元に向けられる。ブローチを見つめている。
「……ああ」
短い返事。それだけ。表情は変わらない。無表情のまま。嬉しいのか、嬉しくないのか、何も読み取れなかった。
「とても綺麗で……気に入っております」
私は笑顔で続けた。エドワールに喜んでほしかった。少しでも、笑顔を見せてほしいと願った。でも、エドワールは無表情のまま。
比べたくなくても、比べてしまう。私はミリエルみたいに、彼の笑顔を引き出せない。
「似合っている」
淡々とした口調で感情が込められていない。お世辞のような言葉に胸が凍えた。心では落ち込みながらも、私は笑顔を保ち続ける。
「ありがとうございます」
礼を言った。エドワールが頷き、会話が途切れた。再び、沈黙が流れる。
「エドワール様の次のご出張は、いつ頃になりますか?」
いつもする質問と同じ。私には会話を広げる能力がないのだと、痛感する。
「来月だ。二週間ほど」
「そうですか……お気をつけて」
「ああ」
短い返答。やっぱり会話が続かない。
私と話していて、エドワール様は楽しいですか。
嬉しいですか。それとも、退屈ですか。
聞きたくても、言葉にはできなかった。
「緊張は解けか? 少し顔色が良くなったように見える」
エドワールが尋ねた。
「はい、エドワール様のおかげです」
笑顔で答えると、エドワールが僅かに眉を寄せる。何か言いたげな表情なのに、何も言ってくれない。ただ私を見つめているだけ。
「レティシア……」
名前を呼ばれた。顔を上げると彼が何か言いかけて、止まった。
その時、エドワールが誰かに呼ばれた。貴族の一人が近づいてきて、エドワールに話しかけ始めた。外交の話らしく、私には難しい用語が飛び交う。私は二人の会話の邪魔にならないようにスッと後ろに下がるとエドワールの視線が動いた。
「すまない。少し席を外す」
「はい。どうぞ、お気になさらず」
私は笑顔で答えると、エドワールが去っていく。大きな背中が遠ざかっていくのを見つめた。
彼の姿が消えると、私の作り笑顔が崩れる。
結局、私との会話ではエドワールの笑顔は引き出せなかった。エドワールは無表情のままで話も盛り上がらなかった。プレゼントのことを伝えても、淡々とした反応だった。
ダンスも誘われなかった――。
答え合わせをしてしまった気分だ。
ミリエルと私。彼にとって、どちらが大切な女性なのか。
「ああ……」
小さく声が漏れた。
気づきたくなかった。何も知らずにいられたら、私は今日、エドワールに声をかけられただけで舞い上がっていただろうに。
(この気持ちに蓋をしよう)
エドワールに迷惑をかけないように、彼が自由に恋愛ができるように。私は何も知らないふりをし続けよう。
私は父にひと足先に帰る旨を伝えて、会場を後にした。
月明かりが窓から差し込み、廊下を淡く照らしている。静かで、冷たい光。私はその光の中で、彼への気持ちを封印した。
――あれから二年の月日が過ぎ、私は十八歳になった。エドワールとの心の距離は開いたまま。
舞踏会では、いつもミリエルと笑うエドワール。
婚約者として私にできることといえば、彼の恋愛をそっと応援することだけ。
でももう……終わりにしよう。
彼が本当に好きな人と一緒になれるように私は身を引く――そう覚悟を決めた。
父に連れられ、華やかな広間に足を踏み入れる。シャンデリアの光が煌めき、無数の蝋燭が部屋を照らしていた。
楽団の音色が響き、優雅なワルツが奏でられていた。貴族たちが色とりどりのドレスや正装に身を包み、優雅に会話を交わしている。笑い声があちこちから聞こえてきて、華やいだ雰囲気が広間を満たしていた。
私は淡いピンクのドレスを纏い、父の後ろを歩いていた。ドレスは母が選んでくれたもので、レースの装飾が施された可愛らしいデザインだった。
でも、周囲の令嬢たちと比べると、やはり幼く見える気がした。大人の女性たちは深い色のドレスを着こなし、宝石を身につけ、成熟した美しさを放っている。
(私は女性としてまだ未熟だわ)
これではいつまでたっても、エドワールに振り向いてもらえない。
ふと視線をあげれば、窓際にいるエドワールを見つけた。黒いタキシードに身を包み、いつもの無表情で、一人グラスを傾けている。月明かりが窓から差し込み、彼の銀髪を淡く照らしていた。
(エドワール様!)
私は彼に近づこうとしたが、足を止めた。
一人の女性がエドワールに近づいていくのが見えたから。
プラチナブロンドの長い髪が、シャンデリアの光を受けて輝いている。紫水晶色の瞳が美しい。深紅のドレスが身体の曲線を美しく際立たせ、首元には大粒のルビーのネックレスが輝いていた。
まさに私が想像する大人の女性像だ。
ドレスの着こなしが洗練されていて、歩き方一つとっても優雅だった。私よりずっと年上で、大人の女性の色気を纏っている。
(私とは全然違う)
「ミリエル・フォン・アーデルハイト公爵令嬢だ」
父が小声で教えてくれた。
「宮廷で外交を担当されている、優秀な方だよ。若くして公爵家を支えておられる」
ミリエル。名前は聞いたことがある。
社交界の華と呼ばれ、多くの男性貴族から慕われている女性だ。多くの殿方から求婚されているのに、いまだに結婚を決めないという――。
ミリエルがエドワールに声をかけた。エドワールが振り返る。一瞬、彼の表情が変わったように見えた。
距離が近い。ミリエルがエドワールの隣に立ち、親しげに話しかけている。エドワールは一歩も引かず、ミリエルの言葉に耳を傾けていた。
ミリエルが何か言い、エドワールの肩に手を置く。まるで長年の友人のような、あるいはそれ以上の親密さを感じさせる仕草。ミリエルが微笑み、また何か言葉を交わす。グラスを傾け合い、乾杯するような仕草をした。
そして——エドワールが笑った。
(ああ……そういうことなんだ)
口角が上がり、表情が柔らかくなる。エドワールが、笑っている。ミリエルと話しながら、楽しそうに笑っていた。時折頷き、グラスを傾け、またミリエルの言葉に微笑む。
気づきたくなかったが、理解してしまった。
ミリエルが結婚をしない理由も、エドワールが私にキスしなかったのも――。
全てはそういうことなんだ。
胸に鋭い痛みが走った。
息が詰まり、視界が歪む。エドワールの笑顔。私には見せてくれなかった笑顔だ。ミリエルには見せている。あんなに自然に、心を開いて。二人の間には、私が決して入り込めない親密さがあった。
(私にはエドワール様を笑顔する方法がわからないわ)
「レティシア? 顔色が悪いが……」
父が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫です。人の多さに酔ってしまったのかもしれません」
ようやく絞り出した声は、震えていた。父が私の肩を支えてくれる。
「休憩室で休むかい?」
「いえ、大丈夫です」
全身は氷のように冷たく、全身が凍りついていくようだった。父から離れると、ふらつき足取りで、会場の隅へと移動した。
今は、誰の目にも触れられたくない。とくにミリエルとエドワールには自分の姿を見られたくなかった。
少し離れたところで父が心配そうに見ているのがわかったが、大丈夫だと笑顔を見せた。父は不安そうにしつつも、他の貴族に話しかけられて私から視線を外した。
(普通にしなくちゃ……)
ぎゅっと拳を握り、身体を強張らせた。
視線を動かして、エドワールたちへと向ける。
ミリエルがエドワールの腕に軽く触れていた。エドワールは自然にその手を受け入れている。拒絶しない。嫌がらない。私がキスしそうになった時は、あんなに慌てて身を引いたのに。ミリエルには触れられても平気なようだ。
(彼の好きな人は、ミリエルだわ)
私は家同士の発展のために結んだ婚姻なだけ。
確信が胸に落ちた。だから私を拒んだ。愛する人が別にいるから、私に触れることができなかった。
ミリエルのような、聡明で美しく、大人の女性がエドワールの好みなのだろう。
その場から逃げ出したい衝動に駆られたが、身体が言うことを聞かなかった。ただエドワールとミリエルから視線を逸らして会場の隅で、胸の痛みが落ち着くを待っているしかできない。目の端に映る二人の会話は続き、時折笑い声が聞こえてくる。ミリエルの優雅な笑い声と、エドワールの低く穏やかな笑い声に胸が張り裂けそうだった
楽団がワルツを奏で始めた。貴族たちがダンスフロアへと移動していく。ミリエルがエドワールに何か言い、手を差し出した。エドワールが僅かに躊躇うような表情を見せたが、ミリエルの笑顔に頷いた。
二人がダンスフロアへと向かう。美しい二人の光景に、会場の視線は注がれた。
私は静かにそっと、二人に背を向ける。壁に身体を預けて、苦しい胸を抑えた。
(どうしたら私は、魅力的な大人になれるだろう)
こぼれ落ちそうになる涙を堪えると、唇を噛み締めた。
(まだ泣いては駄目よ)
人が多すぎる。泣くのは家に帰ってから――。
「大丈夫ですか?」
男性の声がして顔をあげた。優しい笑みでこちらを見ている。
「ええ、少し緊張してしまって。人が多いところは苦手なんです」
震える手を重ね合わせると、にっこりと微笑んだ。
「可愛いらしいドレスがお似合いで、つい話かけてしまいました。良かったら――」
男性がレティシアに手を差し伸べてくる。
「レティシア」
背後から声がかけられた。聞き慣れた低い声。心臓が跳ね上がる。振り返ると、エドワールが立っていた。
いつもの無表情。さっきミリエルに見せていた笑顔は、もうどこにもなかった。冷たく、遠い表情。氷の侯爵の顔になっている。
「エドワール様」
私は小さく頭を下げた。声が震えないように、必死で抑える。喉が渇き、息が苦しい。
(どうしてここにいるのかしら)
ダンスしていたはずなのに。
いつから自分の存在に気づいていたのだろうか。
嫉妬で震える身体を、エドワールに見られていたのかもしれないと思うと居た堪れなくなる。
レティシアに声をかけてきた男性は、エドワールの姿を見るなり「またあとで」と逃げるように立ち去ってしまう。
きっとダンスを申し込もうとしていたところに、エドワールが来たから退散したのだろう。
「顔色が悪いが、体調が悪いのか?」
淡々とした口調だ。
「いえ、緊張してしまって」
エドワールの銀青色の瞳が私を見つめている。さっきまでミリエルを見つめていた時の温かさは、微塵も感じられない。
(婚約者である私を見つけてしまったから、致し方なくこちらに来たんだわ)
エドワールの楽しい時間を奪ってしまったのかもしれないと思うと、自分の存在が邪悪なものに感じられた。
「無理をするな。休憩室で休んだ方がいい」
心配するように私の腰に手を回してくるエドワール。ふわっと香ってきたフローラルな香水の匂いに、思わず顔を背けてしまった。
(これは彼の匂いじゃない)
女性がつける香水の匂い。さっきまで一緒にいたミリエルの匂いだ。
「ご心配をおかけてして申し訳ありません。でも、大丈夫です。久しぶりに父に連れられて、大きな場に参加したので、少々人に酔っただけですので」
私は笑顔を作り、エドワールとの距離をあけた。顔の筋肉が強張り、ぎこちない笑顔になっていただろう。エドワールの表情が僅かに曇った。眉が僅かに寄せられ、何か言いたげな表情でこちらを見つめている。
「……そうか」
短い返答。会話が途切れた。沈黙が重くのしかかる。
周囲では楽しげな会話が続き、笑い声が響いている。
(私はミリエルみたいに楽しい会話ができない)
何か話さなければと思ったが、何も言葉が出てこなかった。エドワールも何も言わず、ただ私を見つめている。視線が重い。
「ブローチ――」
胸元につけているブローチに、エドワールが気づいてくれたようだ。
私は胸元に手を当てる。淡いピンクのドレスの胸元には、銀のブローチが輝いている。エドワールが出張から戻った時にくれた、あのブローチ。
「先日いただいたブローチ、今日のドレスにつけさせていただいております」
明るく言った。エドワールの視線が私の胸元に向けられる。ブローチを見つめている。
「……ああ」
短い返事。それだけ。表情は変わらない。無表情のまま。嬉しいのか、嬉しくないのか、何も読み取れなかった。
「とても綺麗で……気に入っております」
私は笑顔で続けた。エドワールに喜んでほしかった。少しでも、笑顔を見せてほしいと願った。でも、エドワールは無表情のまま。
比べたくなくても、比べてしまう。私はミリエルみたいに、彼の笑顔を引き出せない。
「似合っている」
淡々とした口調で感情が込められていない。お世辞のような言葉に胸が凍えた。心では落ち込みながらも、私は笑顔を保ち続ける。
「ありがとうございます」
礼を言った。エドワールが頷き、会話が途切れた。再び、沈黙が流れる。
「エドワール様の次のご出張は、いつ頃になりますか?」
いつもする質問と同じ。私には会話を広げる能力がないのだと、痛感する。
「来月だ。二週間ほど」
「そうですか……お気をつけて」
「ああ」
短い返答。やっぱり会話が続かない。
私と話していて、エドワール様は楽しいですか。
嬉しいですか。それとも、退屈ですか。
聞きたくても、言葉にはできなかった。
「緊張は解けか? 少し顔色が良くなったように見える」
エドワールが尋ねた。
「はい、エドワール様のおかげです」
笑顔で答えると、エドワールが僅かに眉を寄せる。何か言いたげな表情なのに、何も言ってくれない。ただ私を見つめているだけ。
「レティシア……」
名前を呼ばれた。顔を上げると彼が何か言いかけて、止まった。
その時、エドワールが誰かに呼ばれた。貴族の一人が近づいてきて、エドワールに話しかけ始めた。外交の話らしく、私には難しい用語が飛び交う。私は二人の会話の邪魔にならないようにスッと後ろに下がるとエドワールの視線が動いた。
「すまない。少し席を外す」
「はい。どうぞ、お気になさらず」
私は笑顔で答えると、エドワールが去っていく。大きな背中が遠ざかっていくのを見つめた。
彼の姿が消えると、私の作り笑顔が崩れる。
結局、私との会話ではエドワールの笑顔は引き出せなかった。エドワールは無表情のままで話も盛り上がらなかった。プレゼントのことを伝えても、淡々とした反応だった。
ダンスも誘われなかった――。
答え合わせをしてしまった気分だ。
ミリエルと私。彼にとって、どちらが大切な女性なのか。
「ああ……」
小さく声が漏れた。
気づきたくなかった。何も知らずにいられたら、私は今日、エドワールに声をかけられただけで舞い上がっていただろうに。
(この気持ちに蓋をしよう)
エドワールに迷惑をかけないように、彼が自由に恋愛ができるように。私は何も知らないふりをし続けよう。
私は父にひと足先に帰る旨を伝えて、会場を後にした。
月明かりが窓から差し込み、廊下を淡く照らしている。静かで、冷たい光。私はその光の中で、彼への気持ちを封印した。
――あれから二年の月日が過ぎ、私は十八歳になった。エドワールとの心の距離は開いたまま。
舞踏会では、いつもミリエルと笑うエドワール。
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