支配者の刻印〜愛を知らない獣が、借金オメガを溺愛する〜

ひなた翠

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第四章:愛を知らない獣

ただれたバイト先

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 大学の講義を終えて、一度自宅に帰った。

 キッチンに立ち、歩の夕飯を作る。今夜は肉じゃがとサラダ、味噌汁だ。作り置きメニューを活用しながら、栄養バランスの良いメニューを選んだ。鍋から湯気が立ち上り、醤油の甘い香りが部屋に広がっていく。

 食卓に夕飯を並べ、食事の横にメモ用紙を置いた。

「塾、お疲れ様でした。ご飯食べてね。バイトに行ってきます」

 ペンで書いた文字を確認し、リュックを背負う。玄関で靴を履きながら時計を見ると、午後六時半を指していた。

 マンションを出て、地下鉄の駅へと向かう。

 夕暮れの街を歩き、階段を降りて改札を抜ける。ホームに立ち、電車を待った。やがて電車が到着し、ドアが開く。車内に乗り込み、空いている席に座った。

 職場のビルまでは、地下鉄で二駅ほどの距離だ。

 鬼頭さんは社用車で毎日、送迎されている。僕は電車で通い、帰りだけは鬼頭さんと一緒に社用車で帰宅させてもらっていた。

 二駅目で降りると、改札を通り抜ける。地上に出ればすぐに鬼頭さんの会社が入っているビルがあった。
 エレベーターに乗り、鬼頭さんの会社があるフロアのボタンを押す。上昇する感覚が身体に伝わり、数字が増えていくのを眺めた。

「お疲れ様です」

 エレベーターを降りるとすぐに受付の女性が笑顔で迎えてくれた。僕も軽く頭を下げ、奥へと進む。広いオフィスフロアが目に入り、デスクに向かう社員たちの姿が見えた。パソコンのキーボードを叩く音が響き、電話の声が聞こえてくる。

 オフィスでバイトすればいいと鬼頭さんに言われたが、僕が想像していたバイト内容とはかけ離れていた。
 ざっくり言うと、鬼頭さんの職場に行って帰宅をただ待つ……だけだった。

 書類整理とか、電話番とか――事務仕事的なものを与えてくれるのかと期待していたのだが、全くそういったことはなく、ただ事務所の奥にあるソファに座り、大学の勉強をしながら鬼頭さんの帰宅時間になるのを待つのが僕の仕事らしい。

 たまに書類のコピーをお願いされたり、買い出しに行ったりはするが、基本は待つだけ。バイトと呼べるのか疑問に思うほど、何もしていない。

 ソファに座り、リュックから教科書を取り出す。

 明日の講義の予習を始め、ノートにペンを走らせた。文字を書く音だけが静かに響き、集中して勉強を続ける。
 オフィスのみんなは僕に優しかった。

 大学の課題をしていると、飴をくれたりジュースをくれたりする。「頑張ってるね」と声をかけてくれたり、「休憩も大事だよ」と笑顔を向けてくれる。

 しばらくして、外出から帰ってきた虎井鉄平さんが入口を通った。

「おっ! 勉強してんの? えらいね~」

 満面の笑みでそう言いながら、虎井さんが通り過ぎていく。がっしりとした体格の虎井さんは、いつも明るく元気だった。

「虎井さん!」

僕が呼び止めると虎井さんが足を止め、「ん?」と明るい返事をして振り返る。黒い瞳が僕を捉え、首を傾げていた。

「なにかお手伝いすることありませんか?」
 ソファから立ち上がり、虎井さんに尋ねた。

「バイト中に勉強しているのってなんだか悪い気がして」
「え~? とくにないよ」

 虎井さんが首を横に振った。そう言いながら周囲を見渡すと、デスクに向かっている人たちも顔をあげて頷いている。みんなが「ないよ」という表情を浮かべており、僕はますます申し訳ない気持ちになった。

「でもバイトしているのに……」
 言葉を続けようとすると、虎井さんが手を振った。

「ん~、バイトの定義って俺が思うに、会社が柊くんを拘束している対価として払うものだと思うんだよね」
 虎井さんが説明を始めた。真剣な顔つきになり、僕の目をまっすぐ見つめてくる。

「こうして、現に今は拘束されてるわけじゃん? これに見合うだけのお金をもらってるんだからいいんじゃない?」
「仕事してなっ……」

 僕が言い返そうとすると、虎井さんが笑顔で遮った。

「してる、してる~」

 にこにこと笑う虎井さんが僕に近づいてきた。肩をガシッと掴まれ、「あっち見て」と指をさされる。視線を誘導された先には、応接室の小窓から鬼頭さんが見えた。

 夕方に訪れた人と、鬼頭さんが何やら楽しげに話を弾ませていた。

 スーツ姿の鬼頭さんが椅子に座り、向かいに座る男性と会話をしている。鬼頭さんの表情が穏やかで、口角が上がっていた。リラックスした様子で、時折笑みを浮かべている。

「見て、社長の顔。めっちゃ穏やかに笑ってるでしょう?」
 虎井さんが囁いた。確かに、鬼頭さんは穏やかな表情をしている。

「――はい」
 あんな表情を浮かべる鬼頭さんを見るのは、珍しい気がした。

「あの笑顔、柊くんがいるからこその笑顔」
 虎井さんの言葉に、僕は眉間に力を入れた。首を傾げ、虎井さんを見上げる。

「言っている意味がわからないんですけど」
「う~ん」

 虎井さんが考え込むような表情を浮かべた。顎に手を当て、言葉を選んでいる様子だった。

「うちの営業時間って午後五時半までなのよ。今、八時」

 時計を見ると、確かに午後八時を回っていた。窓の外は暗くなっており、ビルの明かりが灯っている。

「うちの社長、営業時間以外での対応ってマジでキレる。超絶不機嫌で、なんだったら夕方五時過ぎに飛び込み営業とかあったら、足蹴りして追い出すくらいの性格の人――」

 虎井さんが真剣な顔で続けた。声を潜め、僕の耳元で囁くように話してくる。

「で、あの顔をもう一度見てごらん?」

 僕は再び応接室に視線を向けた。鬼頭さんがまだ穏やかに笑っており、男性と和やかに話している。

「――はあ」
「笑ってるよね? 笑顔だよね?」
「……はい」

 僕は頷いた。確かに笑っている。優しい表情で、相手の話を聞いている様子だった。

「どういうことだと思う?」
 虎井さんが問いかけてきた。僕は考え込み、答えを探す。

「お金になる相談ごとだから?」
「ちっがーう!」

 虎井さんが大きな声を出した。周りの社員たちが笑い、僕を見つめてくる。

「柊くん、鈍感。もう……じれったいなあ」
 虎井さんが呆れたように言い、僕の肩を揺らした。

「柊くんがいるからなの」
「え?」
 意味がわからなかった。

(僕がいるだけで、鬼頭さんの態度が変わる?)

「ここに柊くんがいるだけで、会社が円滑に進むの。これってすごいことなんだよ。うちの会社からしたら」

 虎井さんが真剣な顔で説明を続けた。肩に置かれた手に力が込められ、僕を見つめる瞳が真剣だった。

「まあ、残業はよくないけど。営業時間が五時半までだけど、社長はいろいろ仕事を抱えているから、気づくと深夜過ぎてまで仕事とかザラだし」

 虎井さんが続ける。声に疲労が混じっており、本当に大変だったのだと伝わってきた。

「それが、柊くんを抱きたいからってちゃんと家に帰るし、ご飯も食べてるみたいだし……」
 顔が熱くなった。抱きたいからって、こんな大勢の人がいる前で言わないでほしい。

「もう社長の近くにいてくれるだけで、俺らの給料からバイト代を出して欲しいって思うくらい最高な状態になるわけ」

 虎井さんの声が聞こえているのか、オフィスにいる誰もが深く頷いていた。僕がいるだけで、鬼頭さんの性格がそこまで違うとは想像できない。

 一緒に働いている人たちがそう言うのだから、きっと本当なのだろう。信じ難いが――僕の存在が、鬼頭さんに影響を与えているらしい。

「柊くんがここで勉強して、時々社長の溜まった熱を抜いてくれているだけでありがたいんだから――」
「抜くっ……!」

 虎井さんの言葉に、僕は顔を真っ赤にした。

 熱を抜くという表現が、あまりにも直接的で恥ずかしい。周りの社員たちが笑い声を上げ、僕はますます顔が熱くなった。

「あ、時々じゃないか。ほぼ毎日……かな? 昨日は社長室でしてたもんね」
「――はぁ?」

 聞こえていたのだろうか。
 昨日の夜、鬼頭さんの社長室で抱かれた。声を堪えようとしたが、漏れていたのかもしれない。

 顔が真っ赤になる。

 基本は休日のみという話なのに、たまに平日の夜にもオフィスでしたがるから断れなかった。断ったほうが良かったかもしれないと、今更ながらに思う。

「ああ、俺らは気にしてないから」
 虎井さんが笑顔で言った。手をひらひらと振り、気にするなという仕草をする。

「むしろ、社長が穏やかになるなら、どんどんよろしく! 的なスタンスだから」
 虎井さんがにっこりと笑うと、余計に恥ずかしさが増長した。

 周りの社員たちも頷いており、みんなが同じ考えなのだと分かる。僕がオフィスで鬼頭さんと抱き合うことを、推奨しているようだった。

「――僕は、恥ずかしいです」

 真っ赤になった顔を両手で覆い、身体を丸めた。虎井さんが楽しそうにケラケラと笑い声をあげた。

「まあ、確かにそうだよね」
 虎井さんの声が優しくなった。僕の頭をぽんぽんと撫でてくる。

「まあ、そこら辺は割り切ってもらって――。そういうことだから、大学の勉強、頑張ってね」

 ひらひらと手を振って、虎井さんは自分のデスクに戻っていく。足音が遠ざかり、椅子に座る音が聞こえた。僕はソファに座り直すと、教科書で熱くなった顔を仰いだ。

 紙の感触が頬に触れ、少しだけ冷たい。
 こんなバイト……ただれている。

 でも――嬉しいと思ってしまうのはなんでだろう。
 応接室の方を見ると、鬼頭さんがまだ穏やかに笑っていた。
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