支配者の刻印〜愛を知らない獣が、借金オメガを溺愛する〜

ひなた翠

文字の大きさ
13 / 25
第四章:愛を知らない獣

ただれたバイト先

 大学の講義を終えて、一度自宅に帰った。

 キッチンに立ち、歩の夕飯を作る。今夜は肉じゃがとサラダ、味噌汁だ。作り置きメニューを活用しながら、栄養バランスの良いメニューを選んだ。鍋から湯気が立ち上り、醤油の甘い香りが部屋に広がっていく。

 食卓に夕飯を並べ、食事の横にメモ用紙を置いた。

「塾、お疲れ様でした。ご飯食べてね。バイトに行ってきます」

 ペンで書いた文字を確認し、リュックを背負う。玄関で靴を履きながら時計を見ると、午後六時半を指していた。

 マンションを出て、地下鉄の駅へと向かう。

 夕暮れの街を歩き、階段を降りて改札を抜ける。ホームに立ち、電車を待った。やがて電車が到着し、ドアが開く。車内に乗り込み、空いている席に座った。

 職場のビルまでは、地下鉄で二駅ほどの距離だ。

 鬼頭さんは社用車で毎日、送迎されている。僕は電車で通い、帰りだけは鬼頭さんと一緒に社用車で帰宅させてもらっていた。

 二駅目で降りると、改札を通り抜ける。地上に出ればすぐに鬼頭さんの会社が入っているビルがあった。
 エレベーターに乗り、鬼頭さんの会社があるフロアのボタンを押す。上昇する感覚が身体に伝わり、数字が増えていくのを眺めた。

「お疲れ様です」

 エレベーターを降りるとすぐに受付の女性が笑顔で迎えてくれた。僕も軽く頭を下げ、奥へと進む。広いオフィスフロアが目に入り、デスクに向かう社員たちの姿が見えた。パソコンのキーボードを叩く音が響き、電話の声が聞こえてくる。

 オフィスでバイトすればいいと鬼頭さんに言われたが、僕が想像していたバイト内容とはかけ離れていた。
 ざっくり言うと、鬼頭さんの職場に行って帰宅をただ待つ……だけだった。

 書類整理とか、電話番とか――事務仕事的なものを与えてくれるのかと期待していたのだが、全くそういったことはなく、ただ事務所の奥にあるソファに座り、大学の勉強をしながら鬼頭さんの帰宅時間になるのを待つのが僕の仕事らしい。

 たまに書類のコピーをお願いされたり、買い出しに行ったりはするが、基本は待つだけ。バイトと呼べるのか疑問に思うほど、何もしていない。

 ソファに座り、リュックから教科書を取り出す。

 明日の講義の予習を始め、ノートにペンを走らせた。文字を書く音だけが静かに響き、集中して勉強を続ける。
 オフィスのみんなは僕に優しかった。

 大学の課題をしていると、飴をくれたりジュースをくれたりする。「頑張ってるね」と声をかけてくれたり、「休憩も大事だよ」と笑顔を向けてくれる。

 しばらくして、外出から帰ってきた虎井鉄平さんが入口を通った。

「おっ! 勉強してんの? えらいね~」

 満面の笑みでそう言いながら、虎井さんが通り過ぎていく。がっしりとした体格の虎井さんは、いつも明るく元気だった。

「虎井さん!」

僕が呼び止めると虎井さんが足を止め、「ん?」と明るい返事をして振り返る。黒い瞳が僕を捉え、首を傾げていた。

「なにかお手伝いすることありませんか?」
 ソファから立ち上がり、虎井さんに尋ねた。

「バイト中に勉強しているのってなんだか悪い気がして」
「え~? とくにないよ」

 虎井さんが首を横に振った。そう言いながら周囲を見渡すと、デスクに向かっている人たちも顔をあげて頷いている。みんなが「ないよ」という表情を浮かべており、僕はますます申し訳ない気持ちになった。

「でもバイトしているのに……」
 言葉を続けようとすると、虎井さんが手を振った。

「ん~、バイトの定義って俺が思うに、会社が柊くんを拘束している対価として払うものだと思うんだよね」
 虎井さんが説明を始めた。真剣な顔つきになり、僕の目をまっすぐ見つめてくる。

「こうして、現に今は拘束されてるわけじゃん? これに見合うだけのお金をもらってるんだからいいんじゃない?」
「仕事してなっ……」

 僕が言い返そうとすると、虎井さんが笑顔で遮った。

「してる、してる~」

 にこにこと笑う虎井さんが僕に近づいてきた。肩をガシッと掴まれ、「あっち見て」と指をさされる。視線を誘導された先には、応接室の小窓から鬼頭さんが見えた。

 夕方に訪れた人と、鬼頭さんが何やら楽しげに話を弾ませていた。

 スーツ姿の鬼頭さんが椅子に座り、向かいに座る男性と会話をしている。鬼頭さんの表情が穏やかで、口角が上がっていた。リラックスした様子で、時折笑みを浮かべている。

「見て、社長の顔。めっちゃ穏やかに笑ってるでしょう?」
 虎井さんが囁いた。確かに、鬼頭さんは穏やかな表情をしている。

「――はい」
 あんな表情を浮かべる鬼頭さんを見るのは、珍しい気がした。

「あの笑顔、柊くんがいるからこその笑顔」
 虎井さんの言葉に、僕は眉間に力を入れた。首を傾げ、虎井さんを見上げる。

「言っている意味がわからないんですけど」
「う~ん」

 虎井さんが考え込むような表情を浮かべた。顎に手を当て、言葉を選んでいる様子だった。

「うちの営業時間って午後五時半までなのよ。今、八時」

 時計を見ると、確かに午後八時を回っていた。窓の外は暗くなっており、ビルの明かりが灯っている。

「うちの社長、営業時間以外での対応ってマジでキレる。超絶不機嫌で、なんだったら夕方五時過ぎに飛び込み営業とかあったら、足蹴りして追い出すくらいの性格の人――」

 虎井さんが真剣な顔で続けた。声を潜め、僕の耳元で囁くように話してくる。

「で、あの顔をもう一度見てごらん?」

 僕は再び応接室に視線を向けた。鬼頭さんがまだ穏やかに笑っており、男性と和やかに話している。

「――はあ」
「笑ってるよね? 笑顔だよね?」
「……はい」

 僕は頷いた。確かに笑っている。優しい表情で、相手の話を聞いている様子だった。

「どういうことだと思う?」
 虎井さんが問いかけてきた。僕は考え込み、答えを探す。

「お金になる相談ごとだから?」
「ちっがーう!」

 虎井さんが大きな声を出した。周りの社員たちが笑い、僕を見つめてくる。

「柊くん、鈍感。もう……じれったいなあ」
 虎井さんが呆れたように言い、僕の肩を揺らした。

「柊くんがいるからなの」
「え?」
 意味がわからなかった。

(僕がいるだけで、鬼頭さんの態度が変わる?)

「ここに柊くんがいるだけで、会社が円滑に進むの。これってすごいことなんだよ。うちの会社からしたら」

 虎井さんが真剣な顔で説明を続けた。肩に置かれた手に力が込められ、僕を見つめる瞳が真剣だった。

「まあ、残業はよくないけど。営業時間が五時半までだけど、社長はいろいろ仕事を抱えているから、気づくと深夜過ぎてまで仕事とかザラだし」

 虎井さんが続ける。声に疲労が混じっており、本当に大変だったのだと伝わってきた。

「それが、柊くんを抱きたいからってちゃんと家に帰るし、ご飯も食べてるみたいだし……」
 顔が熱くなった。抱きたいからって、こんな大勢の人がいる前で言わないでほしい。

「もう社長の近くにいてくれるだけで、俺らの給料からバイト代を出して欲しいって思うくらい最高な状態になるわけ」

 虎井さんの声が聞こえているのか、オフィスにいる誰もが深く頷いていた。僕がいるだけで、鬼頭さんの性格がそこまで違うとは想像できない。

 一緒に働いている人たちがそう言うのだから、きっと本当なのだろう。信じ難いが――僕の存在が、鬼頭さんに影響を与えているらしい。

「柊くんがここで勉強して、時々社長の溜まった熱を抜いてくれているだけでありがたいんだから――」
「抜くっ……!」

 虎井さんの言葉に、僕は顔を真っ赤にした。

 熱を抜くという表現が、あまりにも直接的で恥ずかしい。周りの社員たちが笑い声を上げ、僕はますます顔が熱くなった。

「あ、時々じゃないか。ほぼ毎日……かな? 昨日は社長室でしてたもんね」
「――はぁ?」

 聞こえていたのだろうか。
 昨日の夜、鬼頭さんの社長室で抱かれた。声を堪えようとしたが、漏れていたのかもしれない。

 顔が真っ赤になる。

 基本は休日のみという話なのに、たまに平日の夜にもオフィスでしたがるから断れなかった。断ったほうが良かったかもしれないと、今更ながらに思う。

「ああ、俺らは気にしてないから」
 虎井さんが笑顔で言った。手をひらひらと振り、気にするなという仕草をする。

「むしろ、社長が穏やかになるなら、どんどんよろしく! 的なスタンスだから」
 虎井さんがにっこりと笑うと、余計に恥ずかしさが増長した。

 周りの社員たちも頷いており、みんなが同じ考えなのだと分かる。僕がオフィスで鬼頭さんと抱き合うことを、推奨しているようだった。

「――僕は、恥ずかしいです」

 真っ赤になった顔を両手で覆い、身体を丸めた。虎井さんが楽しそうにケラケラと笑い声をあげた。

「まあ、確かにそうだよね」
 虎井さんの声が優しくなった。僕の頭をぽんぽんと撫でてくる。

「まあ、そこら辺は割り切ってもらって――。そういうことだから、大学の勉強、頑張ってね」

 ひらひらと手を振って、虎井さんは自分のデスクに戻っていく。足音が遠ざかり、椅子に座る音が聞こえた。僕はソファに座り直すと、教科書で熱くなった顔を仰いだ。

 紙の感触が頬に触れ、少しだけ冷たい。
 こんなバイト……ただれている。

 でも――嬉しいと思ってしまうのはなんでだろう。
 応接室の方を見ると、鬼頭さんがまだ穏やかに笑っていた。
感想 5

あなたにおすすめの小説

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。

繋ぎの婚約を契約通り解消しようとしたら、王宮に溺愛軟禁されました

こたま
BL
エレンは子爵家のオメガ令息として産まれた。年上のアルファの王子殿下と年齢が釣り合うオメガ令息が少なく、他国との縁組も纏まらないため家格は低いが繋ぎとして一応婚約をしている。王子のことは兄のように慕っており、初恋の人ではあるけれど、契約終了時期か王子に想い人が現れた時には解消されるものと考えていた。ところが婚約解消時期の直前に王子宮に軟禁された。結婚を承諾するまでここから出さないと王子から溢れるほどの愛を与えられる。ハッピーエンドオメガバースBLです。

番解除した僕等の末路【完結済・短編】

藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。 番になって数日後、「番解除」された事を悟った。 「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。 けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。 様々な形での応援ありがとうございます!

運命の番は僕に振り向かない

ゆうに
BL
大好きだったアルファの恋人が旅先で運命の番と出会ってしまい、泣く泣く別れた経験があるオメガの千遥。 それ以来、ずっと自分の前にも運命の番があらわれることを切に願っていた。 オメガひとりの生活は苦しく、千遥は仕方なく身体を売って稼ぐことを決心する。 ネットで知り合った相手と待ち合わせ、雑踏の中を歩いている時、千遥は自分の運命の番を見つけた。 ところが視線が確かに合ったのに運命の番は千遥を避けるように去っていく。彼の隣には美しいオメガがいた。 ベータのような平凡な見た目のオメガが主人公です。 ふんわり現代、ふんわりオメガバース、設定がふんわりしてます。 完結しました!ありがとうございました。

借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる

水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。 「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」 過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。 ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。 孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

追放されたオメガの食堂~嵐の夜に保護した銀狼の獣人王と幼いもふもふ孤児たちに手料理を振る舞ったら、溺愛されました~

水凪しおん
BL
名門貴族の生まれでありながら、オメガであることを理由に家族から見捨てられた青年・リオン。 彼は国境の森の奥深くで、身を隠すようにして小さな食堂を営んでいた。 ある嵐の夜。 激しい雨風に打たれながら食堂の扉を叩いたのは、大柄で威圧的な銀狼の獣人・ガレルと、彼に抱えられた幼い2人のもふもふ獣人の孤児たちだった。 警戒心も露わな子供たちと、不器用ながらも彼らを守ろうとするガレル。 リオンは彼らを食堂へ招き入れ、得意の温かい手料理を振る舞う。 「……うまい食事だった」 リオンの作る素朴で心温まる料理と、彼自身から漂う穏やかな匂いに、ガレルや子供たちは次第に心を開いていく。 誰からも必要とされないと思っていたリオンだったが、ガレルからの真っ直ぐな愛情と、子供たちからの無邪気な懐きによって、少しずつ自身の価値と居場所を見出していく。 美味しいご飯が紡ぐ、孤独だった青年と不器用な獣人王の、甘く温かいスローライフ・ラブストーリー。