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第一章:窓の鍵はいつも開いていた
蝉の声と先生の背中
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蝉が鳴いていた。
耳の奥まで染み込んでくるような、途切れることのない蝉時雨が、平屋の一軒家を丸ごと包んでいた。開け放たれた窓という窓から熱気が流れ込み、風鈴の短冊だけがときおり気まぐれに揺れている。風はほとんどなく、庭の草木もぐったりと葉を垂らしたまま動かなかった。
八月の午後二時。一日のうちで最も日差しが凶暴になる時間帯に、私は先生の背中に寄りかかって、膝の上に載せたノートパソコンのキーボードを叩いていた。先生の背中は広くて、背もたれとしてはこの上なく具合がいい。和服の生地越しに伝わる体温が暑苦しいことを除けば、何時間でもこうしていられるくらい居心地が良かった。
先生はいつものように座卓に向かい、万年筆を走らせている。ペン先が原稿用紙の上を滑るたびに、カリカリと小さな音が鳴った。規則正しく、途切れず、流れるように連なっていくその音は、蝉の声に紛れてしまいそうなほど微かなのに、背中を通じて振動のように伝わってくるから不思議だった。
汗が首筋を伝い、キャミソールの肩紐に吸い込まれていく。額にも汗が滲んでいて、前髪が肌に張り付いていた。画面に視線を落とすと、打ちかけのレポートの文字が中途半端な状態で止まっている。
「お前――まじで暑いから離れろ」
先生の声が頭の上から降ってきた。万年筆を動かす手は止まっていない。背中越しに感じる振動も途切れないまま、言葉だけが苛立ちを帯びて落ちてくる。
「エアコンつけてよ」
パソコンの画面から目を上げずに返すと、先生が即座に「嫌いなんだよ」と突き返した。
「じゃあ、我慢するしかないね」
私がそう答えると、万年筆の音が一瞬だけ止まった。先生が首を回す気配がして、和服の襟元が擦れる音が耳のすぐ近くで鳴る。
「こっちは修羅場ってんの。背中にへばりつかれると、集中が削がれんだよ」
「こっちも課題がやばいんだけど」
「お前はだらけて、やってなかっただけだろ」
先生の声に呆れたような響きが混じった。背中の向こう側で万年筆が再び動き始めて、さらさらという音が戻ってくる。
都会から少し離れた田舎だから風さえ吹けばかろうじて過ごせるのに、今日に限っては空気が微動だにしなかった。庭に面した縁側から入ってくるのは蝉の声と熱気だけで、畳の上に寝転がっている座布団まで、じっとりと湿気を含んでいるのがわかった。
「それ、先生もじゃん」
キーボードを打つ手を止めないまま言い返すと、先生が鼻を鳴らした。
「俺は毎日やってた」
「それでも進んでなかったんでしょう?」
意地悪く突っ込むと、ペン先が原稿用紙の上で硬い音を立てた。万年筆を持ったまま、先生がわずかに肩を竦めるのが背中の動きでわかる。
「大人にはそういうときもあんの」
「子どもにもそういうときがあるんで~」
語尾を間延びさせて返事をしながら、私は先生の背中にもう少しだけ体重を預けた。先生の和服の背中が汗で湿っていて、薄い生地を通して体温が肌に直接触れるような感覚がある。
――暑い。
わかっている。わかっているけれど、先生と離れたくなかった。
「それに先生の背中にくっついてると課題が進むんだよね。エネルギーをもらえるっていうのかなあ」
自分でも馬鹿なことを言っている自覚はあった。先生の背中に触れていると指が動くとか、万年筆の音を聞いていると集中できるとか。ただ一緒にいたいだけの言い訳にすぎない。
先生の家の、畳の匂いと煙草の残り香が混じった空気の中で、万年筆がカリカリと原稿を埋めていく音を聞きながら、自分のやるべきことに向き合っている時間が、ただ好きだった。
「やる気パワーをバンパイアしてんじゃねえぞ、こらぁ」
先生が巻き舌気味に吐き捨てた。怒っているように見せかけているだけの声色だった。本気で嫌がるときの先生はもっと低く、もっと短い言葉を選ぶ。私はそれを六年間の付き合いで知っている。
「えー? 子どもだからわかんなーい」
わざとらしく甘えた声を出すと、先生の背中が大きく揺れた。身体ごとこちらに向きかけて、振り返るのをやめたような中途半端な動きだった。
「都合いいときに子どもぶってんじゃねえよ。大学生が」
万年筆を握り直す音がした。先生の手は大きくて、指が長くて、ペンだこのせいで中指の第二関節がぼこりと膨らんでいた。何千枚もの原稿を手書きで仕上げてきた手だ。私がまだ小学生だった頃から、ずっと同じ万年筆を使い続けていた。
「まだガキでいてくれって言うから、先生が」
口を衝いて出た言葉に、自分で少しだけ驚いた。軽口のつもりだった。いつもの、先生との掛け合いの延長線上にある、お茶らけた返答……。
でも先生の万年筆が止まった。
蝉の声だけが部屋を満たしていた。窓の外では入道雲が空の半分を覆い、陽射しが庭の緑を白く焼いている。汗が背中を伝い、先生の和服の生地に染みていくのがわかった。
「は? 俺が大人になれって言えば、お前は大人になんのかよ」
先生の声が、さっきまでとは違う温度を帯びていた。怒りでも呆れでもない、掴みどころのない低い声だった。万年筆を座卓に置く気配はなく、ペン先が原稿用紙に触れたまま宙に浮いているような、緊張を孕んだ静けさが背中の向こう側から伝わってくる。
私は唇を舐めた。汗の味がした。
何か気の利いた軽口で返して、いつもの距離に戻さなければいけない。近所のガキが避難所にしているだけ――その立ち位置を崩したら、先生はきっと「ここに来るな」と言うだろうと、ずっと前からわかっていた。
蝉の声が、一段と大きくなった気がした。
耳の奥まで染み込んでくるような、途切れることのない蝉時雨が、平屋の一軒家を丸ごと包んでいた。開け放たれた窓という窓から熱気が流れ込み、風鈴の短冊だけがときおり気まぐれに揺れている。風はほとんどなく、庭の草木もぐったりと葉を垂らしたまま動かなかった。
八月の午後二時。一日のうちで最も日差しが凶暴になる時間帯に、私は先生の背中に寄りかかって、膝の上に載せたノートパソコンのキーボードを叩いていた。先生の背中は広くて、背もたれとしてはこの上なく具合がいい。和服の生地越しに伝わる体温が暑苦しいことを除けば、何時間でもこうしていられるくらい居心地が良かった。
先生はいつものように座卓に向かい、万年筆を走らせている。ペン先が原稿用紙の上を滑るたびに、カリカリと小さな音が鳴った。規則正しく、途切れず、流れるように連なっていくその音は、蝉の声に紛れてしまいそうなほど微かなのに、背中を通じて振動のように伝わってくるから不思議だった。
汗が首筋を伝い、キャミソールの肩紐に吸い込まれていく。額にも汗が滲んでいて、前髪が肌に張り付いていた。画面に視線を落とすと、打ちかけのレポートの文字が中途半端な状態で止まっている。
「お前――まじで暑いから離れろ」
先生の声が頭の上から降ってきた。万年筆を動かす手は止まっていない。背中越しに感じる振動も途切れないまま、言葉だけが苛立ちを帯びて落ちてくる。
「エアコンつけてよ」
パソコンの画面から目を上げずに返すと、先生が即座に「嫌いなんだよ」と突き返した。
「じゃあ、我慢するしかないね」
私がそう答えると、万年筆の音が一瞬だけ止まった。先生が首を回す気配がして、和服の襟元が擦れる音が耳のすぐ近くで鳴る。
「こっちは修羅場ってんの。背中にへばりつかれると、集中が削がれんだよ」
「こっちも課題がやばいんだけど」
「お前はだらけて、やってなかっただけだろ」
先生の声に呆れたような響きが混じった。背中の向こう側で万年筆が再び動き始めて、さらさらという音が戻ってくる。
都会から少し離れた田舎だから風さえ吹けばかろうじて過ごせるのに、今日に限っては空気が微動だにしなかった。庭に面した縁側から入ってくるのは蝉の声と熱気だけで、畳の上に寝転がっている座布団まで、じっとりと湿気を含んでいるのがわかった。
「それ、先生もじゃん」
キーボードを打つ手を止めないまま言い返すと、先生が鼻を鳴らした。
「俺は毎日やってた」
「それでも進んでなかったんでしょう?」
意地悪く突っ込むと、ペン先が原稿用紙の上で硬い音を立てた。万年筆を持ったまま、先生がわずかに肩を竦めるのが背中の動きでわかる。
「大人にはそういうときもあんの」
「子どもにもそういうときがあるんで~」
語尾を間延びさせて返事をしながら、私は先生の背中にもう少しだけ体重を預けた。先生の和服の背中が汗で湿っていて、薄い生地を通して体温が肌に直接触れるような感覚がある。
――暑い。
わかっている。わかっているけれど、先生と離れたくなかった。
「それに先生の背中にくっついてると課題が進むんだよね。エネルギーをもらえるっていうのかなあ」
自分でも馬鹿なことを言っている自覚はあった。先生の背中に触れていると指が動くとか、万年筆の音を聞いていると集中できるとか。ただ一緒にいたいだけの言い訳にすぎない。
先生の家の、畳の匂いと煙草の残り香が混じった空気の中で、万年筆がカリカリと原稿を埋めていく音を聞きながら、自分のやるべきことに向き合っている時間が、ただ好きだった。
「やる気パワーをバンパイアしてんじゃねえぞ、こらぁ」
先生が巻き舌気味に吐き捨てた。怒っているように見せかけているだけの声色だった。本気で嫌がるときの先生はもっと低く、もっと短い言葉を選ぶ。私はそれを六年間の付き合いで知っている。
「えー? 子どもだからわかんなーい」
わざとらしく甘えた声を出すと、先生の背中が大きく揺れた。身体ごとこちらに向きかけて、振り返るのをやめたような中途半端な動きだった。
「都合いいときに子どもぶってんじゃねえよ。大学生が」
万年筆を握り直す音がした。先生の手は大きくて、指が長くて、ペンだこのせいで中指の第二関節がぼこりと膨らんでいた。何千枚もの原稿を手書きで仕上げてきた手だ。私がまだ小学生だった頃から、ずっと同じ万年筆を使い続けていた。
「まだガキでいてくれって言うから、先生が」
口を衝いて出た言葉に、自分で少しだけ驚いた。軽口のつもりだった。いつもの、先生との掛け合いの延長線上にある、お茶らけた返答……。
でも先生の万年筆が止まった。
蝉の声だけが部屋を満たしていた。窓の外では入道雲が空の半分を覆い、陽射しが庭の緑を白く焼いている。汗が背中を伝い、先生の和服の生地に染みていくのがわかった。
「は? 俺が大人になれって言えば、お前は大人になんのかよ」
先生の声が、さっきまでとは違う温度を帯びていた。怒りでも呆れでもない、掴みどころのない低い声だった。万年筆を座卓に置く気配はなく、ペン先が原稿用紙に触れたまま宙に浮いているような、緊張を孕んだ静けさが背中の向こう側から伝わってくる。
私は唇を舐めた。汗の味がした。
何か気の利いた軽口で返して、いつもの距離に戻さなければいけない。近所のガキが避難所にしているだけ――その立ち位置を崩したら、先生はきっと「ここに来るな」と言うだろうと、ずっと前からわかっていた。
蝉の声が、一段と大きくなった気がした。
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