最低な大人の恋の始め方~万年筆と嘘とキスマーク~

ひなた翠

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第一章:窓の鍵はいつも開いていた

嘘をついた代償

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「――私、もう大人だし。知らないのは先生だけ。子どもでいてほしいだけでしょう?」

 口にした瞬間、空気が変わった。蝉の声は相変わらず鳴り続けているのに、部屋の中だけが真空になったような静寂が落ちてくる。先生の背中が硬くなったのが、寄りかかっている肩越しに伝わってきた。

 万年筆がかたん、と座卓に置かれた。いつも指先で静かに離す先生が、音を立てて万年筆を手放すのは珍しかった。

「はあ?」

 低い声が、腹の底から押し出されるようにして響いた。先生がゆっくりと身体の向きを変え、振り返る気配がする。私は先生の背中から身体を離し、畳の上に膝をついたまま、先生と向き合った。

 先生の目が、真っ直ぐに私を捉えていた。普段の呆れたような眼差しでも、面倒くさそうに細めた目でもない。温度の読めない、奥の見えない目だった。

「見る? 胸元のキスマーク」

 自分の声が妙に平坦に聞こえた。心臓は激しく跳ねているのに、口だけが勝手に動いている。立ち上がり、キャミソールの裾を掴んで、一息に頭の上まで引き抜いた。脱いだキャミソールが畳の上に落ちて、くしゃりと小さな音を立てる。

 胸の谷間に、紫がかった痕が残っていた。大学のサークルの飲み会で、酔った男につけられた痕だった。カラオケの薄暗い個室で、やり目だとわかった瞬間に相手の股間を蹴り上げて逃げたから、キスマークだけで済んだ。ただ、先生にそんな経緯を説明する気はなかった。

 ただ伝えたい。
 ――私はもう子どもじゃないんだと。

 先生の視線が、鎖骨の下へと降りた。谷間に残る紫色の痕を見つめて、先生の喉がわずかに上下する。和服の襟元から覗く首筋に、汗が一筋伝っていくのが見えた。

 半年前の光景が、脳裏にちらついた。高校三年の冬、書斎の障子を開けた先に見た、先生の膝の上に跨る女性の姿。髪を振り乱し、先生の唇を貪るように塞いでいた編集者の後ろ姿。あのとき先生は言った。大人の世界は単純明快だと。反応するかしないかだと。

 私は膝で畳を擦りながら先生に近づき、座っている先生の和服の合わせ目に手を伸ばした。帯の下、太腿の付け根のあたりに手のひらを当てると、布越しに硬く熱いものが指先に触れた。先生の身体がびくりと震えて、私の手首を掴もうとする動きが一瞬遅れた。

「奪った分のやる気、返そうか?」

 先生の目が見開かれた。掴みかけた手首が力を失い、宙で止まる。先生の呼吸が変わったのがわかった。浅く、速く、喉の奥で引っかかるような息遣いに変わっている。

 和服の合わせ目に指を差し入れると、先生が私の肩を掴んだ。突き放すのかと思った。畳の上に押し倒されたのだと気づくまでに、一拍かかった。

 背中が畳に叩きつけられ、い草の匂いが鼻をついた。夏の湿気を吸い込んだ畳は生温くて、汗で濡れた背中にじっとりと張り付いてくる。先生の顔が真上にあった。前髪をあげてセットしていた髪の何本かが額に落ちかかり、目元に影を作っている。いつもの飄々とした表情は消え、噛み締めた唇の端が白くなっていた。

「先生……」
 名前を呼ぶと、唇を塞がれた。

 荒々しい口づけだった。唇を押し開くように舌が入り込み、口の中を蹂躙していく。上顎を舐め、歯の裏を這い、私の舌に絡みついてきた。息ができなかった。鼻で吸い込もうとした空気は先生の吐息の熱で満たされていて、頭がくらくらする。唾液を飲み込もうとしたが飲みきれず、口の端から零れて顎を伝った。

 先生の大きな手が胸に触れた。手のひらがブラジャー越しに胸を包み込み、指が布の上から乱暴に形を変える。背中に手が回り、ホックが外された。動きには迷いはなく慣れた手つきだった。ブラジャーが引き剥がされ、素肌が空気に触れる。汗で湿った胸に、先生の手のひらが直に触れた瞬間、身体の奥に表現できない何かが生まれた。

「んっ……」

 声が勝手に漏れた。先生の指が胸の先端を摘み、転がすように弄ぶ。乱暴なのに、指先だけが妙に器用で、くすぐったさと快感の境界を行き来してくる。もう片方の手が腰に回り、ショートパンツのボタンを外した。ファスナーが降ろされ、布が腰から太腿へと滑り落ちていく。

 蝉の声が耳に戻ってきた。窓の外ではまだ太陽が白く燃えていて、庭の緑が陽射しに焼かれている。縁側から入り込む熱風が、晒された肌を撫でて通り過ぎた。

 先生の唇が首筋に落ちた。鎖骨の上を舐め、谷間に残るキスマークの上に唇を押し当ててくる。まるで上書きするように、痕の上を強く吸われた。痛みに似た刺激が胸の奥に響いて、背中が畳から浮きそうになる。

「あっ……先生」

 先生は何も言わなかった。言葉の代わりに、唇と舌と指が答えてくる。首筋を舐め上げ、耳の下に噛みつき、胸の先端を口に含んで吸い上げる。先生の口の中は熱くて、舌が先端を転がすたびに、お腹の奥が生まれた何かが疼いた。汗で濡れた先生の前髪が私の鎖骨に触れ、くすぐったいような感覚が全身を震わせる。

 先生の和服の前がはだけていた。胸板が露わになり、汗が鎖骨の窪みに溜まっているのが見える。細身に見える先生の身体は、骨格がしっかりしていて、肩から腕にかけての筋が汗に濡れて光っていた。

 下着を引き下ろされた。先生の指が太腿の内側を撫で、奥へと進んでくる。秘所に触れられた瞬間、息が詰まった。誰にも触れられたことのない場所に、先生の長い指が触れている。割れ目をなぞるように指先が滑り、ぬるりとした感触が広がった。自分の身体がこんなに濡れていたのかと気づいて、恥ずかしさで目を閉じた。

「……っ」

 先生の指が中に入ってきた。ゆっくりと、探るように奥へと進んでいく。内壁が指に沿って押し広げられ、異物感に身体が強張った。指が曲げられ、中を撫でられると、お腹の底から熱い塊がせり上がってくるような感覚に襲われる。先生の指がある一点を擦ったとき、全身にびりびりと電流が走り、腰が勝手に跳ねた。

「あ……そこ」

 くちゅ、と水音が響いた。先生の指が出入りするたびに、蝉の声に混じって卑猥な音が畳の上に広がっていく。自分の身体が鳴らしている音だとわかっているのに、止められなかった。先生がもう一本指を増やすと、内壁がぐっと押し広げられて、微かな痛みと一緒に深い疼きが身体の芯まで貫いた。

 先生が身体を起こした。和服の帯を解き、肩から生地が滑り落ちる。下穿きを脱ぎ捨てると、硬く反り返った熱が目に入った。太く、脈打つように震えている。先端から透明な雫が滲み、夏の陽射しに照らされて濡れた表面が光っていた。

 先生が私の膝を押し開き、身体の間に入ってきた。熱いものが太腿の内側に触れ、肌が灼けるような感覚が走る。先端が秘所に押し当てられ、ゆっくりと圧力がかかった。

 入口が押し広げられていく。先生の熱が侵入してくる感覚に、身体が本能的に強張った。先端が中に入り込んだ瞬間、鋭い痛みが下腹部を貫いた。内側が引き裂かれるような感覚に視界が白く明滅して、奥歯を噛み締めなければ悲鳴が漏れるところだった。

 ――痛い。

 身体の奥を裂かれるような痛みが、じわじわと全身に広がっていく。涙が目尻に滲んで、畳に吸い込まれるように頬を伝って落ちた。

 気持ちいいふりをしなければ。処女だと悟られたら、先生はきっとこの行為を中断するだろう。「やっぱりガキじゃねえか。大人ぶりやがって」と私を突き放すだろう。大人のふりをして先生を挑発したのは私だ。ここで痛がって泣いたら、全部が嘘だったと知られてしまう。

 ――それは絶対に嫌。

 私は大人だと先生に知らしめたい。好きか嫌いかじゃない。反応するかしない――の、反応する側になりたい。

「ん……っ、あ」

 喉の奥から、意識して甘い声を絞り出した。先生の腰が動き、奥まで一気に押し込まれる。何かが突き破られる感覚があって、お腹の奥に灼けるような痛みが弾けた。歯を食いしばり、先生の背中に爪を立てる。

 ――痛い。痛い。

 痛みで頭が真っ白になりそうなのに、先生の和服から立ち昇る汗と煙草の混じった匂いだけが鮮明だった。

 先生がゆっくりと腰を引き、また押し込んでくる。私の身体が揺さぶられた。引いて、押し込む。繰り返されるたびに、内壁が先生の形に沿って伸ばされていく。痛みの中に、微かな疼きが混じり始めた。お腹の奥を擦られるたびに、痛みとは違う感覚がじわりと滲んでくる。

「あっ、ん……先生」

 先生の呼吸が荒くなっていた。額に汗が滲み、前髪が完全に額に張り付いている。いつも持ち上げてセットしてある髪が崩れると、先生の顔は驚くほど若く見えた。三十八歳には見えない。眉を寄せて唇を噛み、汗を滴らせている横顔は、まるで知らない男の人のようで、胸の奥がきゅっと締め付けられた。

 先生の動きが速くなった。腰を打ちつけるたびに、肌と肌がぶつかり合う湿った音が部屋に響く。蝉の声と、水音と、先生の荒い息遣いと、全部混ざり合って耳の中が淫靡な音で支配される。

 二度目に求められたとき、痛みはまだ残っていた。

 先生が私の身体をうつ伏せにして、後ろから腰を引き寄せた。和服の裾が私の太腿に触れ、先生の胸板が背中に覆いかぶさる。耳の横で先生の息遣いが聞こえて、首筋に唇が落ちた。背中から突き上げられると、さっきとは違う角度で奥を擦られて、痛みの奥に隠れていた快感が突然、鮮明な輪郭を持って浮かび上がった。

「あっ……あ、んんっ」

 堪えていた声が漏れた。今度は作った声ではなかった。身体の奥から勝手に込み上げてくる声を、噛み殺すことができなかった。先生の腕が私の腰を抱き締め、深く、激しく、突き上げてくる。内壁が先生に吸い付くように絡みつき、繋がった場所からぐちゅぐちゅと音が溢れ出した。

 汗が背中を伝い、先生の汗と混じり合って畳に落ちていく。い草と汗の匂いが鼻に充満して、夏の空気そのものが肌に絡みついてくるような錯覚に陥った。蝉の声が遠くなり、先生の吐息と自分の喘ぎだけが世界の全てになっていく。

 三度目は、もう痛みは消えていた。

 先生に仰向けに戻され、足を大きく開かされた。先生が腰を沈め、深く、奥まで入り込んでくる。子宮口に当たるような感覚に、身体が弓なりに反った。先生の手が私の両手を掴み、頭の上で畳に押さえつける。逃げ場のない体勢で突き上げられると、お腹の奥から快感が噴き上がるように広がっていった。

「ああっ、先生……そこ、だめ……っ」

 だめ、と口にしながら、腰が勝手に先生を迎え入れるように動いてしまう。自分の身体が自分のものではないような感覚だった。快楽に溺れていくとはこういうことなのかと、頭の片隅で他人事のように思った。先生が奥を突くたびに、全身を駆け巡る甘い痺れが強くなっていく。

 先生の顔が近づいた。額の汗が私の頬に落ちて、生温い雫が肌を伝う。先生の唇が額に触れ、頬を撫で、唇に重なった。さっきまでの荒々しさとは違う、妙に優しい口づけだった。舌が絡み合い、唾液が混ざり、甘い吐息が口の中で溶けていく。

「んっ……あ、ああっ」

 身体の中心で何かが弾けそうになっていた。下腹部に集まった熱が限界まで膨らんで、全身の神経がそこに向かって収束していく。先生が最奥に腰を押し込み、深く繋がったまま動きを止めた。

「――っ」

 先生の身体が強張り、お腹の奥に熱いものが注がれる感覚があった。脈打つように、どくどくと広がっていく熱に、私の身体も応えるように痙攣した。視界が白く飛び、全身が震えて止まらなかった。快感が波のように押し寄せては引いて、呼吸の仕方がわからなくなる。

 蝉の声が、遠くの方で鳴っていた。


     ◇◇◇


 気がつけば、外は夕暮れだった。

 西日が縁側から差し込んで、畳の上を橙色に染めている。開け放たれた窓から入ってくる風は、午後の凶暴な熱気が少しだけ和らいで、汗で湿った肌に心地よかった。ひぐらしの声が、蝉時雨に混じって細く響いている。

 何もまとわない身体で畳の上に横たわり、全身がぐったりと重い。指一本動かす気力が残っていなくて、ただ天井の木目を見つめていた。隣に先生の気配があった。同じように裸のまま仰向けに横たわっていて、荒い息がまだ整いきっていないのが聞こえてくる。

 先生が先に起き上がった。畳に手をついて上体を起こす音がして、和服を拾い上げる衣擦れが続く。私は目だけを動かして、先生の背中を捉えた。汗に濡れた肩甲骨が夕日に照らされて、筋が赤銅色に光っている。

 浴衣に袖を通した先生が、帯を結んでいた。いつもは前髪を上げてセットしてある髪が、情事で乱れて額に垂れ下がっている。横顔が夕陽に染まって、より艶やかに見える。『オトコ』の姿を纏う先生は、視界に入れるだけで私の心臓が勝手に早鐘を打ちだす。

 先生が身支度を整え終えると、私に背を向けたまま口を開いた。

「やる気は返してもらったから、もうお前は来るな」

 声に、温度がなかった。蝉もひぐらしも鳴いているのに、先生の声だけが冬のように冷たくて、畳の上の空気が凍りついたような気がした。

「え?」

 聞き間違いかと思って身体を起こした。背中が畳から剥がれるとき、じっとりと汗で張り付いていた肌が引っ張られて、微かな痛みが走る。

「帰れ」

 低く、不機嫌な声だった。先生はまだこちらを振り返らない。浴衣の背中が夕日を受けて橙色に染まり、大きな肩が壁のように私を遮っていた。

「どういうこと?」

 手を伸ばして、先生の浴衣の袖を掴もうとした。指先が布に触れた瞬間、先生の手が飛んできて、私の手を弾いた。乾いた音が畳の上に落ちて、弾かれた手の甲がじんと痺れる。

「もうガキじゃないんだろ? 大人なら、家に居場所がなくても一人で対処できるだろ。ここはもうお前の避難場所じゃない」

 先生がそう言い切って、書斎を出ていった。廊下を歩く足音が消えていく。障子の向こうに先生の影がなくなって、ひぐらしの声だけが書斎に残された。

 畳の上で、裸のまま膝を抱えた。窓の外で風が吹いて、風鈴が鳴る。短い音が一つだけ鳴って、すぐに静かになった。

 ――なんで?

 胸の奥にあった何かが、音もなく崩れ落ちていくのがわかった。

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