最低な大人の恋の始め方~万年筆と嘘とキスマーク~

ひなた翠

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第一章:窓の鍵はいつも開いていた

高校三年の冬

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 高校三年の二月、大学の合格通知が届いた。

 白い封筒を郵便受けから取り出したとき、指先がかじかんでいて、封を切るのに手間取った。中から折り畳まれた紙を引き抜き、最初の一行を読んだ瞬間、冬の冷気が一瞬だけ遠のいた。合格の二文字が、朝日に照らされて滲んで見えた。

 真っ先に伝えたい相手は、一人しかいなかった。

 サンダルを突っかけて家を飛び出し、隣の家の裏手に回った。冬枯れの庭は夏とは別の場所のように閑散としていて、蝉の代わりに北風が耳元を吹き抜けていく。吐く息が白く煙り、鼻先が冷たさで痺れていた。縁側のガラス戸に手をかけると、いつものように鍵は開いていて、するりと横に滑った。

「先生!」
 縁側から上がり、障子の前に立ち、勢いよく引き開けた。

 先生の上に、女の人が座っていた。

 ――え?

 先生が座卓の前に座り、女の人がその膝の上に跨るようにして先生の顔に覆いかぶさっている。女の人の髪が振り乱されて先生の肩にかかり、唇と唇が重なっていた。先生の和服の前がはだけて、鎖骨から胸元が露わになっている。女の人の手が先生の襟元を掴んでいて、先生の大きな手は――万年筆を持ったまま、座卓の上で止まっていた。

 障子を開けた音に、女の人が弾かれたように顔を上げた。乱れた髪の隙間から覗いた目は、驚きと羞恥で大きく見開かれていた。

 女の人が慌てて先生の膝から降りた。スカートの裾を整え、座卓の上に置いてあった茶封筒を掴むと、私を見ずに目を逸らして「原稿、受け取りましたので」と早口に告げた。小走りに私の横をすり抜けて廊下に出ていき、玄関の引き戸が開閉する音が響いた。ヒールが玄関先の砂利を急ぎ足で踏む音が、冬の空気に乾いて響いて、やがて遠ざかっていった。

 玄関の音が消えて、ようやく自分が何を見たのか理解が追いついてきた。頭の中が真っ白になっていた時間がどれくらいあったのか、わからなかった。障子の縁を掴んだまま、書斎の入口に突っ立っている自分がいた。

「――あ、ごめん」

 小さく謝った。声が自分のものではないみたいに、薄く平たく聞こえた。

 先生は座卓の前に座ったまま、はだけた和服の襟を直していた。乱れた襟元を左右から引き寄せ、帯の上で合わせ直す手つきは、驚くほど落ち着いていた。まるで何事もなかったかのように、万年筆を握り直して原稿用紙に視線を落とす。

「大学に合格したのか?」
 声に動揺の色は一切なくて、私の手に握られた封筒を一瞥しただけで、全てを察したようだった。

「……なんでわかったの?」
「うるさく言ってただろ。今日が合格通知が届く日だって」

 先生の声はいつも通りの平坦な調子だった。万年筆のペン先が原稿用紙の上に降りかけて、止まっている。書き始めるタイミングを逸したように、ペン先がほんの少しだけ紙面の上で揺れていた。

「覚えていてくれたんだ」
「紗那、しつこいからな」
「しつこいとは失礼だし」

 頬を膨らませてみせた。いつもの私のふりをした。先生が微笑む。目尻の皺が深くなって、口元がわずかに緩むだけの、見慣れた笑い方だった。

「はい、おめでとさん」

 先生の大きな手が伸びてきて、私の頭をぽんぽんと叩いた。手のひらが髪に触れて、指先が後頭部を軽く撫でていく。温かくて、優しくて、六年間ずっと変わらない手つきだった。


「……さっきの人」

 言ってから、先生の表情が曇るのが見えた。目元の柔らかさが消え、顎の線が硬くなり、視線が原稿用紙の上に落ちる。聞かれたくないのだと、すぐにわかった。わかったのに、言葉が引っ込められなかった。

「編集者。俺のファンらしい」

 先生が万年筆を座卓に置き、煙草の箱を手に取った。一本抜き出して唇にくわえる。火は点けずに、フィルターを噛むようにして口元で転がした。

「熱く語られているうちに、膝の上に乗ってた」
「先生は、ファンで担当の編集者さんには手を出すんだね」

 揶揄うような口調に聞こえただろうか。自分でもわからなかった。胸の奥で何かがざわざわと騒いでいて、それが嫉妬なのか軽蔑なのか悲しみなのか、区別がつかなかった。先生が煙草にライターの火を近づけて、ゆっくりと吸い込んだ。紫煙が冬の冷たい空気に白く広がり、天井に向かって昇っていく。

「大人の世界は、超がつくほど単純明快だからな」

 先生は煙を吐き出しながら言った。煙草のフィルターを指で挟み、座卓の灰皿に灰を落とす仕草が、妙に様になっていた。

「は? そこは『大人の世界は子どもが首突っ込むほど簡単じゃない』って言うところでしょう」
「小難しく考える方がガキだろ」

 先生が煙草を口に戻し、煙を細く吐いた。紫煙の向こうから、先生の目がこちらを見ている。感情の読めない目だった。笑っているようにも、試しているようにも見えた。

「お前も大人になればわかる。好きか嫌いかじゃない。反応するかしないかだ」

 先生が笑った。口元だけが緩む、皮肉っぽい笑い方だった。冬の陽射しが窓から差し込んで、煙草の煙を白く照らしている。書斎の空気は煙草の匂いとインクの匂いが混じり合って、いつもと同じはずなのに、いつもと違う匂いがした。さっきまで先生の膝の上にいた女の人の香水が、うっすらと空気の中に残っていた。

「最低」

 口から出た言葉は、思ったより平坦だった。怒りを込めたかったのに、悲しみを込めたかったのに、どちらにもならなかった。ただ、胸の奥に沈んでいく重たい石のような気持ちを、最低という二文字に押し込めただけ。

 先生が煙草を灰皿に押しつけて消した。紫煙の最後のひと筋が天井に向かって細く伸びて、消えた。

「おー、大人は最低なんだ」

 先生が失笑するように言って、それから少しだけ間を置いた。煙草を消した指が座卓の上で万年筆に触れて、軸を転がすように撫でている。

「だから紗那は、まだガキでいてください」

 一線を引かれた、と思った。

 先生の声は穏やかだった。怒ってもいないし、冷たくもない。ただ、私と先生の間にある透明な壁を、言葉で建てられた感覚だった。お前はこちら側、俺はあちら側。その境界を越えるなと、優しい声で釘を刺されたのだと理解した。

 大人の世界は単純明快。反応するかしないか。

 あの女の人に先生は反応した。膝の上に跨られて、キスをされて、和服の前をはだけさせて。それが大人の単純明快な世界なのだとしたら、私はその世界の外側にいる子どもだった。先生にとって私は、反応する対象ではない。縁側から入ってきて、背中に寄りかかって、「重い」と言われて笑っている――そういう距離の生き物でしかなかった。

「最低な大人が、感動する人気恋愛小説家だなんて信じられない」

 精一杯の強がりだった。声が震えないように、目が潤まないように、頬の筋肉を持ち上げて笑顔を作った。先生が肩を震わせて笑った。声を上げて笑うことの少ない先生が、目を細めて、本当におかしそうに笑っている。

「本当になあ! 俺も信じられない」

 先生はそう言って、また万年筆を手に取った。ペン先が原稿用紙に触れて、さらさらと音を立て始める。いつもの書斎に、いつもの音が戻ってきた。私は先生の後ろに回り込み、背中に寄りかかった。冬の書斎は暖房が効いていて温かくて、先生の背中は夏よりも厚い和服の生地に包まれている。布越しに伝わる体温が、ほんの少しだけ遠く感じた。

 膝の上に置いた合格通知の封筒を、指先で撫でた。紙の角が少し折れていて、握りしめすぎたせいで皺が寄っていた。

 嬉しかったはずの合格が、胸の中でうまく喜べなくなっていた。先生に一番に報告したくて走ってきたのに、報告よりも先に目に飛び込んできたものが、頭の中を占領して離れない。先生の膝の上に跨る女の人の後ろ姿。乱れた髪。はだけた和服の襟元。

 先生の背中は温かかった。万年筆の音は相変わらず心地よかった。

 何も変わっていないように見えるのに、何かが決定的に変わってしまったような気がして、私はいつもより少しだけ強く、先生の背中に額を押しつけた。

「――重い」
「知ってる」

 先生が鼻を鳴らして、万年筆を走らせ続けた。さらさらという音が書斎を満たし、冬の陽射しが畳の上にゆっくりと移動していく。窓の外で、枯れ枝の間を冷たい風が通り抜けていった。風鈴は冬の間、縁側の軒から外されていて、音はしなかった。

 先生は最低な大人だ。
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