最低な大人の恋の始め方~万年筆と嘘とキスマーク~

ひなた翠

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第一章:窓の鍵はいつも開いていた

十二歳の夏

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 初めて先生の家に足を踏み入れたのは、十二歳の夏だった。

 両親が喧嘩をしていた。リビングの向こう側で、母の甲高い声と父の低い怒鳴り声がぶつかり合い、食器が割れる音がして、テレビ台に何かが叩きつけられた。壁の薄い家だから、自分の部屋にいても声が筒抜けで、布団を頭から被っても耳の奥まで怒声が浸み込んでくる。我慢できなくなって、裸足のまま玄関を飛び出した。

 外は暑かった。八月の午後、アスファルトは素足で踏めないほど焼けていて、慌てて道の端の草むらに逃げた。家の前の道路に面した側溝の蓋に座り込み、膝を抱えた。蝉が頭の上でやかましく鳴いていて、首筋を汗が止めどなく流れ落ちていく。陽射しが頭のてっぺんを焼き、視界がちかちかと白く瞬いた。

 どれくらいそうしていたのか、わからなかった。

「――おい」

 頭の上から声が降ってきた。顔を上げると、隣の家のお兄さんが立っていた。和服姿で、腕を組んで、呆れたような顔をしてこちらを見下ろしている。和服の人を間近で見たのは初めてで、お坊さんみたいだと思った。

「暑いから家で涼め。人の敷地で熱中症で死なれたら寝覚めが悪い」

 ぶっきらぼうな言い方だった。優しさのかけらもない声色で、心配しているというよりは面倒くさそうに見えた。私が黙って見上げていると、お兄さんは舌打ちに近いため息をついて、踵を返した。

「来るならついて来い。来ないなら別の場所に移動してくれ」

 背中だけ見せて、自分の家の門をくぐっていく。門から玄関ではなく、家の横手に回って縁側へ向かっているのが見えた。私は側溝の蓋から立ち上がり、裸足のまま、お兄さんの後を追った。

 縁側のガラス戸が開け放たれていた。畳の部屋が見えて、座卓の上に原稿用紙が何枚も広げられている。お兄さんは縁側から上がると、振り返りもせずに座卓の前に座り、万年筆を手に取った。

「麦茶、台所にあるから。勝手に飲め」

 それだけ言って、原稿用紙に向き合い始めた。万年筆のペン先が紙の上を滑る音が、さらさらと小さく鳴った。お兄さんの背中は大きくて、和服の生地が肩の骨格に沿って張っていた。

 畳の部屋に上がり込み、台所で麦茶を見つけて飲んだ。冷蔵庫から出したグラスの表面に水滴がびっしりとついて、指の間から冷たい雫が滴り落ちた。喉を通る麦茶が冷たくて、身体の芯にまで染み渡るようだった。

 グラスを持ったまま座卓のそばに座り、お兄さんの背中を眺めた。万年筆の音だけが聞こえる部屋は、家の中で聞こえていた怒鳴り声とは別の世界のように静かだった。窓から入り込む風が畳の上を撫でて、原稿用紙の端をかすかに揺らしている。風鈴が鳴った。短く、涼しげな音が一つ響いて、余韻が畳の上に落ちた。

 お兄さんは私がいることを気にする様子もなく、黙々と万年筆を走らせていた。ペン先が紙に触れるたびに、小さな文字が生まれていく。何を書いているのかは、背中越しには見えなかった。ただ、規則正しく途切れることなく続くさらさらという音が心地よくて、いつの間にか膝を抱えたまま目を閉じていた。

 気がつくと、窓の外が夕焼けに染まっていた。

「起きたなら帰れ。夕飯の時間だろ」

 お兄さんの声で目が覚めた。座卓の前に座ったまま原稿に向かっている後ろ姿は、眠る前とまったく同じだった。何時間もあの姿勢で書き続けていたのかと思うと、右手の中指に浮かぶ硬いペンだこが妙に印象に残った。
「……ありがとうございました」

 小さく頭を下げて、縁側から外に出た。裸足のまま隣の家に戻ると、喧嘩はもう終わっていて、母が台所で夕飯の支度をしていた。父はリビングのソファでテレビを見ていた。リビングの壁に小さなへこみができていたことには、誰も触れなかった。


     ◇◇◇


 二度目に縁側を訪ねたのは、三日後だった。

 また両親が喧嘩を始めて、家を飛び出した。今度はサンダルを履いていた。隣の家の縁側に回ると、ガラス戸は開いていて、お兄さんが座卓に向かって万年筆を走らせていた。

「……また来ました」

 声をかけると、お兄さんは振り返りもせずに「おう。飲み物はセルフな」とだけ言った。

 三度目も、四度目も、同じだった。両親の喧嘩が始まるたびに家を出て、縁側のガラス戸から隣の家に上がり込む。お兄さんはいつも座卓の前にいて、万年筆を動かしていて、私が来ても来なくても同じ調子で原稿を書き続けていた。

 五度目に訪ねたとき、お兄さんの名前を知った。

 玄関の表札に「深瀬」と書いてあるのが目に入って、「深瀬さん」と呼んだら、お兄さんは面倒くさそうに振り返って「律でいい」と言った。私が「律さん」と呼び直すと、律さんは万年筆を止めて、初めてまともに私の顔を見た。

「お前、名前は」
「北坂紗那」
「紗那か。お前はいくつだ」
「十二歳」

 律さんが眉を上げた。それから何か考えるような間があって、万年筆に視線を戻した。

「十二歳のガキがいる前で夫婦喧嘩ねえ。お前も大変だな」

 本当に大変だと思っているのかわからない軽い口調で言うと、原稿に視線を落とした。ペン先が原稿用紙の上で滑り始めて、さらさらという音が部屋を満たした。

 やがて、律さんの仕事が小説を書くことだと知った。畳の上に積まれた原稿用紙の束、座卓の隅に置かれた校正刷り、本棚に並ぶ単行本の背表紙。律さんの本名は載っておらず、ペンネームで書いているのだと教えてもらった。ジャンルは恋愛小説だと聞いたとき、この無愛想な人が恋愛の話を書くのかと驚いて、思わず笑ってしまった。律さんは「うるせえ」とだけ言って、万年筆を動かし続けていた。

 夏が終わり、秋になり、冬が来ても、私は律さんの家に通い続けた。両親の喧嘩は季節に関係なく続いていたし、喧嘩がない日でも家の中の空気は冷たく張り詰めていて、居心地が悪かった。縁側のガラス戸は、いつ行っても鍵が開いていた。律さんが開けっぱなしにしてくれているのだと気づいたのは、冬になってからだった。寒い日にも、私が使う側の窓だけは鍵がかかっていなかった。

 通い始めて半年が経つ頃には、私は律さんの背中に寄りかかるようになっていた。

 最初は座卓から少し離れたところで、持ち込んだ漫画を読んでいた。ある日、律さんのすぐ後ろに座ってみたら、背中から伝わる万年筆の振動がより鮮明に感じられて、気づいたら寄りかかっていた。

「おい。重い」
 万年筆は止めずに、声だけが頭の上から降ってくる。

「ごめん。でも、ここがいちばん落ち着くの」
「勝手にしろ」

 律さんは文句を言いながらも、私を背中から引き剥がそうとはしなかった。和服越しに伝わる体温は温かくて、万年筆が文字を綴るたびに背中の筋肉が微かに動くのが心地よかった。ペン先が原稿用紙に触れる音は、まるで音楽のように一定のリズムで続いていて、私はその音を聞きながら漫画のページをめくった。

 中学二年の秋、両親が離婚した。

 親権は父が取り、母が家を出ていった。母がいなくなった家はやけに広く感じて、父と二人で食べる夕飯の時間が、怒鳴り声のあった頃よりもかえって息苦しかった。父は無口な人で、母がいなくなった理由について一度も説明しなかった。聞いてほしくないのだろうと察して、私も聞かなかった。

 律さんの家に行く頻度が増えた。学校が終わると真っ直ぐ縁側に向かい、ガラス戸を開けて上がり込む。律さんはいつもの場所にいて、いつもの万年筆を握っていた。「紗那」と呼ばれて、「先生」と呼び返すようになったのもこの頃だった。律さんが小説家だと知ってからずっと「律さん」と呼んでいたのを、ふと「先生」に変えたら、律さんが怪訝そうな顔をした。

「先生って柄かよ」
「小説家は先生って呼ぶんでしょう? 漫画でそう読んだ」
「漫画を教科書にすんな」

 呆れた声で言いながら、律さんは――先生は、否定も訂正もしなかった。それ以来、先生は先生のままだった。

 高校一年の春、父が再婚した。相手は職場の女性で、二十三歳だった。先生よりも若い女性が母親の代わりに台所に立つようになり、家の空気がまた変わった。新しい母親は悪い人ではないと思う。

 私に気を遣ってくれているのも、距離感を測りかねているのもわかった。ただ、私の家だったはずの場所に、知らない大人の匂いが増えていくことが、じわじわと居心地の悪さを積み重ねていった。

 先生の家で過ごす時間が、さらに長くなった。

 学校から帰ると縁側の窓を開け、畳の上に鞄を置いて、先生の背中に寄りかかる。漫画を読んだり、宿題をやったり、何もせずにぼんやりと万年筆の音を聞いたりした。先生は相変わらず「重い」と言った。日によっては「まじで重い。成長期か」と余計なひと言を足してきた。それでも私を追い出すことは一度もなくて、文句を言いながらも万年筆を止めずに、私を背中に乗せたまま原稿を書き続けた。

 先生の背中は大きかった。肩幅が広く、骨格がしっかりしていて、私の身体を預けてもびくともしなかった。和服の生地から立ち昇る煙草の匂いと、畳のい草の匂いと、万年筆のインクの匂いが混ざり合った空気が、私にとっての安全の匂いになった。

 ここにいるとき、素の私になれる。

 誰の顔色も窺わなくていい。父と母の喧嘩に耳を塞がなくていい。新しい母親と距離を測らなくていい。ただ先生の背中に体重を預けて、さらさらと鳴る万年筆の音を聞いているだけでよかった。

 先生のことが好きだった。いつから好きだったのかは、自分でもわからない。気がついたら好きだった。先生の大きな手が頭を撫でてくれるたびに、心臓がきゅっと痛くなった。先生が「紗那」と名前を呼ぶたびに、呼ばれた名前の響きが胸の中でずっと残響のように鳴り続けた。先生が煙草をくわえて窓の外を眺めている横顔を、漫画の陰からこっそり見つめる時間が、一日の中でいちばん幸せだった。
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