最低な大人の恋の始め方~万年筆と嘘とキスマーク~

ひなた翠

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第二章「北坂紗那、二十五歳」

原稿を取りに

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 午前中の校正作業がひと段落した頃、隣のデスクで萌木さんの携帯が鳴った。

 萌木さんが「はい、萌木です」と出て、数秒後に表情が変わった。眉が下がり、口元が引き締まって、「わかりました。すぐ行きます」と短く答えて電話を切った。

「さなちゃん、ごめん」
 萌木さんが椅子を回してこちらを向いた。申し訳なさそうな顔をしている。

「子どもが保育園で熱出しちゃって、お迎えに行かなくちゃいけなくなったの。それで……今日の午後、原稿を取りに行く予定が入ってたんだけど、代わりに行ってもらえないかな」
「もちろんです。大丈夫ですよ」
「ありがとう。住所は今メッセージで送るね。手書きの原稿だから、折り曲げないように気をつけて」

 萌木さんが慌ただしくパソコンをシャットダウンし、トートバッグに荷物を詰め込み始めた。携帯を操作して、私のスマホにメッセージを送ってくれる。マンションの住所と部屋番号が表示された。

「先生には連絡しておくから! 二時の約束なの。エントランスのインターフォンを鳴らせば開けてくれるはず」
「わかりました。お子さん、お大事にしてくださいね」
「ごめんね、本当に。助かる」

 萌木さんが足早にオフィスを出ていった。ドアが閉まった後、編集長がコーヒーカップを持ったまま私のデスクに歩み寄ってきた。

「さなっち、もえっちの代わりに原稿取りに行くの?」
「はい。二時に伺うと約束してあるそうです」
「あー、あの先生ね」

 編集長が意味ありげに眉を上げた。コーヒーを一口飲んでから、声のトーンを少し落とした。

「忠告しとくわ。仕事は素晴らしいのよ。文句なしの一流。ただ、性格にちょっと難ありだから」
「難あり、ですか」

「愛想がないっていうか、必要最低限しか喋らないタイプなの。だから余計なことは言わず、原稿を受け取って、さっと帰ってきなさい」

 性格に難あり。大物作家の原稿を取りに行く、それだけのことなのに、妙に気が重くなった。私はまだ入社三年目の下っ端で、大物作家と直接やり取りをした経験はほとんどない。担当の萌木さんがいるから成り立っている関係に、見知らぬ人間がのこのこ出向いて、気分を害されないだろうか。

「あの……大物の先生なら、編集長か先輩が行ったほうがいいんじゃないですか?」
「私は三時から印刷所と校了の打ち合わせで動けないの。山岸は取材で外、加藤は今週休み。消去法でさなっちしかいないのよ。ごめんね」

「わかりました」

 腹を括るしかなさそうだ。萌木さんが送ってくれた住所を確認し、乗り換え案内で経路を調べる。オフィスから三十分ほどの場所にあるマンションだった。二時に間に合うように逆算すると、一時過ぎには出なければならない。

 午後一時十分、オフィスを出た。

 茶封筒を受け取るだけの仕事だ。原稿を受け取って、折り曲げないように持ち帰る。それだけ。性格に難ありだと言われたが、挨拶をして、受け取って、お礼を言って帰れば、五分もかからないだろう。電車に揺られながら、頭の中でシミュレーションを繰り返した。

 マンションの最寄り駅を出ると、並木道が続いていた。八月の午後で、街路樹が歩道に影を落としている。蝉が鳴いていた。マンションは十二階建ての瀟洒な建物で、エントランスのガラス扉の横にインターフォンのパネルが並んでいる。萌木さんから聞いた部屋番号を押した。呼び出し音が三度鳴って、応答があった。声はなかった。無言のまま、エントランスの自動ドアが開く。

 愛想がないというのは本当らしい。

 ロビーに入り、エレベーターで上階に上がった。廊下を歩いて、部屋の前に立つ。インターフォンを押す前に、鞄の中から名刺を一枚取り出しておいた。初対面だ。名刺くらいは渡さないと失礼だろう。

 インターフォンを押した。
 数秒の間があって、玄関のドアが内側から開いた。

「萌木の代理で来ました北坂紗那でっ……」
 言葉が途中で途切れた。名刺を差し出した手が、空中で止まった。

 先生が立っていた。

 身体が固まった。指先から足の爪先まで、全身の血液が一瞬で凍りついたような感覚だった。名刺を持った右手が微かに震えているのが、自分でもわかった。

 先生も固まっていた。ドアノブに手をかけたまま、私の顔を見ている。一瞬だけ、先生の目がわずかに見開かれた。呼吸一つ分の間。それからすぐに、先生の表情はいつもの無愛想に戻った。いつもの、という言い方はおかしいかもしれない。六年前の記憶の中の無愛想と、今目の前にある無愛想が、寸分違わず同じだっただけだ。

 和服ではなかった。黒いシャツにスラックスという姿で、袖は肘のあたりまでまくり上げられている。肩幅の広さも、腕の筋の浮き方も、布一枚越しにはっきりとわかった。髪型は変わっていなかった。前髪を上げてセットした、あの髪型。顔の輪郭も、眉の角度も、感情の読めない目の色も、六年前のまま。四十五歳のはずなのに、記憶の中の先生とほとんど重なって見える。

 先生は私から視線を外さないまま、名刺を一瞥した。名刺に印刷された文字を読んだのか読まなかったのか、すぐに視線を戻して言った。

「萌木からは聞いてる。原稿、持ってくるから」

 六年ぶりに先生の声を聞いた。耳に届いた瞬間、鼓膜の奥に残っていた記憶の音と今の声が重なって、胸の底がぐらりと揺れた。先生はそれだけ言うと、ドアを開けたまま奥に引き返していった。

「――はい」

 返事が遅れた。先生の背中が廊下の奥に消えていくのを、ドアの前に立ち尽くしたまま見送った。あの背中に寄りかかっていた六年間の思い出が蘇り、足の裏が畳の感触を思い出した。

 玄関の中に、匂いが漂っていた。煙草とインクの匂い。六年の歳月を飛び越えて、鼻腔の奥をまっすぐに刺す匂い。この匂いを嗅いだだけで、身体のどこかに閉じ込めていた十八歳の私が暴れ出しそうになる。

 先生が戻ってきた。右手に茶封筒を持っている。厚みのある封筒で、中に手書き原稿が入っているのが見てとれた。先生が茶封筒を差し出す。受け取ろうと手を伸ばしたとき、先生の右手の中指が目に入った。ペンだこだ。指の関節がごつごつと浮き出ている。律希にスマホで見せている写真の手と、同じだ。

 茶封筒を受け取るときに指先が触れないように気をつけたのに、封筒を渡す瞬間に先生の指の腹が私の指にかすかに触れた。温かかった。

「ありがとうございます。確かにお預かりしました」

 事務的に言った。声が裏返らように気をつけつつ、頭を下げる。顔を上げたとき、先生の左手がドアの縁に添えられているのが視界に入った。

 思わず薬指を見てしまった。見るつもりはなかったのに、視線が勝手に吸い寄せられた。先生の左手の薬指には、何もなかった。

 指輪をしていない。萌木さんの薬指にはいつも光っているのに、先生の指には何もない。仕事中は外している人もいるだろう。先生もそうなのかもしれない。

「失礼しました」

 深く頭を下げて、踵を返した。廊下を歩き、エレベーターのボタンを押す。背後で玄関のドアが閉まる音が聞こえた。かちりという施錠の音が背後で聞こえる。

 エレベーターに乗り込み、ドアが閉まった瞬間に、壁に背中を預けた。天井の蛍光灯を見上げる。白い光が目に染みて、視界がじわりと滲んだ。

 ――大物作家って、先生のことだった。

 そっか。先生は原稿を仕上げないといけないから、萌木さんが早退してお子さんをお迎えに行ったのか。

 いつかは、どこかで出会う可能性はあるとは思ってた。ただ入社して二年。こんなすぐに先生と会うとは思わなかった。

 先生が勝手にいなくなってから六年が過ぎているのに、腹立たしいくらいまだ先生のことが好きだ。

 ――ずるいな。

 エレベーターが一階に着いた。ロビーを横切り、エントランスの自動ドアをくぐって外に出ると、八月の空気が肌に張り付いた。蝉が鳴いている。並木道の影の中を歩きながら、茶封筒を両手で抱えた。封筒越しに、手書き原稿の紙の厚みが伝わってくる。先生の万年筆が、この紙の上を走った。一文字一文字、先生の手が動いて生まれた文字が、この中に詰まっている。

 駅に向かって歩きながら、茶封筒を大事に抱え直した。
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