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第二章「北坂紗那、二十五歳」
先生からの指名
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あれから一週間が過ぎた。
あの日以来、先生のことを考えない日はなかった。仕事中にゲラの文字を追っていても、ふとした瞬間に黒いシャツの袖からのぞいていた腕が脳裏をよぎる。夜、律希を寝かしつけた後の静かな部屋で校正紙に向かっていると、茶封筒を渡されたときに触れた指先の温度を、思い出してしまう。
それでも日常は回る。先生のことを考えている暇があるなら、校正紙の赤入れを一行でも進めたほうがいい。そう自分に言い聞かせて、一週間が過ぎていった。
月曜日の朝、出社してデスクについた直後に編集長が歩み寄ってきた。何やらいつもと顔つきが違う。真剣な顔をして、こちらに来るから私もつい肩に力が入ってしまう。
「さなっちともえっち、ちょっといい?」
「はい」
編集長が隣のデスクにいる萌木さんにもちらりと目をやって、それから私に向き直った。
「凄いことになったわよ。あの大先生が、直々にさなっちを担当に指名してきたの」
「……はい?」
意味がわからなかった。大先生。先週、原稿を取りに行った先生のことだろうか。私はあの日、名刺を差し出して名前を名乗りかけて、まともに挨拶すらできずに原稿を受け取って帰っただけだった。五分もいなかった。会話らしい会話は一言も交わしていない。指名される理由が、何一つ思いつかなかった。
「指名って……私をですか?」
「そう。さなっちを。あの先生が担当を指名するなんて初めてよ」
編集長が腕を組んで、感心と困惑が混じったような顔をしている。隣のデスクで萌木さんがこちらを向いた。驚いた顔はしていなかった。むしろ、何かを納得したような穏やかな表情だった。
「実はね、さなちゃん」
萌木さんが椅子を回してこちらに向き直った。
「ちょうど旦那と相談してたところなの。二人目がほしいねって話になっていて。担当している作家さんの数を少し調整しようかなって、編集長にも相談し始めてたの」
「二人目……」
「うん。だから先生の担当を誰かに引き継ごうかって思ってたところに、先生から指名が来て。タイミングが良いというか……さなちゃん、どうかな?」
萌木さんの声は穏やかだった。笑顔の奥に、少しだけ申し訳なさが混じっている。大物作家の担当を入社二年目の後輩に渡すことへの後ろめたさもあるのだろう。
頭の中が、ぐるぐると回っていた。
先生の担当編集者になる。それは、定期的に先生に会えるということになる。嬉しいけど、嬉しくない。
――この状態で断っていいものなのだろうか。
仕事上の正当な理由がない限り、大物作家からの指名を入社二年目の編集者が断ることは、そう滅多にないだろう。普通なら喜ぶべき場面なのだろうが……つい考え込んでしまって難色を示してしまう。
「さなっち、嫌なら無理にとは言わないわよ。性格に難ありだし、面倒くさい男だし」
編集長が気遣うように付け足した。
萌木さんの左手が視界に入った。薬指の結婚指輪……。妻が妊活を始めるから、自ら担当を別にして負担を軽減しようという魂胆なのかもしれない。
「……やります」
私の返答に萌木さんがぱっと顔を明るくした。
「ありがとう、さなちゃん。引き継ぎはちゃんとするから、わからないことがあったらいつでも聞いてね」
「もえっち、引き継ぎ資料よろしくね。さなっち、大先生の原稿は月一回の受け取りだから、スケジュール管理しっかりね。手書きだから、校正の手順が他の作家さんとちょっと違うの。そのへんは、もえっちに教わって」
「はい」
編集長がようやくコーヒーを淹れに給湯室へ向かっていった。萌木さんが引き継ぎ用のファイルをデスクの引き出しから取り出し始める。オフィスの日常が、何事もなかったように動き出した。
あの日以来、先生のことを考えない日はなかった。仕事中にゲラの文字を追っていても、ふとした瞬間に黒いシャツの袖からのぞいていた腕が脳裏をよぎる。夜、律希を寝かしつけた後の静かな部屋で校正紙に向かっていると、茶封筒を渡されたときに触れた指先の温度を、思い出してしまう。
それでも日常は回る。先生のことを考えている暇があるなら、校正紙の赤入れを一行でも進めたほうがいい。そう自分に言い聞かせて、一週間が過ぎていった。
月曜日の朝、出社してデスクについた直後に編集長が歩み寄ってきた。何やらいつもと顔つきが違う。真剣な顔をして、こちらに来るから私もつい肩に力が入ってしまう。
「さなっちともえっち、ちょっといい?」
「はい」
編集長が隣のデスクにいる萌木さんにもちらりと目をやって、それから私に向き直った。
「凄いことになったわよ。あの大先生が、直々にさなっちを担当に指名してきたの」
「……はい?」
意味がわからなかった。大先生。先週、原稿を取りに行った先生のことだろうか。私はあの日、名刺を差し出して名前を名乗りかけて、まともに挨拶すらできずに原稿を受け取って帰っただけだった。五分もいなかった。会話らしい会話は一言も交わしていない。指名される理由が、何一つ思いつかなかった。
「指名って……私をですか?」
「そう。さなっちを。あの先生が担当を指名するなんて初めてよ」
編集長が腕を組んで、感心と困惑が混じったような顔をしている。隣のデスクで萌木さんがこちらを向いた。驚いた顔はしていなかった。むしろ、何かを納得したような穏やかな表情だった。
「実はね、さなちゃん」
萌木さんが椅子を回してこちらに向き直った。
「ちょうど旦那と相談してたところなの。二人目がほしいねって話になっていて。担当している作家さんの数を少し調整しようかなって、編集長にも相談し始めてたの」
「二人目……」
「うん。だから先生の担当を誰かに引き継ごうかって思ってたところに、先生から指名が来て。タイミングが良いというか……さなちゃん、どうかな?」
萌木さんの声は穏やかだった。笑顔の奥に、少しだけ申し訳なさが混じっている。大物作家の担当を入社二年目の後輩に渡すことへの後ろめたさもあるのだろう。
頭の中が、ぐるぐると回っていた。
先生の担当編集者になる。それは、定期的に先生に会えるということになる。嬉しいけど、嬉しくない。
――この状態で断っていいものなのだろうか。
仕事上の正当な理由がない限り、大物作家からの指名を入社二年目の編集者が断ることは、そう滅多にないだろう。普通なら喜ぶべき場面なのだろうが……つい考え込んでしまって難色を示してしまう。
「さなっち、嫌なら無理にとは言わないわよ。性格に難ありだし、面倒くさい男だし」
編集長が気遣うように付け足した。
萌木さんの左手が視界に入った。薬指の結婚指輪……。妻が妊活を始めるから、自ら担当を別にして負担を軽減しようという魂胆なのかもしれない。
「……やります」
私の返答に萌木さんがぱっと顔を明るくした。
「ありがとう、さなちゃん。引き継ぎはちゃんとするから、わからないことがあったらいつでも聞いてね」
「もえっち、引き継ぎ資料よろしくね。さなっち、大先生の原稿は月一回の受け取りだから、スケジュール管理しっかりね。手書きだから、校正の手順が他の作家さんとちょっと違うの。そのへんは、もえっちに教わって」
「はい」
編集長がようやくコーヒーを淹れに給湯室へ向かっていった。萌木さんが引き継ぎ用のファイルをデスクの引き出しから取り出し始める。オフィスの日常が、何事もなかったように動き出した。
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