最低な大人の恋の始め方~万年筆と嘘とキスマーク~

ひなた翠

文字の大きさ
15 / 18
第三章「大人の世界は単純明快」

忘れ物の名札

しおりを挟む
 萌木さんと編集長がまだ先生の最新話について語り合っている最中に、編集部のドアが荒々しく開いた。「あのラストの一行が犯罪よ」「わかる、心臓止まるかと思った」と二人の声が重なっている向こうで、先生が、編集部に立っていた。

 黒いコートに黒いタートルネック。冬の外気を纏ったまま、編集部の入口で一瞬だけ部屋を見回した。先生がこのオフィスに来ることは、ほとんどない。萌木さんの引き継ぎメモにも「先生が編集部に来ることは年に一度あるかないか」と書かれていた。その先生が、十二月の午後に、予告なく編集部のドアを開けている。

「え? 珍しい! 先生、どうしたんですか?」

 萌木さんが真っ先に反応した。椅子から立ち上がって笑顔で出迎える。元担当として先生の扱いに慣れている萌木さんでも、突然の来訪には驚いているようだった。編集長もコーヒーカップを置いて、眉を上げている。

 先生が何も言わないまま、視線だけが編集部の中を巡っていた。

 萌木さんを迎えに来たのだろうか。

 今年の分の原稿が終わった先生は、妻の勤務時間が終わるのを待って、そのまま二人でどこかへ出かけるつもりなのだろうか。

 ――そういうのはあまり見たくないかも。

 今日、先生のベッドの上で抱かれた記憶がまだ身体に残っているのに、先生と萌木さんが夫婦として仲良く並ぶ姿を目にしたくなかった。先生には妻がいて、私は月に一度身体を重ねるだけの相手で、先生の日常に私の居場所はない。わかっていたけれど、目の前で見せつけられるのは、やっぱり辛い。

「紗那の忘れ物を届けに。それと、次回作のネタ案の相談がしたい」

 先生がそう言った。
 萌木さんを迎えに来たのではなかったようだ。

 先生の言葉で一気に空気が変わった。

 萌木さんの笑顔がほんの一瞬だけ固まった。編集長の眉がぴくっと動いた。二人の視線が先生から私に移り、また先生に戻り、もう一度私を見る。何度も往復する二人の目線が不思議だった。

 何だろう。先生が私に忘れ物を届けに来たことが、そんなに変なのだろうか。先生は私の担当作家なのだから、用があって来ることくらいあるだろう。次回作の相談だってある。

 それとも「紗那」と呼んだことだろうか。先生は昔から私を「紗那」と呼んでいる。隣の家のガキだった頃からずっとそうだった。私にとっては当たり前のことだけれど、萌木さんと編集長にとっては違ったのかもしれない。でも、何がそんなに引っかかるのか、この時の私にはわからなかった。

「あー、でもさなちゃん……時間が」

 萌木さんが壁の時計を見た。今は午後四時半だ。お迎えの時間を考えると五時半にはオフィスを出なければならない。萌木さんは私がシングルマザーであることを知っていて、お迎えの時間をいつも気にかけてくれていた。

 うっかりプロットの話が盛り上がり、時間があっという間に過ぎ去ってしまうのを萌木さんが懸念してくれたのだろう。

「少しだけなら」

 立ち上がって、先生の方に歩いていった。先生の目が私を捉えている。無表情だった。怒っているのか、苛立っているのか、読めない表情だった。ただ、目の奥にいつもとは違う鋭さがあった。

 廊下に出て、近くの応接室のドアを開けた。先に先生が入り、私が続いてドアを閉める。小さな部屋にパイプ椅子と会議テーブルが置かれただけの、殺風景な空間だった。窓はなく、蛍光灯の白い光だけが二人を照らしている。

 先生は椅子に座らなかった。

 テーブルを挟んで私と向かい合う位置に立ち、コートのポケットに手を入れた。取り出されたものを見た瞬間、血の気が引いた。

 保育園のお迎えカードだった。

 律希の名前と私の名前が並んで書かれた、薄い黄色いプラスチックのカード。保護者証明として保育園の入口で提示するもので、これがないとお迎えができない。鞄の内ポケットにいつも入れてある――はずだった。今日、先生のマンションで鞄を開けたときに落としたのだろう。

 先生の顔が、怖かった。

 無表情の中に怒りが滲んでいる。眉間に皺は寄っていないのに、目の奥が冷たく光っていた。先生がこんな顔をしているのを見たのは、初めてだった。あの平屋で六年間過ごしても、三ヶ月の関係を重ねても、一度も見たことのない表情だった。

「結婚指輪してないし、名前も昔のまま」
 先生がカードを指先で弾くように示した。

「なのに、これはなに?」
「――返してください」

 手を伸ばした。先生がカードを高く掲げた。百八十センチ以上ある人の腕がまっすぐ上に伸びると、私の手は到底届かない。指先が空を掻いて、カードの端にすら触れられなかった。

「先生?」
「結婚してるの? 萌木みたいに、旧姓のまま働いてるってこと?」

 先生の声は低く、静かだった。静かなのに圧があった。応接室の蛍光灯がじりじりと音を立てているのが、妙にはっきりと聞こえた。

「結婚はしてないです」
「じゃあ、これはなに?」
「これは……子どものお迎えカードです」

「誰の子?」
「私の……」
「紗那と誰? 父親は?」

 視線を逸らした。テーブルの上の何もない灰色の表面を見つめる。先生の視線が首筋に刺さっているのがわかった。

「相手は知ってるのか?」
「知らない」
「言わないのか?」

 先生の声が一語ごとに硬くなっていくのが、耳で聞き取れた。先生の追及が怖い。

「大人の世界は単純明快なんです」
 先生の顔を見た。昔、先生が私に言った言葉を、先生に返した。

「その結果なだけ。カード、返してください。もうお迎えに行かないと」

 先生の目が見開かれた。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、先生の目の奥で何かが揺れたのが見えた。怒りでも苛立ちでもない。もっと深い場所にある、名前のつけられない感情が、先生の瞳を揺らした。

 カードを取り返そうと手を伸ばした。つま先で立って、精一杯背伸びをして、ジャンプした。指先がカードの角に触れた。届きそうで、届かない。先生の腕が高く、私の身長が足りない。もう一度跳んだ。

 先生が空いている方の手で、私の手首を掴んだ。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】この胸に抱えたものは

Mimi
恋愛
『この胸が痛むのは』の登場人物達、それぞれの物語。 時系列は前後します 元話の『この胸が痛むのは』を未読の方には、ネタバレになります。 申し訳ありません🙇‍♀️ どうぞよろしくお願い致します。

今宵、薔薇の園で

天海月
恋愛
早世した母の代わりに妹たちの世話に励み、婚期を逃しかけていた伯爵家の長女・シャーロットは、これが最後のチャンスだと思い、唐突に持ち込まれた気の進まない婚約話を承諾する。 しかし、一か月も経たないうちに、その話は先方からの一方的な申し出によって破談になってしまう。 彼女は藁にもすがる思いで、幼馴染の公爵アルバート・グレアムに相談を持ち掛けるが、新たな婚約者候補として紹介されたのは彼の弟のキースだった。 キースは長年、シャーロットに思いを寄せていたが、遠慮して距離を縮めることが出来ないでいた。 そんな弟を見かねた兄が一計を図ったのだった。 彼女はキースのことを弟のようにしか思っていなかったが、次第に彼の情熱に絆されていく・・・。

旦那様の愛が重い

おきょう
恋愛
マリーナの旦那様は愛情表現がはげしい。 毎朝毎晩「愛してる」と耳元でささやき、隣にいれば腰を抱き寄せてくる。 他人は大切にされていて羨ましいと言うけれど、マリーナには怖いばかり。 甘いばかりの言葉も、優しい視線も、どうにも嘘くさいと思ってしまう。 本心の分からない人の心を、一体どうやって信じればいいのだろう。

元婚約者が修道院送りになった令嬢を呼び戻すとき

岡暁舟
恋愛
「もう一度やり直そう」 そんなに上手くいくのでしょうか???

妻が通う邸の中に

月山 歩
恋愛
最近妻の様子がおかしい。昼間一人で出掛けているようだ。二人に子供はできなかったけれども、妻と愛し合っていると思っている。僕は妻を誰にも奪われたくない。だから僕は、妻の向かう先を調べることににした。

私を簡単に捨てられるとでも?―君が望んでも、離さない―

喜雨と悲雨
恋愛
私の名前はミラン。街でしがない薬師をしている。 そして恋人は、王宮騎士団長のルイスだった。 二年前、彼は魔物討伐に向けて遠征に出発。 最初は手紙も返ってきていたのに、 いつからか音信不通に。 あんなにうっとうしいほど構ってきた男が―― なぜ突然、私を無視するの? 不安を抱えながらも待ち続けた私の前に、 突然ルイスが帰還した。 ボロボロの身体。 そして隣には――見知らぬ女。 勝ち誇ったように彼の隣に立つその女を見て、 私の中で何かが壊れた。 混乱、絶望、そして……再起。 すがりつく女は、みっともないだけ。 私は、潔く身を引くと決めた――つもりだったのに。 「私を簡単に捨てられるとでも? ――君が望んでも、離さない」 呪いを自ら解き放ち、 彼は再び、執着の目で私を見つめてきた。 すれ違い、誤解、呪い、執着、 そして狂おしいほどの愛―― 二人の恋のゆくえは、誰にもわからない。 過去に書いた作品を修正しました。再投稿です。

リトライさせていただきます!〜死に戻り令嬢はイケメン神様とタッグを組んで人生をやり直す事にした〜

ゆずき
恋愛
公爵家の御令嬢クレハは、18歳の誕生日に何者かに殺害されてしまう。そんなクレハを救ったのは、神を自称する青年(長身イケメン)だった。 イケメン神様の力で10年前の世界に戻されてしまったクレハ。そこから運命の軌道修正を図る。犯人を返り討ちにできるくらい、強くなればいいじゃないか!! そう思ったクレハは、神様からは魔法を、クレハに一目惚れした王太子からは武術の手ほどきを受ける。クレハの強化トレーニングが始まった。 8歳の子供の姿に戻ってしまった少女と、お人好しな神様。そんな2人が主人公の異世界恋愛ファンタジー小説です。 ※メインではありませんが、ストーリーにBL的要素が含まれます。少しでもそのような描写が苦手な方はご注意下さい。

エリート課長の脳内は想像の斜め上をいっていた

ピロ子
恋愛
飲み会に参加した後、酔い潰れていた私を押し倒していたのは社内の女子社員が憧れるエリート課長でした。 普段は冷静沈着な課長の脳内は、私には斜め上過ぎて理解不能です。 ※課長の脳内は変態です。 なとみさん主催、「#足フェチ祭り」参加作品です。完結しました。

処理中です...