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第三章「大人の世界は単純明快」
変わる筆致
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先生のマンションを出て、オフィスに戻った。
十二月に入って、編集部は年末進行に追われていた。雑誌の合併号に向けて締め切りが前倒しになり、校正紙の山がデスクの上に積み上がっている。十二月の東京は乾燥して、指先が荒れてページをめくるたびに紙の端で皮膚が切れそうになった。加湿器が欲しいと編集長に訴えたら、「予算? ないわよ」と一蹴された。
午後四時、校正作業の合間にデスクで先生の原稿に目を通していた。今日受け取ったばかりの手書き原稿を活字に起こす前に、まず一読しておく。先生の万年筆で書かれた文字は癖があり、活字化の段階で誤変換が混じることがある。それを一つずつ拾い上げるのが、私の仕事だった。
「さなちゃん」
隣のデスクから萌木さんが声をかけてきた。椅子をくるりと回してこちらを向いている。手元には先生の雑誌掲載分のコピーがあった。
「さなちゃんが担当になってから、先生の執筆速度と作風が変わったね」
「え?」
顔を上げると、萌木さんが掲載誌のコピーを私のデスクに広げた。付箋が何枚も貼られていて、蛍光ペンで線が引かれている。萌木さんらしい几帳面な読み込み方だった。
「やっぱりそう? そう思ってたのよ!」
二つ向こうのデスクから編集長が身を乗り出してきた。コーヒーカップを片手に、目を輝かせている。恋愛小説の話になると、この二人はスイッチが入ったように熱くなる。
「そうですか? 私にはよくわからないんですけど……」
「まず執筆速度がかなり上がってる。私が担当してた頃は、締め切りぎりぎりに仕上がることが多かったの。でもさなちゃんが担当になってからは、指定日より一週間も早く呼び出されるんでしょう?」
執筆速度はたまたまだと思う。作家の先生によっては、筆が乗っていて、言葉がすらすら出てきて早く書けたという人もいるから。
先生もただ単にそういうターンに入っているだけかもしれない。
「それに、甘さと切なさのバランスが変わったの」
萌木さんが蛍光ペンで線を引いた箇所を指差した。
「今までは甘さが多かったの。ヒーローがヒロインに甘い言葉を囁いて、ヒロインがときめいて、幸せな空気に包まれる。先生の甘い描写は業界随一だから、それで十分すぎるくらい良かったんだけど」
「でも切なさの割合が増えたのよね。それも、ただ切ないんじゃなくて……なんて言うのかしら」
編集長が椅子ごとこちらに近づいてきて、萌木さんの隣に並んだ。二人で掲載誌のコピーを覗き込みながら、言葉を探している。
「『きゅん』じゃなくて『きゅーーーーん』って感じ。わかる?」
萌木さんが胸の前で両手を握りしめて言った。
「わかる! わかる! 心臓がまじで痛くなる切なさよね」
編集長が大きく頷いた。
「そこからの甘い展開がやばくて。切なさで胸を抉られた後に、ヒーローがヒロインに本音を漏らす瞬間があるでしょう? あのときの甘さが、前よりずっと深くなってるのよ。痛みを知った後の甘さっていうか。あの文章を四十代のおやじが書いてるかと思うと……ちょっとアレだけど」
「ちょっとどころじゃないわよ。あの冷たい先生がこれを書いてるなんて、作品と人間のギャップが激しすぎて眩暈がする」
萌木さんが苦笑した。編集長もけらけらと笑っている。
二人の熱い語らいを聞きながら、私はゲラに目を落とした。先生の文章が活字になって並んでいる。
文章は確かに綺麗だった。万年筆の筆致がそのまま活字に変換されて、一文一文に先生の呼吸が残っている。でも、萌木さんと編集長が興奮している「きゅん」と「きゅーーーーん」の違いが、私にはわからなかった。
切ない場面だとは思う。甘い場面だとも思う。でも、それが胸を抉るほどの切なさなのか、心臓が痛くなるほどの甘さなのか、読んでいても感覚として掴めなかった。文章を客観的に評価することはできる。構成の巧みさや、場面転換のタイミングの良さは理解できる。技術的に優れていることはわかる。でも「きゅーーーーん」という感情の震えが、私の中で起きない。
――恋愛小説の編集者なのに。
自分自身の恋愛経験が乏しすぎて、女心の繊細な動きがわからない人間になってしまったのかもしれない。
先生が書く恋愛の「きゅーーーーん」がわからない。
私の恋が「きゅん」でも「きゅーーーーん」でもないからだ。先生への感情は、もっと重くて、苦くて、息が詰まるようなもので、胸がときめくという甘い表現では収まりきらない。好きだと言えなかった十二歳からの六年間と、窓を閉められた十八歳の夏と、先生の子どもを一人で産んだ十九歳の秋と、先生の妻の隣のデスクで働いている今。全部が積み重なった感情は、「きゅん」なんて可愛い音では鳴らない。
ただ、痛い。ずっと、痛いだけだ。
「さなちゃん、聞いてる?」
萌木さんの声で我に返った。
「聞いてます。きゅんときゅーーーーんの違い、ですよね」
「わかった?」
「……正直、わかんないです」
正直に答えると、萌木さんと編集長が顔を見合わせた。
「さなっち、恋愛小説の編集者としてそれはまずいわよ」
編集長が呆れたように言った。
「すみません……」
「まあ、いいけど。さなっちは技術面の校正が正確だから、そこは信頼してるの。感情面の読み込みは私ともえっちでフォローするから。役割分担ね」
「ありがとうございます」
頭を下げながら、ゲラの文字に目を戻した。先生の文章が、活字の列になって並んでいる。この文字の一つ一つを、先生は万年筆で書いた。
先生の文章が甘くなったのは、切なくなったのは、私のせいなのだろうか。
そんなわけがない。先生は恋愛小説のプロだ。甘さも切なさも、計算して書いている。読者の心を動かすために、最も効果的な言葉を選んで並べている。それが先生の仕事であり、才能であり、四十代のおやじが書いているとは思えないほどの技術だ。
私が担当になったこととは、たぶん関係ない。
関係があるとしたら、それは――先生が私を抱くことで何かのスイッチが入って、執筆の調子が良くなっているという、それだけの話だ。身体が反応するかしないか。先生にとって私は、創作のための刺激の一つでしかないのだと思う。
ゲラを閉じて、デスクの引き出しにしまった。向かいのデスクでは、萌木さんと編集長がまだ先生の最新作について語り合っている。「あのラストシーンの一行がやばい」「あれは犯罪よ、心臓に悪い」と楽しそうな声が響く中、私は次の校正紙を手に取って、赤ペンのキャップを外した。
十二月に入って、編集部は年末進行に追われていた。雑誌の合併号に向けて締め切りが前倒しになり、校正紙の山がデスクの上に積み上がっている。十二月の東京は乾燥して、指先が荒れてページをめくるたびに紙の端で皮膚が切れそうになった。加湿器が欲しいと編集長に訴えたら、「予算? ないわよ」と一蹴された。
午後四時、校正作業の合間にデスクで先生の原稿に目を通していた。今日受け取ったばかりの手書き原稿を活字に起こす前に、まず一読しておく。先生の万年筆で書かれた文字は癖があり、活字化の段階で誤変換が混じることがある。それを一つずつ拾い上げるのが、私の仕事だった。
「さなちゃん」
隣のデスクから萌木さんが声をかけてきた。椅子をくるりと回してこちらを向いている。手元には先生の雑誌掲載分のコピーがあった。
「さなちゃんが担当になってから、先生の執筆速度と作風が変わったね」
「え?」
顔を上げると、萌木さんが掲載誌のコピーを私のデスクに広げた。付箋が何枚も貼られていて、蛍光ペンで線が引かれている。萌木さんらしい几帳面な読み込み方だった。
「やっぱりそう? そう思ってたのよ!」
二つ向こうのデスクから編集長が身を乗り出してきた。コーヒーカップを片手に、目を輝かせている。恋愛小説の話になると、この二人はスイッチが入ったように熱くなる。
「そうですか? 私にはよくわからないんですけど……」
「まず執筆速度がかなり上がってる。私が担当してた頃は、締め切りぎりぎりに仕上がることが多かったの。でもさなちゃんが担当になってからは、指定日より一週間も早く呼び出されるんでしょう?」
執筆速度はたまたまだと思う。作家の先生によっては、筆が乗っていて、言葉がすらすら出てきて早く書けたという人もいるから。
先生もただ単にそういうターンに入っているだけかもしれない。
「それに、甘さと切なさのバランスが変わったの」
萌木さんが蛍光ペンで線を引いた箇所を指差した。
「今までは甘さが多かったの。ヒーローがヒロインに甘い言葉を囁いて、ヒロインがときめいて、幸せな空気に包まれる。先生の甘い描写は業界随一だから、それで十分すぎるくらい良かったんだけど」
「でも切なさの割合が増えたのよね。それも、ただ切ないんじゃなくて……なんて言うのかしら」
編集長が椅子ごとこちらに近づいてきて、萌木さんの隣に並んだ。二人で掲載誌のコピーを覗き込みながら、言葉を探している。
「『きゅん』じゃなくて『きゅーーーーん』って感じ。わかる?」
萌木さんが胸の前で両手を握りしめて言った。
「わかる! わかる! 心臓がまじで痛くなる切なさよね」
編集長が大きく頷いた。
「そこからの甘い展開がやばくて。切なさで胸を抉られた後に、ヒーローがヒロインに本音を漏らす瞬間があるでしょう? あのときの甘さが、前よりずっと深くなってるのよ。痛みを知った後の甘さっていうか。あの文章を四十代のおやじが書いてるかと思うと……ちょっとアレだけど」
「ちょっとどころじゃないわよ。あの冷たい先生がこれを書いてるなんて、作品と人間のギャップが激しすぎて眩暈がする」
萌木さんが苦笑した。編集長もけらけらと笑っている。
二人の熱い語らいを聞きながら、私はゲラに目を落とした。先生の文章が活字になって並んでいる。
文章は確かに綺麗だった。万年筆の筆致がそのまま活字に変換されて、一文一文に先生の呼吸が残っている。でも、萌木さんと編集長が興奮している「きゅん」と「きゅーーーーん」の違いが、私にはわからなかった。
切ない場面だとは思う。甘い場面だとも思う。でも、それが胸を抉るほどの切なさなのか、心臓が痛くなるほどの甘さなのか、読んでいても感覚として掴めなかった。文章を客観的に評価することはできる。構成の巧みさや、場面転換のタイミングの良さは理解できる。技術的に優れていることはわかる。でも「きゅーーーーん」という感情の震えが、私の中で起きない。
――恋愛小説の編集者なのに。
自分自身の恋愛経験が乏しすぎて、女心の繊細な動きがわからない人間になってしまったのかもしれない。
先生が書く恋愛の「きゅーーーーん」がわからない。
私の恋が「きゅん」でも「きゅーーーーん」でもないからだ。先生への感情は、もっと重くて、苦くて、息が詰まるようなもので、胸がときめくという甘い表現では収まりきらない。好きだと言えなかった十二歳からの六年間と、窓を閉められた十八歳の夏と、先生の子どもを一人で産んだ十九歳の秋と、先生の妻の隣のデスクで働いている今。全部が積み重なった感情は、「きゅん」なんて可愛い音では鳴らない。
ただ、痛い。ずっと、痛いだけだ。
「さなちゃん、聞いてる?」
萌木さんの声で我に返った。
「聞いてます。きゅんときゅーーーーんの違い、ですよね」
「わかった?」
「……正直、わかんないです」
正直に答えると、萌木さんと編集長が顔を見合わせた。
「さなっち、恋愛小説の編集者としてそれはまずいわよ」
編集長が呆れたように言った。
「すみません……」
「まあ、いいけど。さなっちは技術面の校正が正確だから、そこは信頼してるの。感情面の読み込みは私ともえっちでフォローするから。役割分担ね」
「ありがとうございます」
頭を下げながら、ゲラの文字に目を戻した。先生の文章が、活字の列になって並んでいる。この文字の一つ一つを、先生は万年筆で書いた。
先生の文章が甘くなったのは、切なくなったのは、私のせいなのだろうか。
そんなわけがない。先生は恋愛小説のプロだ。甘さも切なさも、計算して書いている。読者の心を動かすために、最も効果的な言葉を選んで並べている。それが先生の仕事であり、才能であり、四十代のおやじが書いているとは思えないほどの技術だ。
私が担当になったこととは、たぶん関係ない。
関係があるとしたら、それは――先生が私を抱くことで何かのスイッチが入って、執筆の調子が良くなっているという、それだけの話だ。身体が反応するかしないか。先生にとって私は、創作のための刺激の一つでしかないのだと思う。
ゲラを閉じて、デスクの引き出しにしまった。向かいのデスクでは、萌木さんと編集長がまだ先生の最新作について語り合っている。「あのラストシーンの一行がやばい」「あれは犯罪よ、心臓に悪い」と楽しそうな声が響く中、私は次の校正紙を手に取って、赤ペンのキャップを外した。
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