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果たされた約束
しおりを挟む「……約束、果たしてくれたのね」
すべてを思い出した少女はしかし、嬉しいとは思えなかった。
自分のせいでかつて愛した人を失ったのだ。
約束を果たされたとしても、それを喜ぶことができない。
「…………」
少女は、闇の中で繰り広げられる、黒い渦と黒い塊のひしめき合いに目を向けた。
黒い塊が、雄叫びを上げながら黒い渦の中に呑み込まれていく。
音のない絶叫が空気を震わせ、少女は肌に鳥肌を立てる。
二つの底知れない憎悪が込められたモノがひとつになったとき、少女は闇の魔女としてこれを受け止めなければならない。
それが闇の魔女としての少女の役割だ。
だが今の少女は、自分にそれができるとは到底思えなかった。
「――なぜ?」
ずっとそうしてきたのに、自分ではあれを受け止めきれない。
ここで意識を取り戻した時、闇から切り離されたような感覚を覚えた。
ずっと繋がれていた鎖が砕け散ったような音を聞いた気がする。
少女の手足に巻き付いている蔦のような触手は、いつしかあの渦ではなく、別の方向から伸びていた。
こっちだ。
まるでそう言うかのように、くいくい、と腕を引かれる。
そちらの方から、誰かが歩いてくる。
「あ……」
薄らぼんやりと、記憶の中の、あの青年が浮かび上がった。
その手には、何かを持っている。
それを青年が差し出してきた。
「これは……?」
尋ねても彼は応えない。
闇の中、淡く光るそれを、少女は手に取った。
「――本?」
淡く光るそれは、一冊の本のようだった。
その本の表紙に、『Lily Bell』という文字と同時に、漆黒の髪の少女がスズランの花を耳に挿している絵が浮かび上がった。
そしてその本は、スズランの花へと変化していく。
青年はその花を見てから、少女の漆黒の双眸へと微笑みかけてくる。
『リリィ……』
彼の手が、少女の白い頬へと添えられた。
『リリィ・ベル……』
真っすぐに見つめてくる青い双眸には、少女の姿が映っている。
「リリィ……ベル……?」
どうして青年は、自分を見てスズランの名を囁くのだろう。
少女の手にあったスズランが、リンリン、と音を奏でる。
そして少女の手の中へと溶けて、その光が少女の中へと流れ込んできた。フワッと身体が軽くなり、少女の身体が光に包まれる。
『リリィベル』
青年の声が、身体の中に染み込んでいく。
「――まさか……」
少女は青年を凝視した。
こんなこと有り得ない。
あって良いことではない。
そう反論しかけたが、それよりも先に、少女の腕が強い力で引っ張られた。
「あ……!」
青年が遠ざかっていく。
黒い触手が少女を引っ張っている。
「いや! いやぁ!!」
青年の方へと手を伸ばすが、その手は届かない。
あの時のように、手は宙を切って彼を掴むことができない。
「いや! そっちはもう嫌なの! 行きたくない!!」
悲鳴を上げて少女は触手へと手をかけ、それを引き千切る。
その蔦のようなものはいともたやすく引き千切れた。
霧散していくその触手から逃れるようにして、少女は走り出す。
少女に気を取られたせいか、形勢逆転され黒い塊が闇の渦を呑み込んでいく。
そして今度は、黒い塊が不気味に蠢き、走る少女を追いかけてくる。
「来ないで! あっちに行って!!」
髪を振り乱し叫ぶ少女の脳裏に、金色の髪と深い青い瞳の青年の顔が浮かぶ。
「デュ……クス……、デュクス……!」
初めて、少女はその青年の名を唇に刻んだ。
名を呼んではいけない。
闇の魔女である少女が、誰かの名を口にしてはいけない。
呼べば、闇の魔女とその人を繋いでしまう。魂を縛り付けてしまう。
そうとわかっていても、呼ばずにはいられなかった。
どこまでも続く果てのない闇の中を、少女は走り抜ける。
「デュクス……、デュクス……」
彼の元へ行きたい。
こんな場所にいたくない。
心からそう思った。
だが黒い塊はもう背後まで迫っている。
黒い塊が体当たりするように少女の身体に覆いかぶさろうとしてくる。
もう駄目だ。
そう諦めかけた。
そのとき――。
「やっと私の名前を呼んでくれた」
ふわり、と何かに包み込まれる。
温かいこのぬくもりを、少女は知っている。
痩躯を抱きしめる腕の強さも、視界に広がる黄金の輝きも、その優しい声も。
全部、知っている。
「迎えに来た。遅くなって、すまない」
身体を密着させたまま、少女は顔を上げた。
「ッ……!」
少女を抱きしめていたのは、心から望んだ唯一無二の青年だった。
彼をその瞳に捉えたとき、世界が暗転する。
何かに弾き出されるような激しい衝撃に、少女は身体を固くした。
その次に、瞼の裏が眩い光りで覆われ、温かい腕の中、少女はそっと瞼を押し開ける。
「大丈夫か……?」
頭上から降ってきた声に、温かいぬくもりに、その確かな感触に、少女の視界は滲んでいく。
目の奥が熱くて、溢れるモノを止められない。
「全部、終わった」
少女は、霊廟の中でデュクスに抱きしめられていた。
彼女の背後では、粉々に砕け散った大樹の残骸が砂のように崩れて落ちていく。
そしてその砂は、ローブを着た漆黒の髪の青年の手の中へと集まっていく。
「あぁ、どれもこれも、ろくな詩ではありませんね……」
手の中に集まった砂を指で確かめながら、黒髪の吟遊詩人は残念だと肩を竦める。
「あぁ、でもこれは、とても綺麗な詩だ」
言いながら、砂の中から一粒の何かを取り出した。
リンリン、とその粒は鈴のように鳴る粒が、少女へと差し出された。
「受け取りなさい。これはあなたのものです」
「…………」
デュクスの腕の中、少女はフイッと顔を背け、彼の胸板に顔を埋め、ギュッと抱き着いてそれを拒む。
「これは、今のあなたの理です。恐ろしいものではありませんよ」
「…………」
いやいや、とデュクスの腕の中でそれを拒むと、大きな手に頭を撫でられた。
「あなたを縛っていたものは、もうこの世界のどこにもないんだ。全部、壊してしまった」
「…………」
「勝手なことをしてすまない。どうしても、あなたを自由にしてやりたかった。あんな地下牢なんかじゃなくて、もっと自由に、生きてほしかった――」
ふわり、と、何かの紙の破片が、少女の膝の上に舞い落ちてくる。
「フィーから、手記のことを聞いてるんだろう? あれは、かつて千年前、私が前世に書き残したものだ……。そして死ぬ直前、その男に預けた」
デュクスの視線が、盲目の吟遊詩人へと向けられる。
その非難めいた双眸に睨まれても、吟遊詩人は悪びれることなく微笑んでいる。
「もうこの世界には、あなたを『闇の魔女』と呼び、あなたを疎む者はいない。あとは――あなただけだ」
デュクスは長い指で、胸板に顔を押し付けている少女の顎を取った。
顔を上向かされた少女の瞳は、大粒の涙で濡れている。
まるで物語の続きを待ち望む子供のような眼差しで、デュクスは溢れ流れる雫を指先で拭った。
「選んでくれ――。ただの少女になるか、それとも……」
ふわりと、デュクスは少女の唇に口づけを落とした。
触れるだけで離れていくぬくもりを、少女は無意識に追いかけようとして、ぴたりと動きを止めた。
彼の服を掴む手に、力が籠る。
「――……私……は……、――……」
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