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二章 新しい自分
8-3 無自覚だから質が悪い。
しおりを挟む「ここだよ」と言われ、俺は顔を上げる。
目の前には赤煉瓦と古い木でできた、レトロな構えの家があった。
扉の前には『OPEN』と書かれた札が下げられており、横には『純喫茶』と書かれている看板が立っていた。
「僕のおすすめのお店なんだ」
「すごい……趣のある店ですね」
「でしょ? 見た目もだけど、味も気に入ってるんだよ」
蜜希さんが言いながら、扉に手をかける。
扉が開かれ――最初に感じるのは強いコーヒーの香り。
次いで、甲高い声が飛び込んできた。
「いらっしゃいませ。って、あらぁ! みっちゃんじゃないの! 久しぶりねぇ~、こんなに大きくなっちゃって!」
「智子さん、お久しぶりです」
蜜希さんは軽く会釈をする。
中年のふくよかな女性は、「いつぶりかしら~?」と声を上げる。
人の良さそうな顔に合っている、元気な声。
俺はそのやり取りを、後方で伺い見る。
(蜜希さんの知り合いなのか?)
「もう、最近全然来ないから気になってたのよ~。元気にしてた? 体は大丈夫?」
「見ての通り、元気ですよ。ご心配ありがとうございます。智子さん達はどうでしたか?」
「元気予元気!」
「もう、本当にいい子なんだから~」と女性が頬に手を当てる。
嬉しそうな顔をして、蜜希さんの肩を叩いた。
――瞬間、俺は心臓に針を落とされたような痛みを感じた。
(? なんだ、今の)
しかし、その違和感は一瞬で消えてしまう。
俺が自身の胸元を撫でていると、奥から声がした。
「こら、お前。出入り口で立ち止まるんじゃないよ」
声をかけたのは、もう一人の店員だった。
かっちりとしたベストを着こんだ中年の男性は、女性を困った顔で見ている。
白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけた彼は、この店の店主だろうか。
彼女は「あら。ごめんなさいね」と微笑んで、今度こそ案内をしてくれた。
「こっちの席でいいかしら?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「いいのよぉ」
「お連れの方も、たくさん頼んでくださいね」と朗らかに言って、女性は席を離れて行った。
俺は無意識に強張っていた肩を落とす。
「ごめんね。あの人、いつもこんな感じで」
「お知り合いなんですか?」
「うん。同級生のご両親だよ」
「へえ」
席に座り、メニューを差し出してくる。
俺は受け取りながら、もう一度女性の方を見た。
先ほど窘めた男性と、カウンターの向こうで仲良く話している姿が見える。
俺の疑問を察したのか、蜜希さんも二人へと視線を投げかける。
「夫婦でやっているんだ。旦那さんは元々外の人で、智子さんを追いかけてきてくれたんだって」
「ロマンチックだよねぇ」という蜜希さんは、メニューに視線を落としている。
「……蜜希さんは、そういうのに憧れているんですか?」
「え?」
「あ、いやっ」
俺は慌てて喉の奥に蓋をした。
(俺、なんでこんなこと)
変なことを聞いてしまったと自覚はあった。
俺は慌てて誤魔化そうとして――それよりも早く、蜜希さんが口を開いた。
「うーん、素敵だなぁとは思うけど、憧れることはないよ」
「えっ、あ……」
「暁月くんは? そういうロマンチックなのが好みなの?」
蜜希さんの揶揄う瞳が俺を見る。
その視線に俺の焦りは吹き飛んでしまった。
素直に答えるのも面白くなくて、俺は肩肘をついて努めて挑発的な態度を取った。
「さあ、どうでしょう」
「ふふ。暁月くんも食えない人になってきたねぇ」
「蜜希さんのお陰です」
二人で目を合わせ、どちらともなく笑う。
心地のいい雰囲気に、俺は心の中が満たされていくのを感じていた。
蜜希さんに店の看板メニューを教えてもらい、俺はそれを注文した。
ブラックコーヒーを選ぶ俺の横で、蜜希さんはカフェラテを頼んでいたけど。
「お待たせいたしました~! はい、ハムたまごサンド二つとコーヒーとカフェラテね」
「ありがとうございます、智子さん」
「いいのよぉ。それより、貴方、えらいイケメンじゃないの!」
「えっ?」
飛び火すると思っていなかった俺は、弾かれたように顔を上げる。
『興味津々』と書いてありそうなくらい強い視線が、俺を見つめている。
俺はつい体を後ろへと仰け反らせた。
「あ、えっと。ありがとうございます……?」
「あらあら、声も優しくていいじゃない! ねぇ、みっちゃん?」
「何で俺に言うんですか」
「だってみっちゃんの彼氏でしょう?」
「違いますよ」
蜜希さんは苦笑いで答える。
智子さんは「あら、そうなの?」と残念そうにしていた。
その後、いくつか言葉を交わした彼女は、再び聞こえる旦那さんの声に慌てて仕事に戻っていった。
「ごめんね、暁月くん。びっくりしたよね」
「それはまあ……」
「嫌だったらちゃんといってね?」
「僕が何できるかわからないけど」と蜜希さんが眉を下げる。
俺はその顔を見ながら、コーヒーを啜った。
思わず「美味しい……」と零せば「でしょ?」と蜜希さんが笑う。
コロコロ変わる表情は、見ていて飽きない。
「サンドイッチも美味しいから食べて。ほらほら」
「急かさないでください」
蜜希さんに言いながら、俺はおしぼりで手を拭いた。
サンドイッチを手に取り、歯を立てる。焼かれたパンがサクッと音を立てた。
「! これ、いいですね!」
「ふふ。でしょう?」
分厚い中身の味が、口の中いっぱいに広がっていく。
チーズも入っているようで、温かいパンで若干溶けかけているのが余計に味わいを深くしている。
舌鼓を打っていれば、蜜希さんが満足そうな顔をしていることに気が付いた。
「気に入ってくれたみたいでよかったよ。これの外にも、エビカツサンドも美味しいよ。エビがぷりっぷりで」
「誘惑しないでください。食べたくなるんで」
「まだまだ若いんだし、食べれるんじゃない?」
ぐぬぅ、と喉の奥で悔しさに声が落ちる。
俺はちらりとメニューを見て、目を閉じ――観念した。
「食べる?」
「食べます」
「素直でよろしい」
蜜希さんは追加で注文をすると、自分の分を手に取った。
蜜希さんの細い指が、黒い髪を形のいい耳に掛ける。
差し込む陽の光が、蜜希さんの横顔を照らしていた。
頭が揺れると細い髪が数本、白い頬に落ちてくる。
薄い唇が開かれ、パンに触れる。
その光景が、俺の目にはスローモーションに映った。
白い歯が音を立て、サンドイッチを食む。
白い頬が膨らみ、唇を赤い舌がぺろりと舐める。
――何でもない仕草のはずなのに、胸の奥がひどくざわついた。
「? どうしたの、暁月くん」
その言葉に、俺はハッとした。
無意識に伸ばしかけた手を勢いよくひっこめた。
「い、え。大丈夫です。気にしないでください」
「? そう?」
俺は頷く。
蜜希さんは訝し気にしながらも、追撃はしてこなかった。
そのことに安堵して、俺は再び食事を再開する。
(……なん、か)
いけないものを見たような気がする。
蜜希さんはただ、食事をしていただけなのに。
俺は気まずさを感じながら、窓の外を見る。
涼しいクーラーの風が、身体の熱を冷やしてくれる。
それからすぐ。
追加で注文したエビカツサンドが運ばれてきた。
その時には体に籠っていた熱はなくなっていた。
(それにしても)
俺は、再び智子さんの話の餌食になっている蜜希さんを見る。
(何の疑いもなく“彼氏”なんだな、俺)
友人とか、知人、後輩でもない。
まるで蜜希さんの恋人が男であることを疑わないような雰囲気。
(……もしかして、蜜希さんは男が恋愛対象なのか?)
もしそうなのだとしたら、俺は――――
「暁月くん?」
「あ、はい! なんですか?」
「ううん。別に何かあるわけじゃないんだけど、ぼーっとしてたから」
蜜希さんの手が伸びて来る。
額に触れた手は、飲み物のせいで冷たくなっていた。
蜜希さんの体温が額から全身に回っていく。
手の奥に蜜希さんの心配そうな目が見えた。
(蜜希さんの、目が……)
蜜色の瞳から、目が離せない。
喉の奥が渇いて、形容しがたい欲求が腹の底から駆け上がって来るみたいだった。
「――兄貴?」
「え」
ふと聞こえた第三者の声に、俺と蜜希さんが振り返る。
大きなリュックを背負った青年が一人、俺たちを見下げて目を見開いていた。
「――朝陽?」
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