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二章 新しい自分
9-1 真夏の嵐、到来
しおりを挟む「何してんだよ、こんなところで」
「朝陽こそ、いつ帰って来たの?」
「今日。ついさっき」
蜜希さんが顔を上げたまま問いかける。
青年は鋭い視線で蜜希さんを見下げたままだ。
(兄貴、って)
もしかして弟――!?
俺は慌てて蜜希さんを見た。
以前、彼から弟がいるって聞いてたけど、まさかこんなところで出会うとは。
黒い髪を短くカットした彼は、スポーツでもしているような風体だ。
がっしりとした体や、気の強そうな目は蜜希さんとは真逆の印象を受ける。
(兄弟にしては似てない、っていうか……)
「で。何してんのって聞いてるんだけど」
「え? ああ、普通に出かけてご飯食べてるんだよ」
「こいつと?」
じろり。
不躾な視線が俺に投げられる。
俺はそれが気に食わなくて、視線を合わせるだけに留めた。
(こいつ……)
――アルファだ。
間違いない。
鼻先を掠めるアルファのフェロモンはそう強くはない。
しかし、俺は腹の奥がざわざわとするのを感じる。
まるで、棘のある扇子で全身を撫でられているかのような嫌悪感。
それは蜜希さんが青年と接する度、強くなる。
(俺以外のアルファが、蜜希さんの近くにいるなんて……)
ベータの弟がアルファであることは、何も珍しくはない。
だが、それとこれとは別だ。
『アルファ』という生き物は、大体がベータやオメガを見下しているものだ。
相手が家族でも恋人でも、友人でも、関係ない。
「ハッ。兄貴、相変わらず男の趣味やべーな」
「は?」
「ちょっと。何言ってるのさ、朝陽。暁月くんとはそんなんじゃないよ」
「はあ? こんなにべったりくっついといて、“そんなんじゃない”って? ハッ、嘘つくならもっとマシな嘘つけよ」
青年が鼻で笑う。
(何の話かは分からないが)
好意的に思われていないのは、確実らしい。
「何のこと?」
「は? 何、兄貴。気づいてないわけ?」
「だから、何の話って聞いてるんだけど?」
「ふーん?」
青年の視線が、俺を見る。
その視線は馬鹿にしているようにも、警戒しているようにも見えて、俺は眉を寄せた。
「まあいいけど。あの人だけじゃなくて、こんな年下にも手を出すとか。兄貴として恥ずかしくないわけ?」
不躾なのは視線だけではなかったらしい。
ブチリ。
頭の中で何かが切られたような音がする。
「なぁ」
俺は会話を遮って声を掛けた。
青年を見上げ、わざとらしい笑顔を浮かべた。
「君、陵岳学園の子だろ?」
「は? ……だったらなに」
「おかしいな。あの学校に君みたいな頭の悪い学生は入れないようになっているはずなんだけど。――ああ。それとも、アルファだから優遇してもらえたのか?」
「なッ!?」
「アルファにだけは緩い学校だからなぁ、あそこ」
知った風に告げれば、彼はわなわなと拳を震わせる。
だが、実際俺は知っていた。
なんと言っても、彼の身に纏っている学生服を俺も着ていたのだから。
「お前に何がわかる!」
「君のことは知らない。初対面だし。でも、君も俺のことは知らないだろう?」
青年は息を飲む。
悔し気に唇を噛んだ。
俺はそれに気付いた上で、畳みかけることにした。
「蜜希さんの弟くん、だっけ? まあ、家族だからと言って、言っていいことと悪いことの区別もつかないのかな。無いよね。それとも、君は子供でも分かることが理解出来ない、可哀想な人間だと?」
「っ、何を偉そうに――!」
瞬間、俺は青年の口を塞ぐ。
玉のように丸くなった目に、俺は最上級の笑顔を向けた。
「だからさ。黙れって言ってんの、わかんねぇ?」
フェロモンが威圧に変わる。
さっきまで漂っているだけだったフェロモンが、鋭い刃となって青年を襲う。
青年は喉をひくりと引き攣らせた。
きっと今頃、喉元に鋭利なナイフを突きつけられているような気分だろう。
彼の顔は可哀想なくらい真っ青になっていた。
そしてきっと、彼の本能が言っているに違いない。
――『目の前の人間には逆らわない方がいい』、と。
「そこまでだよ、二人とも」
その一言に、ざわめきが一瞬で制される。
俺は振り返り、声の主である蜜希さんを見た。
蜜希さんはいつも携えている微笑みを消して、俺たちを真っすぐ見ていた。
怒っている。
俺はそう悟った。
「まったく、二人とも。何してるの。ここお店の中だよ?」
蜜希さんの指摘に、俺はハッとする。
店内を見渡せば、店主が今にもカウンターを飛び出しそうな勢いでこちらを見ていた。
頭に上っていた血が一気に引いていく。
俺はいったい何をしているんだ。
「す、すみません」
「よろしい。朝陽は?」
「……俺はこいつに絡まれただけ――」
「あ、さ、ひ、は?」
蜜希さんが、青年の名前を強調するように問う。
俺ですら感じる威圧が、蜜希さんから漂ってくる。もちろん、フェロモンではない。
青年はぐっと眉を下げると、しおらしく肩を落とした。
謝罪を口にしないのは、最後の悪あがきだろう。
蜜希さんは「まったく」と腰に手を当てた。彼の反応を予測していたのだろう。
「それじゃあ、行こうか」
「あ、会計……」
「君たちが騒いでる間に払っておいたよ」
えっ、と足を止める。
テーブルを見れば、丸めて置いてあった注文書がいつの間にか無くなっていた。
(いつの間に!?)
「蜜希さん、俺の分払いま――」
「ハイハイ。話はあとで聞くから」
「ちょ!?」
がしっと蜜希さんの腕が、俺の腕を捕まえる。
反対側では青年の腕を掴んでいた。
驚いている間もなく、そのまま俺たちは出入り口へと引きずられていく。
存外強い力に、俺たちは成す術もない。
俺は咄嗟に店の中を振り返り、智子さん達に頭を下げる。
二人はにこやかに見送ってくれたが、罪悪感は消えるわけがなかった。
今度何かお詫びをもってこよう、と思いながら、俺は店を後にする。
蜜希さんは強引に俺たちを引っ張って、どこかへと向かっているようだった。
涼しい店内とは違い、熱い日差しがギラギラと俺たちを照り付けている。
空気が熱気で揺れている。
体に纏った冷気が、徐々に削られていく。
俺はその背中をじっと見つめた。
後頭部で跳ねていた寝癖はいつの間にか落ち着いてしまったらしく、今は姿も形もない。
それが少し寂しかったのと同時に、繋がった腕の熱さを鮮明に感じる。
暑い。
――けれど、どうしてか振り払う気にはなれなかった。
俺は彼の後頭部に視線を戻す。
さらりとした黒髪は、俺にはどこか怒りを孕んでいるように見えて。
(やらかしたなぁ……)
蜜希さんに嫌われたくはないのに。
俺は一人、天を仰ぐ。
清々しいほどの青空に、俺はこの先のことを考えて苦い気持ちになった。
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