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二章 新しい自分
10-2 弟から見た彼のこと
しおりを挟む採点を入れて、一時間後。
勝利の女神がほほ笑んだのは、俺の方だった。
「くっそ!」
朝陽が苛立たし気に施設のタイルを蹴る。
俺は伝票を片手に、上機嫌にその前を歩いていた。
蜜希さんは苦笑い気味に俺の隣を歩いている。
「もう、あんまりイライラしないの」
「うっせ!」
「此処の料金、全部持ってもらうよ?」
蜜希さんの脅しに、朝陽は黙り込んだ。
彼は未だ学生だ。
バイトをしているとはいえ、三人分のお金なんて大ダメージだろう。
朝陽は「大人げねぇな」と吐き捨てるが、蜜希さんは「大人でも人間だからね、こっちも」と言葉を返す。
『やられたらやり返す権利はある』と言いたいのだろう。
(気持ちはわからなくないけどな)
俺は苦笑いしながら、カウンターに伝票を出した。
数曲歌った合計点で競うことにした俺と朝陽の点差は、僅か三点差だった。
とはいえ、歌の三点は結構大きい。
だからこそ、朝陽の悔しさは理解できた。
(でも、これで大きな顔はしなくなるはず)
アルファの性なのか、男の性なのか。
こうして勝負をして負けた後は、少しの間大人しくなるものだ。
(まあ、机を蹴ったことは蜜希さんが謝らせてたし)
勝ったのを盾に、今後は敬語と名前にさん付けで呼ばせることを約束したので、俺としては清々しい気持ちでいっぱいだが。
「ごめん。ちょっと僕、お手洗い行ってくるね」
「わかりました」
娯楽施設を出て、上階に上がったところで蜜希さんが言う。
俺は施設の中で行ったので、待っていることにした。
トイレの近くの壁にもたれ掛かれば、少し距離を開けたところに朝陽が立つ。
なんだかんだ大人しく待っているのだから、本当に蜜希さんが大好きなのだろう。
……しかし、この状況は思った以上に緊張する。
俺は気まずさに、ちらりと彼を盗み見た。
不服そうな顔をしたまま、どこかを見つめる朝陽は、こっちを見ようともしない。
(嫌われてるな、俺)
まあ、わかっていたけど。
俺は視線を戻して、小さく息を吐いた。
――確かに、学校の寮から帰ってきたら見知らぬ男が自分の家に住み着いていたなんて、普通嫌だろう。
俺だって嫌だと思う。
それがアルファなら、猶更。
(そう思うと、申し訳ない事したな)
まあ、今更どこか別のところに行こうとは思わないけど。
「なぁ、アンタ」
「約束」
「……暁月、サン」
渋々呼ぶ彼に、俺は「何?」と答える。
彼は心底嫌そうな顔をして、俺を見ていた。
「アンタ、兄貴の何?」
「何って、何が?」
「っ、だから! 付き合ってんのかって聞いてんだよ!」
真っ赤になって叫ぶ朝陽。
予想外の言葉に、俺は瞬きが早くなる。
(あれだけ蜜希さんが否定してたのに)
この子は何を言っているんだ?
「……蜜希さんの言葉、聞いてなかったのか?」
「聞いてたに決まってんだろ。けど、アンタを見てりゃわかる。――少なくとも、アンタはそう思ってないんだろ」
俺は息が止まるような気がした。
まさか、彼にバレているとは思っていなかったのだ。
(何故? いつ、どこで気づかれた?)
誰にも分らないように気を付けていたのに。
冷や汗が背中を流れる。
そんな俺を他所に、彼は「そんな顔すんじゃねーよ」と吐き捨てた。
「安心しろよ。兄貴はわかってねぇから。俺がアルファだから気付いたってだけで」
「……どうして」
「フェロモン。兄貴に付けてんだろ」
「それも、べったりと」と言われ、俺は無意識に息を殺した。
手を握りしめる。
爪の先が手の平に突き刺さって、痛い。
流れる冷や汗が止まらない。
(なん、で)
そんなつもりなかったのに。
「まあ別に? アンタが兄貴とどういう関係だろうが、どうでもいいけどな。ただ、兄貴は……すげぇお人好しだからな」
「やっぱりブラコン……」
「うるせえ! 別にアンタが特別なわけじゃねーから! 勘違いすんなよ!」
吐き捨てるように言う彼に、俺は瞠目する。
「当然だろ」とすぐさま呟けば、彼は意外そうな顔で俺を見る。
「蜜希さんの優しさは俺限定じゃないっていうのは、もうわかり切ってる。それでも、俺は蜜希さんに優しくされたら嬉しいし、優しくされているのを見たら羨ましく思う」
「……アンタ、恥じらいとかねぇわけ?」
「ないな。ない」
そんなもの、持っていても何の役にも立たない。
俺は言外にそう伝えた。
朝陽は後頭部をガシガシと掻く。
「チッ……マジでいけ好かねぇ野郎だな、アンタ」
「奇遇だな。俺も同じこと思ってるよ」
「うぜぇ」
ケッ、と吐き捨てる朝陽。
(そっちから話しかけて来たくせに、ひどい言われようだな)
彼の理不尽さに、俺は小さく息を吐く。
まあ、別にいいけど。慣れたし。
朝陽から視線を外し、トイレの方を見る。
丁度、扉の向こうから蜜希さんの姿が見えた。
彼は杖を突くおじいさんを優先して、ドアを開けて待っている。
その姿に心の奥が温かくなった。
(いいな)
好きな人のそういう面を目の当たりにして、俺は急に誇らしく感じる。
蜜希さんを手助けに向かおうとして――それよりも早く、朝陽が動き出した。
「……アンタが何を企んでるのかは知らねぇけど、兄貴を傷つけたら容赦しねぇからな」
低く、地を這うような声だった。
俺は無意識に足を止めてしまった。
朝陽は振り返り、俺を見る。
ポケットに手を突っ込んで、まるで不良のような出で立ちだった。
「まァ、どうせ望みなんかねぇだろうけど」
「えっ」
「それと、さっさと兄貴に付いてるアンタのフェロモン、どうにかしろよ」
彼の言葉に、俺の脳は真っ白になった。
(望みが、ない?)
まさかそんなことを言われるとは思わなかった。
(……そんなに嫌われていたのか、俺)
揶揄い混じりの声ではないのが、余計に落胆を生む。
俺はぐっと眉を寄せた。
(今度、絶対に一泡吹かせてやろう)
俺はそう心の中で決めた。
――この時、彼の言葉の意味を深く考えなかったことを、俺は近い将来にひどく後悔することになるとは知らずに。
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