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chap8.爛れた感情
149.届かない短剣
しおりを挟む部屋に戻ってきたナルズゲートに、リーイックは、ぼんやりしたまま振り向いた。
まだ体は動かない。ベッドに横たわったまま、両手と両足を投げ出して、ぐったりしたまま、ナルズゲートを見上げる。
部屋に入ってきたナルズゲートの手には、血塗れの布が握られていた。彼がそれを離すと、床に落ちた布から人の足が転がり出る。
それには全く興味がない様子のナルズゲートは、ベッドに横たわったリーイックに、リーイックが知っていた頃の顔で、笑った。
「リーイック様……ただいま戻りました…………お加減はいかがですか?」
「……ぐ……」
リーイックは、一瞬だけ掴んだ正気を頼りに、拘束から逃れようとした。
しかし、腕も足も、言うことを聞かない。どちらも、そこにないかのように感覚がなかった。
今度は言葉で拒絶しようと試みるが、唇すら、自由に動かすことができない。
一体自分は、どうしてしまったのか。
もがくリーイックを見下ろし、ナルズゲートが微笑んだ。
「動けませんか? よかった……リーイック様、どうかそこで、私がシグダードを捕まえる手伝いをしてください……」
「……なぜ…………なぜ、そうまでして……」
やっと、口だけは動かせた。シグダードのことを聞けば、またさっきのように怒り出すのではないかと思ったが、ナルズゲートは、いつものように、穏やかだった。
「…………憎いと、そう申し上げたではありませんか」
「……憎いとは……どういうことだ……? シグダードは……水魔族ではないぞ……」
「知っています。だって、私以外の水魔族は、私が全て殺しましたから」
「…………なに?」
「私は、誓ったんです。必ず、水魔族の魔力をこの世から打ち払ってやると」
「ナルズ……? 何を言っている……?」
「シグダードの、その魔力だって、例外ではありません。全て、この世から殲滅してみせます」
「なぜっ……! そこまでしてっ……ぅっ……!」
苦痛に耐えながらの質問に、目の前の男は、まるきり言葉には似つかわしくない、満面の笑みで答える。
「私は、あの魔力が、どうしようもなく憎いのです。考えただけで、こうして話していることすら、辛くなるほどに。私はそれを打ち消すためだけに、ずっと生きてきたのです」
「うぐっ……! あああっっ……!!」
全身が強く痛む。
のたうつこともできずに喘ぐリーイックを、ナルズゲートは、魔性の瞳で見下ろしていた。
まるで、その目の中に引き込まれていくようだ。
ひどく気持ちが悪い。
吐きそうだ。
「ナ……ナルズ……」
「リーイック様……」
ナルズゲートが顔を近づけてくる。冷えてしまった唇が重なり、何度も吸うようにされ、そのキスから、また何かが流れ込んでくる。それは、目には見えない、熱の波のようだった。体の奥が溶けていくようだ。
胸を掻毟って泣き喚きたいのに、冷え切ったリーイックの手足は、ぴくりとも動かない。
呼吸すら乱れ、ただ喘ぎ続けるリーイックの唇を、彼は何度も甘噛みしていた。
ちゅっ、という甘い音の刺激が、リーイックの耳に入ってくる。
「リーイック様…………………………コーリゼブル・キリゼブルの毒をご存知ですか?」
「………………ど……どく……だと?」
「あの毒は、水魔族の王が、地下に監禁した男に作らせたものです……私は、その方の世話を言いつけられていました……」
「なんだとっ……!? ではっ……! お前はっ……その時からっ……! 生きてっ……!!」
「最初は、嫌で嫌で仕方がありませんでした。なぜ私が、毒を作るために連れてこられた下郎の世話などしなくてはならないのかと。けれど、逆らうこともできず、私は渋々、あの部屋に向かいました。そこはまさに、悪魔が作り出した檻でした。彼は逃げられないように、魔力の鎖で繋がれていたのです。リーイック様……今、あなたを縛り付けているそれですよ?」
「ぐっ……あああ!!」
見えない鎖は、ぎりぎりとリーイックを締め上げる。まるでそれが、体の中に入ってくるようで、全身が激しく痛んだ。
もがくリーイックの隣に、ナルズゲートは座り込んで、リーイックの肌に触れてくる。
着ていたものはほとんど脱がされ、剥き出しになった胸に、ナルズゲートの爪が刺さる。ぷち、と肌が切れて、そこから血が流れた。
リーイックは、激しい痛みにもがき苦しんでいた。けれど、それを見下ろすナルズゲートは、どこまでも穏やかだ。まるで、在りし日の思い出を旧友と語り合っているかのようだった。
「……この鎖は、こんな風に、常に魔力を送るためのものなんです。私たちは魔族ですが、過ぎた魔力を受ければ、身が崩壊して死にます。あの方は、ずっとこの鎖に繋がれて、逃げる力すら奪われた状態で、毒を作っていたんです。そしてある日、部屋中に敷き詰められた生きた鎖は、私にまで向かってきた…………その時……多分、私は、今のあなたのように泣いていたんです。そしたら、あの方はこれを私に渡して、私を助けてくれました」
ナルズゲートは、小さな時計を取り出した。古い懐中時計のようで、秒針が竜の姿をしている。それを見下ろしながら、彼はつぶやくように続けた。
「魔力を吸い取って動く時計です。これに鎖の魔力を吸わせてしまえば、お前が縛られることはないと言って……馬鹿な方です。こんなものを隠し持っているなら、自分で使えばいいのに。私はずっとあの方を見下していたのに、あの方は、そんな私にこれを渡したのです。自分自身は、魔力の鎖に繋がれて、全身が痛んでいただろうに…………今の、あなたのように……」
「ぐっ……あああああ!!!!」
全身が刺すように痛んだ。
これが魔力か。全身を切り裂くようにして入ってくる、これが。
しかし、喘ぐリーイックのことなど、もうナルズゲートは目に入っていないかのようだ。
「これさえあれば、お前は死ななくてすむと言われ、私は戸惑いながらも、これを受け取りました。けれど、代わりにあの方は、鎖の魔力に苦しめられ、日に日に弱っていく。私は、あの方に時計を差し出し、返すと言いましたが、あの方は一度も受け取ってはくれなかった。俺は大丈夫だからと、そう言って……私は、少しでもあの方の体が楽になるように、そばにいて、介抱に努めました。そして、毒が完成する直前になっても、あの方は生きていたのです。私はついに、あの方が自由になれるんだと、そう思いました。完成すれば解放すると、あの王はあの方とそう約束していたのです。そして、あの方は毒と一緒に作ったものを武器に、あの王の前で、全てを終わらせる気でした。これを……」
彼が握っていたものを見せてくる。それは、小さな瓶だった。
「……解毒剤です。コーリゼブル・キリゼブルの毒の」
「なんだと……!?」
「見てください。これは、生きているんですよ?」
彼がそう言うと、瓶の中の液体が浮き上がり、音を立てて元に戻る。まるで、触手のようだった。
「まさか……生きた解毒薬など…………」
「…………あの方は……一緒にこの解毒薬も作っていたのです。口にいれれば、誰もが助かるものです。そして、毒と混ぜれば、毒を無効化することもできる…………あの方は王の前で、毒の効果を立証したのち、こっそり、毒を無効化するつもりだったのです」
「立証……だと?」
「……彼は、王と共に死ぬつもりだったのです。そして、倒れた自分の手から、毒が落ちる前に、全て無効化してしまおうと。そうすれば、誰かがその毒で死ぬこともない。そうやって、自らが生み出した毒を消滅させるつもりだったのです。私は、あの方が死ぬことが嫌で……毒の瓶をこっそり奪って逃げました。これさえなければ、あの方が死ぬこともない。そして、あの方が作り上げたものが、人の命を奪うこともない。これで誰もが苦しまなくていいと、そう思いました。しかし………………私は拘束され、逆賊としての扱いを受けました。全身を切り裂かれ、あの魔力の鎖に繋がれた…………」
「ぐっ……!!」
再びの、強い痛み。それはリーイックの体に押し込むようにして入ってくる。耐え切れるものではなかった。
「あっ……ぐうっ……!! な、ナルズ!! 鎖を外してくれ!! 俺は逃げない!!」
あまりの苦痛に耐えかねて喚くが、彼はリーイックではなく、どこか遠いところにあるものを見ているかのようだった。
「私は、独房の中で死を覚悟しました。けれど、私には、あの方が渡してくれたこの時計があったんです。時計が鎖の魔力を吸い尽くし、私は目を覚ますことができた……」
彼が笑うたびに、全身が痛む。激しい痛みに耐えるリーイックに、ナルズゲートはまるで慰めるように微笑んで、その胸をそっと舐めた。
「うっ……!!」
冷たい彼の舌が当たったところだけ、痛みが解ける気がした。
かすかな、麻酔のようなそれを感じて、リーイックは霞んだ目の向こうの男を見上げる。
彼は、幾分穏やかな顔になっていた。
「逃げ出した私は、玉座のある広間に走りました…………走ったのに…………あの方は、すでに大広間で、大勢に囲まれて事切れていました。あの方は、王の前に出て、私を解放するようにと、ずっとそう叫んでいたそうです。けれど聞き入れられず、彼はあの鎖で縛り上げられた……王は最初から、あの方を解放する気など、なかったのです。すべてっ……嘘でした……っ!!」
ぐっと、彼の手に怒りがこもる。その爪がリーイックの体の中に入り込んで、ますます鎖が強くリーイックを締め付ける。
「がっ…………あっ……あああ!!」
「あの王は、控えていた処刑人たちに、あの方を羽交い締めにさせました。そしてその時、悪いことに、あの方の体から、解毒剤がこぼれ落ちてしまったのです。その正体にすぐに気付いた王は激昂し…………あの方の目の前で、解毒剤を破壊して見せてから、あの方を魔力の鎖でズタズタに嬲ったのちに、毒を飲ませたのです。あの方は、大勢の前で毒を飲むように迫られ……死んだんです…………誰もがのたうって死ぬあの人の最後を、手を叩いて喜んだそうです。完成だと歓喜の声を上げて…………」
ナルズゲートは何度も突き刺したあの短剣を、再びリーイックの枕元に刺した。
「後少しで、憎いあの王の首を切り落とせたのに…………私があの広間に行った時、血まみれのこの剣と、廊下で倒れたいくつもの死骸を見て、恐怖に駆られたあの王は、私にあの毒を投げつけたんです。毒で濡れた私の剣は、その場にいた全ての者から力を奪った。その時の私が、唯一恐れた解毒剤は、あの王が既に破壊していましたから、何も恐れるものはありませんでした。私は、結局何も成し遂げられないまま、全てが終わってしまったんです。あの場で……私も死ねればよかったのに、それすら叶わず…………こうして生き残った……」
彼は大きくため息をついて、リーイックの体に寄り添う。その体の温かさが伝わると、少し体が楽になり、腕も動いた。
「ナルズ…………」
そっと、赤ん坊に寄り添うように彼の頬に手を当てる。
すると、彼が少し笑った気がした。
「…………リーイック様……………………あなたは、あの方に似ているんです…………ずっと、私に背を向けて、私には訳のわからないものを動かしていて……そして、私に少し疲れた顔で振り向くんです…………あなたの顔を見ていると、私は安らいだ……」
「ぐっ……! ああああっ!!」
「私は、あなたを傷つけたいわけではないのです。本当に、シグダードの居場所はご存知ないのですか?」
「ああ……知らない!! 本当だ!!」
「そうですか」
彼の、表情が変わる。
自分の過去やリーイックと話す時には、かすかに元の、リーイックが愛した頃の彼に戻るのに、シグダードの話になると、まるで様子が変わる。彼が何者なのか、分からなくなってしまいそうなほどに。
「あなたが……そう言うのなら…………そうなのかもしれません…………あなたは存外薄情ですから…………本当に……知らないのかっ……! やっと……ここまで来て! あの男を殺せるはずだったのにっ……! やっと、チャンスが巡ってきたのに!! あなたは!! あなたはひどい人だ!!」
「うっ……ぎゃああああーーーーっ!!!」
大声を上げて泣き喚くリーイックを、じっと、ナルズゲートは見下ろしていた。憎悪だけで曇った目で。
「リーイック様……あなたはもうしばらく、ここにいてください…………少しは、私の力になっていただきたいので」
「ナルズ……っ! 俺はっ……」
叫んでも、ナルズゲートはリーイックに振り返らない。立ち上がり、扉の方へ歩いていく。
「誰かがまた入ってきたようです……ああ、面倒くさい…………どうせなら、シグダードでも迷い込んで来ればいいのに……」
「待て……待ってくれ! ナルズ!! 俺はっ……!」
呼びかけるが、彼は振り向かず、出て行ってしまった。
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