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13 氷の魔女は奮闘する

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 途中で箒が立てかけてあるのに目を止めた私は、後でお返ししますと呟いてそれに飛び乗ると、滑るように空中へと躍り出た。
 夜空を舐めるように蠢く炎に近づいていくにつれ、人々の叫びが大きく聞こえてくる。逃げ惑う彼らの声は切迫感に覆われていて、私を追い立てるようだった。
 防災会議で指示されたところによれば、まず私が行くべきは避難所。火の手から少し離れたところに教会の尖塔が見えるので、あそこへ行って救護にあたるべきだろう。
 しかし、現場では臨機応変に動くことが最も重要だ。人命の救助が最優先なので、まずは街中を低空飛行して遭難者を探すことにしよう。
 ものの数分で現場へとたどり着くと、既に魔術武官達が救助にあたっていた。魔術研究官、魔術医務官、そして軍隊と消防隊はまだ辿り着いていないようだ。まだまだ人手が足りていない状況の中、私は街中を飛び回る。
 火の手に追われてアパートのベランダに出てきている人がいた。すぐさま飛んでいくと、その方は年老いた女性だった。

「お婆さん、あなた一人?」
「は、はい、魔女様」
「箒に乗って。安全なところへ連れて行くから」
「あ……ありがとうございます!」

 私は魔術の正当な教育を受けてこなかったため、力のコントロールや氷以外の魔術が苦手という致命的な欠点を有している。この一年で随分マシにはなったが、出来るのは空を飛ぶ事と物体を移動させることくらいで、まさかお婆さんを遠く離れた教会までぶっ飛ばすわけにも行かない。
 彼女を乗せて教会へと向かう道すがら、助けを求める人々が、それぞれ屋上やベランダに避難しているのが見えた。
 ああ、本当に人手が足りない。こんなにたくさんの人が助けを求めているのに、今の人数ではとても追いつかない。
 ともかく急いで教会の前でお婆さんを降ろし、中に備蓄されていた転移用魔法陣シートを担ぎ上げると、お礼の言葉を背に再び飛び立つ。これをどこか適当なところに設置して、人々を避難所へと転送するのだ。
 魔法陣を噴水広場に設置してから、一人ずつ、しかし確実に燃える建物から地上へと移動させる。噴水広場へ向かうよう告げると、またすぐに次の人を救助に向かった。
 そうして幾ばくかの時間がすぎた頃、空中にてヒルダさんと再会を果たしたのだった。

「フレヤ! あなたも来てたのね!」
「ヒルダさん」

 彼女は顔をすすだらけにしていたが、恐らく私も同じような状態になっていることだろう。
 見れば、周囲では多くの魔術師が夜空を飛び交っていた。その中には研究官と医務官もいて、それぞれが必死になって救助と鎮火に尽力しているようだった。

「乾燥していたからか、火の勢いが強いわ。あなた大丈夫? 過酷な現場よ、ここは」
「私は大丈夫です。ヒルダさん、先程噴水広場に転移用魔法陣を設置して来たので、使って下さい」
「助かるわ、ありがとう。フレヤも頑張って!」

 ヒルダさんは力強い笑みを残して、猛スピードで飛び去って行った。激励を得た私は、気合いを入れ直して再び救助へと向う。
 しかし、そこで視界の端に既視感のある人影を捉えて、私は再び空中で静止していた。
 あれは、あの後ろ姿は。見間違えるはずもない。
 私がついさっき首都中を探す事を誓った彼は、あろうことか火災の中心部へと疾走しているようだった。

「マットソン少佐!」

 私は生まれてから一番の大声でその名前を叫んでいた。彼が後ろを振り返った時には、私はそのすぐ側で箒から飛び降りたところだった。

「フレヤ嬢! 君も来ていたのか」
「あなたは一人なの?」
「丁度実家に帰ってきたところだったんだ。どうせ軍は陛下の許可がなきゃ動かせないから、一人で救助活動中だ」
「ご実家は?」
「近所共々避難完了したよ」

 たしかマットソン少佐のご実家は宿屋さんだったはず。きっとお客さん全員避難するのは骨が折れたことだろう。その証拠に、彼は額から玉の汗を滴らせている。

「ここから先に行っては駄目よ」

 炎が彼の頬を赤く照らし出す。これ以上進むのはいくら軍人でも危険極まりない。通路が狭く、燃え盛る建物がいつ落ちてくるとも知れない状況なのだから。

「ここに多数の市民が取り残されてるとの情報があったんだ」

 マットソン少佐の表情は硬く、状況が切迫している事を示していた。
 この先の通りは炎の勢いが激しく、煙で殆ど何も見えない状況だったのだ。先程その煙をかき分けて捜索を試みたが、何も見えずに断念したという経緯があった。

「君はもう避難所に戻ったほうがいい」
「待って。お願い!」
「君にお願いをされるのなんて初めてだな。……けど、俺は行くよ」

 彼の力強い瞳に私は言葉を失った。危ない事などして欲しくなくて、必死に言い募ろうとしていた口が、凍りついたように動かなくなる。

「助けを待っている人がいるかもしれない。こんな時に動かないで、何が軍人だ」

 そうだ、彼はそういう人だった。勇敢で、猪突猛進で、国を守りたいと考えて軍人になるような純粋な人。知らずのうちに私の心を救ったこの人が、市民の危機を黙って見過ごすはずもない。
 私は炎を受けてオレンジ色に輝く彼の瞳を見つめていたのだが、不意に彼が微笑むので虚を突かれてしまった。

「俺のことなら心配いらない。なにせ俺は寒さにも強いが暑さにも強いから、このくらいの事で死んだりはしないんだ」

 マットソン少佐はいつかの台詞を引用して笑みを浮かべてみせた。
 私をなだめるにしても、相変わらず随分と下手な言い回しだ。そんな事を言われたところで、小学生ですら納得しないだろう。

《フレヤ、聞こえるか? こちらはリンドマン》

 その時のことだった。唐突にリンドマン室長の声が響いて、私達は目を瞬かせた。一拍ののち、慌てて懐を探った私は、室長が開発した最新の通信機を発掘したのだ。

「リンドマン室長。こちらはフレヤ・エルヴィスト三等魔術研究官」

《お、偉いぞちゃんと持ってたか。お前今どこにいる》

「ノルダル地区です。マットソン少佐とおります」

 すると少しの間をおいて、通信機からニヤリと笑う気配が伝わってきた。なんだろう、この様子。何だかとんでもないことを考えているような。

《そりゃちょうど良かった。フレヤ、お前に指令を出す。魔力を使って雪を降らせて、この大火事を鎮火するんだ》

「……正気ですか?」

 《残念ながら正気だ。いいか、責任は俺が取る。外に居た人間の屋内退避は完了した。こっちで結界を張っておくから、存分にやるんだ。あとはマットソンに付き合ってもらえ。頼んだぞ》

 リンドマン室長は一方的にまくし立てると通信を切ってしまった。
 私は戸惑いを隠しきれないまま顔を上げ、マットソン少佐と視線を交わらせたのだが、それでも不安を払拭することはできなかった。

「どうしよう。そんな大きな魔法は使ったことがないの。もし力が暴走したら、私は……!」

 どうしようもない恐怖心が頭を支配して、私は胸の前で震える手を握り合わせた。
 今まで力をコントロールするための訓練を重ねてきたとはいえ、ミスの許されない局面で使って良い段階ではない。
 もし力が暴走したら? 暴走まではいかなくとも、少しの手違いで誰かを傷付けてしまったとしたら……?
 脳裏をあの晩の出来事が駆け抜けていく。荒れ果てて冷え切った部屋の様子と、倒れ伏した男たちと、血まみれになって私を抱きしめてくれた兄の姿が、体を凍りつかせて行くようだった。
 誰が許しても、私が私を許せないのだ。私はできることなら、魔法で誰かを助けるようなことがしたかった。傷付けたくなかった。それなのに。

「大丈夫だ。落ち着いて」

 それはあまりにも突然の出来事だった。羽根のように優しい力で、私はマットソン少佐の腕の中に閉じ込められていた。
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