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薄影メガネ

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第三章~新妻扱編~

070 逃亡する猫

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 獣人化する酢、獣酢じゅうすをジュースと勘違いしてククルにもらい。それを飲んだ翌朝に私は桜色の瞳の白い尻尾と耳を持つ、猫の獣人になってしまった。

 その事態の深刻さに、一瞬だけ止まっていた涙が再びあふれ出す。白い耳をへにゃへにゃさせてまたしくしくと泣き出してしまった私を、フェルディナンは両腕で抱き上げたままずっと子供をあやす要領でよしよしと頭をでてなぐさめ続けていた。
 冷静そのもののフェルディナンの姿に少し安心するけれど、私は獣人化してしまった自身の身体を受け入れることが出来ずまたもパニックを起こしてしまった。

「う~……ほんにゃに、どうすれにゃいいにゃ!? にゃおる方法は? フェルディニャン知ってるにゃ? それにこのことにゃっ! にゃんでこんにゃ話し方ににゃるのっ!」
獣酢じゅうすを飲むと獣人化すると共に言葉にもその獣人特有の言語が入るようになるそうだが……」
「にゃぁんですってぇっ! そんにゃのいにゃー!」
「……落ち着け月瑠、君の場合は猫だからな。猫っぽい話し方になっているようだが……やはり何を言っているのかよく分からんな……」

 首をかしげて、何処か面白そうな顔をしてしげしげと私を観察していたフェルディナンが、何を思ったのか私の両脇に手を入れて高い高いするように私を持ち上げた。
 落ち込んでいる私はダランと吊り下げられている干された洗濯物のように、なんの抵抗もせずただただ力無く項垂うなだれていた。そうしてフェルディナンのなすがままに空中をぶらぶらさせられている姿は、首根っこを掴まれて動けなくなっている猫のようにも見える。桜色の瞳からポタポタと涙を流してうつむき加減に白い尻尾と耳も一緒にダランと垂らしている様子は、まるで捕獲されてしょぼくれている猫そのものだ。

「ずっとこのにゃにゃだったらどうしにゃう……」
「……今、このままだったらどうしようと言ったのか?」
「うにゃ~」
「……何というか……完全に猫そのものだな……」
「にゃ……」
「今のは何といったんだ? あまり意味があるようには感じなかったが……」
「ふにゃぁ~」
「……すまん返事が短いと言っていることが理解出来ない」
「う~、あいづち打ってにゃだけにゃのに~」
「そうか……」

 空中をぶらぶらダラリと垂れ下がりながら、あまり意味のない会話をしているともっと気持ちが落ち込んでくる。というか正直、へこむ。そうしてフェルディナンに高い高いされて、泣き止みはしたものの私ががっくりと落ち込んだままだから、フェルディナンはもう一度胸元に私を抱え直してよしよしと背中を撫でた。

 それにしても、先程からフェルディナンの言動がどうもおかしい。のんびりしているというか、何か持て余しているというか。何にしても明らかに心ここにあらずな様子だ。それもさっきからずっと私の事を玩具おもちゃか何かのように扱っていて明らかに遊んでいる。というか私は完全にフェルディナンに遊ばれていた。
 こんな姿になってしまったのだから物珍しさにそうなっても仕方が無いかと思いつつも、やはりフェルディナンの様子が変なのがどうしても気になった。

「フェルディニャン……? どうしたにゃ?」
「いや……何でもない」
「にゃ~?」
「それよりも戻る方法なんだが」
「もどる方法があるにゃ?」
「あるにはあるが、君はかなり嫌がりそうだ……」 
「いにゃ?」
「それが分かるだけに、それを俺の口から君に提案するのは正直気が進まない」
「ふえぇ……フェルディニャン~」

 元の姿に戻る方法がそんなに難解な方法なのかと弱気になって、またも泣き出してフェルディナンに抱きついたら、フェルディナンの肩が震えていた。それも相当に何かを我慢しているような感じで肩の揺れが徐々に大きくなっているのが視界でも確認できる。
 もはや通常の会話もままならない状態で混乱におちいりそうになっている私を、フェルディナンがいつもの淡々とした大人の口調で落ち着かせている。
 ――そういう構図のはずだった。

「……すまない。もう限界だ……」
「!? ……ど、どうしたにゃっ!?」
「くっ……はははははははは! はは、す、すまない、だがその、君の言葉遣いが……」
「ことにゃづかい?」

 ビクッと毛を逆立てて猫の獣人らしく瞳孔を極限まで開いたまん丸な瞳で、ジーッとフェルディナンを観察する。

「どうにもその……集中出来ない」
「ひどいにゃ!」
「すまない。ちゃんと聞くから怒らないでくれ」

 フェルディナンが笑うのも確かに無理はない。けれどもやっぱりムカついて頬を膨らませながら不機嫌な顔のままツーンとそっぽを向いていたら、フェルディナンに顎を掴まれた。クイッと上向かされて唇が触れそうなくらい近くに顔を寄せられる。

「君はそんなすぐに元の姿に戻りたいのか? いまの姿でも十分魅力的だが……」

 フェルディナンは獣人化した私の姿をまだ楽しんでいたいようだ。惜しむように頬を撫でられて熱い視線を向けられる。

「……それで、にゃおるにはどうすればいいにゃ?」
「ああ、方法自体は簡単だ。同じ個体の精子を定期的に一週間摂取し続ければいい」
「……にゃ? それってもしにゃして、その期間ずっと絶え間なくフェルディニャンとエッチするってことにゃ?」
「そういう事だな。それと摂取する時間帯も決まっている。朝と昼と夜の三回に分けて行わなければ効果はない。以前話した子作り期間と同じ要領だな」
「にゃあんですって――――――――っっ!!?」
「その反応……だから君は嫌がりそうだと言ったんだ。元の姿ならまだしも獣人化した姿では流石さすがに嫌がりそうだと思ってはいたが……――っ! 月瑠!?」
 
 私は本物の猫のようにフーッと毛を逆立てて威嚇いかくして、フェルディナンの腕の中から飛び出した。どうやら獣人化すると身体能力も飛躍的に上がるようだ。身体の筋肉も何というか柔らかくなっているようだし。身が軽い。おかげで軽々とフェルディナンの頭上を飛び越えて部屋のすみっこに降りることが出来た。こうして超人的な身体能力を駆使して私はフェルディナンから逃げまくった。

「こらっ逃げるな月瑠!」
「いやにゃっ!」
「分かった無理強いはしない! だから逃げるな!」
「やにゃ――――っ!」

 言うが早いか私が全力で逃げようとしたところで部屋の騒ぎを聞き付けたバートランドが入ってきた。

「どうしたんです! いったいなんの騒ぎ、て……姫、様? そのお姿は……」
「バートニャンドにゃん! 助けにゃー!」
「へっ? 姫様? 今何と?」
 
 顎の筋肉を緩めて口をぽかんと開けた間抜けな顔で、呆然ぼうぜんと突っ立っているバートランドの横に今度はイリヤが現れた。

「イリニャー!」
「何なんだよ。朝っぱらからなにを騒いで……月瑠どうしちゃったんだそれ……」

 イリヤは入って来た姿勢そのままにドアの取っ手を掴んで身体を硬直させている。

「イリニャー! お願いかくにゃって!」

 フェルディナンから逃げた私はイリヤに助けを求めてその背中にヒシッとしがみついた。

「……ちょっと待てよ。これは、いったいどんな事態なんだ?」
「イリニャかくにゃって! 助けにゃ!」
「いや、あの、月瑠今、かくまえ? って言ったのか? 助けってって? そう言われても……って何? もしかしてフェルディナンと喧嘩してるのか?」
「う~っ!」

 最早もはや、猫そのものになりきってフェルディナンへ威嚇行動を向け続けている私と威嚇されているフェルディナンの様子に、何が起こっているのか分からず始終困惑しきりのイリヤへフェルディナンがさらに追い打ちをかけた。

「イリヤ、月瑠をこちらに」
「えっとさあ、俺あんまりこういうのに巻き込まれたくないんだけど……というかどっちの肩も持ちたくないんだけど」
「イリニャ~」
「そんな可愛い声で言われても困る……」
「イリヤ……」
「フェルディナンもそんな怖い顔するなよ。てか二人共ちょっと落ち着けよ、な?」
 
 王と王妃に挟まれて勘弁してくれとぶつぶつ呟きながら、何とかイリヤが間に入って仲裁しているものの一触即発いっしょくそくはつのピリピリとした空気が室内には流れている。
 今にも捕獲されそうな私と捕獲しようとしているフェルディナンとそれに巻き込まれたイリヤ。そして一人蚊帳の外に置かれ見守るしかないバートランドという奇妙な構図が展開される中、私はある人物のことが頭をよぎった。

「あっ! そおにゃ!」
「月瑠、今度は何をする気だ……?」

 思いついたとポンッと手を打つ私に、疑わしい視線を向けてくるフェルディナンに応えず。私は臨戦態勢(逃亡の準備)を整えた。
 混乱のあまりすっかり失念していた。戻る方法を一番詳しく知っていそうな人がいたことを。例えわずかでもフェルディナンから聞いたとんでもない条件よりましな戻る方法を知っているのではないかと、かすかな希望が生まれたことに目を輝かせて少しだけ気持ちが浮上する。私はその一縷いちるの望みにかけることにした。

「ククルにゃんに会って聞いてくるにゃ~」

 会って聞くとはもちろん戻る方法についてだ。私はランランと目を輝かせながら柔軟でしなやかな筋肉を使ってバネのように身体を動かした。そうして身軽な身体を跳躍ちょうやくさせて一気に部屋の外へ飛び出した。
 一度の跳躍で、あっという間にフェルディナン達の視界のはしまで移動する。その素早過ぎる動きに放心している皆の様子が面白くて、わざとバイバイと明るくにこやかに手を振って逃走してみた。あまりにも鮮やかに。軽やかにその超人的な獣人の身体能力であっさりフェルディナン達をまいて逃走してしまった私の後ろ姿を、不覚にも茫然ぼうぜんと見送る形になってしまったフェルディナン達の制止する声が王城の廊下に響いた。

「――っ! 待ちなさいっ! 月瑠っ!」
「いやにゃ~」

 私に間の抜けた猫語でのんびりと返されて舌打ちするフェルディナンを横目にイリヤは荒れた。

「月瑠! あーもうっ! いったい何なんだよ! フェルディナン、月瑠はいったいどうしちゃったわけ? なんなのあの姿はっ!」
「ククル・リリーホワイトから獣酢じゅうすをもらったそうだ。元の世界にあった物と名前が似ていたせいか間違えたらしい。知らずに飲んだらああなったと月瑠が言っていた」
「……シャノンの奴、やっぱりろくなことにならなかったじゃないか。それも騒ぎに気付いてる癖に我関せずで出てこなかったしな……」
「今更言ってももう遅い。こちらとしてもククル・リリーホワイトを城内に招いた以上、ある程度は予測していたが流石さすがにこれは想定外だ」
「分かってるよ。まったく、面倒事増やしやがって」
「お前は最近どうも小言が多い気がするんだが……気のせいか?」
「誰のせいだと思ってるんだよ?」
 
 段々と話がずれ始めたところで、ずっとやり取りを見守っていたバートランドが口を挟んだ。

「あのーお二人共、姫様追わなくていいんですか?」
「「分かってる」」
「……そうですか」

 どうしてそういう返事するときだけは仲良いんですか? と、バートランドは心の中で思ったものの、けしてそれを口にはしなかった。

 そうしてフェルディナン達がちょっとした内輪もめをしていた頃、私はククルの部屋に到着していた。逃亡中の為、そのままの勢いで転がり込む様に室内に入って来た私をククルは相変わらずの間の抜けた声でお出迎えしてくれた。

「ククルにゃん! おねにゃい! もどるにゃんほうおしえにゃ!」
「えっとぉ~お姉さん? おはようございます。あの、その姿はやはり獣酢じゅうすを飲まれたんですよね?」
「にゃん」
「どうしたんですか? 獣人化したかったんじゃないんですか~?」
「ちにゃうにゃ~」

 またもシクシクと泣きながら猫語が入り交じった言葉で私は事の経緯をククルに説明した――



*******


 
 ククルは私の話を聞くと、最初はその背中に生えた緑の小さな翼を驚いたようにふわっと膨らませて、それから納得したように小刻みにパタパタと動かした。ククルは感情を顔で表現するよりもダイレクトに翼に出てしまうようだ。翼の動きで何を思っているのか何となく分かる。
 
「……そうだったんですね~。確かに昨日お姉さんとお話ししているとき変だなぁと思ってはいたんです。何がしたいのかなって思ってはいたんですけど、お姉さんすごく嬉しそうだったからそれ以上は聞かない方がいいかなと思って~」
「……そうにゃったのにゃ」
「それに大人の事情とかも中にはあるかなと思いまして~」
「…………」

 うん、出来る事ならもっと掘り下げて聞いてほしかった。そしてその大人の事情とやらの趣味趣向は私には一切ございません。そう言いたかったけれど猫語混じりのこの滅茶苦茶な話し方ではうまく伝えられない気がすると大人しく口をつぐむことにした。

「それで元に戻る方法なんですが、王様の言う方法の他にも一つありますよ?」
「ほんとにゃ~!?」
「はい、それはですね。マタタビという名前の植物なんですが」
「ま、マタタニャ……」

 それはあれですか? 猫がとっても好きなあの白いお花を咲かせる例のマタタビのことでしょうか?
 
「それを食べれば元の姿に戻れます。ですがこの植物は獣人の国にしか咲かないもので、それも国宝級の希少植物になります。ですからツェザーリ様にお願いしてもらうしか方法がないかと思われます」
「こ、こくほうにゃう……?」
 
 困った。マタタビとはそんな大層な代物しろものだったのか。と思っていたところで部屋のドアがバンッと開いた。もちろん入って来たのはフェルディナン達だ。

「――月瑠! 戻ってきなさい!」
「いやにゃ~っ!」

 咄嗟とっさにククルの部屋の窓からするりと飛び降りて私はまたもや華麗に逃げ出した。俊敏しゅんびんな動きで簡単に隙間を通って逃げ出してしまう猫そのものの動きに、私を捕らえようと伸ばされたフェルディナンの手が虚しく宙を掴んだ。

「こらっ月瑠!」 
「いやにゃ! ぜったいにつかまらにゃいんだから!」
「月瑠!」
「にゃ~」

 そうして城内で繰り広げられる追いかけっこ騒動に沢山の人達を巻き込んでいる事にも気付かずに私はククルの部屋を後にした。

「……チッ、まったくチョロチョロとすばしっこい。とんだねっかえりだな……」

 舌打ちして悪態をつくフェルディナンの苛立いらだちは相当なものだ。逃亡した時に使われた窓枠をバンッと叩いた衝撃にガラスが振動してそこに映し出される景色を歪ませる。歯をギリッときしませて怒りをあらわにしたフェルディナンに、バートランドはおそるおそるたずねた。

「あの、クロス将軍? 姫様はどちらに……?」
「向かった方角からすると……面倒なことになりそうだ」
「あちらには確かツェザーリ様がご宿泊されていらっしゃいましたよね?」

 ククルの部屋の前には城内での見回りや警護に務めている兵士達、使用人等々、騒ぎを聞きつけてやってきた人達がぞろぞろと集まって来ていた。王様自ら王妃様を捕獲しに動いているのだから目立つなという方が無理がある。

「あの~お姉さんはツェザーリ様にマタタビをもらいに行かれたんだと思いますよ?」
「……そのマタタビとやらはいったい何の話だ?」

 そうしてククルがフェルディナンに国宝級マタタビの説明をし終わる頃には、私はとっくにツェザーリの部屋の中にいて、マタタビがもらえないかと相談しているところだった。
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