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第三章~新妻扱編~
084 貴女を探して
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――それから古びた日記を持ってきてくれたライルと、私と一緒にお留守番(私の監視)で暇をもてあましていたイリヤは私達を気遣い早々に退室してしまった。
そして部屋の中にはフェルディナンとその腕に抱き上げられている私の二人だけが残されて。気まずい沈黙と重苦しい空気に包まれた室内で、私はそろそろと顔を上げフェルディナンの方を見た。
「あのぉ……何だかその、ごめんなさぃ……」
皆の気持ちを落ち込ませるようなことをしたくなかったのに。それでも私が落ち込んだ顔をしていると皆まで暗い気持ちにさせてしまう。そんなの嫌なのにどうしたらいいのか分からない。そうして泣きそうな心境でふにゃっとフェルディナンを見つめていたら、何を思ったのか。フェルディナンは無言で私を抱えたままベッドまで連れて行き。そっと下ろしてくれた。
「フェルディナン……?」
何で何にも答えてくれないんだろう……そう不安な目を向けると。フェルディナンは一緒にベッドの上に座って酷く優しい目をして私の頭を撫でてきた。
「無理はするな」
「えっ?」
「それに、急がなくてもいいと俺は言っただろう?」
「……うん、言ってたよね」
ベッドに座り込み。ギュッとシーツを掴みながら口元を強く結んで涙を耐える。そうして怒ってもないのにムウッと顔を顰めていたら突然、頭ごとふわっと抱き締められた。
「……っ!」
ほっぺたにおでこに鼻先に唇に沢山キスして優しく頬を擦り寄せられる。甘い綿菓子よりも甘くふんわりと身体中を優しさで包まれていると、先程まで沈痛な面持ちで泣きそうになっていたのが嘘みたいに解消されていく。
「どうしてなんにも聞かないの……?」
色々と知りたいことはあるはずだ。この古びた日記に何が書かれているのかとか。私の前にいた異邦人の卯佐美結良と関係があるのではないかとか。
この日記を読むことで得られる情報をフェルディナンも他の皆も知りたくないはずがなかった。それを何も聞かずにただただ私を慰めるだけに徹しているフェルディナンの包容力には毎度のことながら感心させられる。
だから私は調子に乗ってもっと夫に甘えたくなってしまうのに。それを諫めるどころか良しとしてもっと甘えさせようとしてくるのだから困ったものだ。
「ねえ、フェルディナンは知りたくないの? この日記の内容のこととか。それに……」
結良さんのこととか……
言葉に出せない部分まで汲み取って、フェルディナンはくすっと笑った。
「それを強行したところで君の負担になるだけだろう? だから今はいい。今はまだ知る必要のないことだ」
「……いいの? もしかしたら、その……読むのに時間掛かっちゃうかもしれないよ?」
怖くて読む気になれない自分がいる。だから日記から遠ざかることを選んでしまうかもしれない。私しか内容を解読出来る人はいないのにその役割を放棄してしまうかもしれない。そう言う事も含めて、それでもいいのかと尋ねてもフェルディナンはいいとしか言わなかった。
「……そんなの、いいわけないのに」
事が異邦人に関わるのならそれなりに大事になる可能性が高い。ある種の国家的な危機すら想定される問題を妻の負担になるからと平気で後回しにしてしまう。
本当に私の夫は困った王様だと半眼でジトッと非難の目を向けてもまるで効果がない。どうでもいいと適当に流されてしまう。どうでもいいわけがないのに。
「う~っ! もうっ!!」
「……どうして唸って怒るんだ?」
「だってフェルディナン甘いんだものっ!」
「夫が妻に甘いのは当然だ。……それに、いま君は子を宿している」
それなのに甘くして何が悪いんだ。と妻の身体を気遣うことに文句を言われてフェルディナンはちょっとだけ不服な顔をした。私をその強靱な腕の中に引き入れてキュッと後ろから抱きしめると、私の頭上に顎を乗っけてムッとした顔で悩むように何度も顎の位置を変え、角度を変えながらようやく居心地の良い顎の置き場所を見つけて落ち着いた。
そして、そのままの体勢で私を懐深くに抱え込んでピクリとも動かなくなる。お気に入りの玩具を絶対に取られまいとしている子供のようなことをされて何だか気持ちが少し和んでしまった。それにこうも我が物顔でひっつかれていると、大型犬に懐かれたうえ下敷きにされて身動きがとれなくなってしまった飼い主のような、ちょっと間抜けな気分にすらなってくる。
「でも、わたし大丈夫だよ? ほらっ今までも何だかんだでどうにかなってるし。強いのわたし!」
フェルディナンの腕をポンポン叩きながら、えへっと笑ってそう言ったら思いっきり嫌な顔をされた。
「君の大丈夫は信用していない」
「……それ、前にも同じこと言われた気がするんだけど」
「無理はして欲しくない。そう何度言っても君は一向に聞いてくれないからだ。それに君の場合、怒るかそれに似た気配を察知しただけで逃亡するのは知っている」
「はぅっ」
確かに怒られるかなぁと思った時はたいてい逃亡を考えるか。考える前に身体が動いて逃げ出している。それも何故かそういう時だけ行動がものすごく早いのをフェルディナンは勿論しっかり把握している。
「怒った分だけ遠くに逃げられるなんて冗談じゃない。君の場合は地の果てまでも逃げていきそうだからな」
捕獲する方の身にもなってくれ。そう言われている気がする。
「軽く準備運動程度に逃げられる分には楽しいが本気で逃げられるのは御免だ」
「……あのぉ準備運動って」
何のですか? とは聞かない。答えは決まっているからだ。
「でもね。本当にわたしもう平気だから、フェルディナンと話してたら元気出たし! あとはその……ちょっとだけ一人にさせてくれるとありがたいかなぁって。ほらっ頭の中を整理したいからっ、ね?」
「……そうやって一人になってどうする気だ?」
「えっ?」
「そうして何でも一人で解決しようと悩んで、結局最後は一人でどうにかする気か?」
「へ? あ、あのわたしそんなこといってないよ? それに、あのぉ~なんでフェルディナンは今そんなに不機嫌なのでしょうか……?」
思わず敬語で話掛けるとふんっと鼻で笑われた。
「君は今までもそして今も、肝心の部分では俺に頼ってくれないからだ」
「えっとぉ、それはですね……あの……」
「そう言えば前にも今と同じようなことが何度かあったな。確かあれは2年ほど前だったか? 勝手に神との取引に持ち込んで獣人達との諍いをおさめたのは」
皮肉交じりの非難を浴びて、私は凍り付いたように固まった。
今まで過ぎた事に関してはあまり口にせず。終わったことを後々責めるようなこともなく。淡々と大人な様子を見せてきたフェルディナンだけれど。実は心の奥深いところで相当思うところはあったようだ。言わなかっただけで。
「そっそれは不可抗力? かなぁ~とか思ったりして……ね?」
もうそんなに経つんだぁ~すご~ぃ。何てふざけて軽く誤魔化そうとしたらジトッとした目で睨まれた。
「ふきゅぁぁっ!?」
いきなりムギュッと身体を抱き締められてフェルディナンの胸の中で押し潰されてしまった。まさか潰されるとは思っていなかったから、手加減されているとはいえその分厚い筋肉に覆われた身体の圧迫感にびっくりして変な声が出た。そうして妻の口から潰された小動物のような声が出たというのに、フェルディナンは涼しい顔で何も聞こえていないようにサラッと流してしまう。
フェルディナンは今まで散々私の突拍子もない行動に振り回されて、嫌と言うほど経験を積み重ねてしてきたから、かなり私に対して耐性が出来ているようだ。今更この程度のことでは引かないらしい。
こちらの反応にもお構いなしに、フェルディナンは人の胸やら二の腕やら太股やらあちこちをむにむに触ったり引っ張ったり揉んだりし始めた。
「えっとぉ~フェルディナン? どうしたの? そんなに沢山わたしの身体触ったりして……?」
「……君の身体が何だか何時もより柔らかい気がする」
そう言いながら何だか少し嬉しそうな顔で人の身体をもみもみしている夫の”柔らかい”と言う言葉に私はピクッと反応した。
「えっ!? 柔らかいって……脂肪? 肥えた? 肥えたのわたしっ!?」
「月瑠?」
「もしかして……太った? わたし太ったのぉぉぉおっ!?」
確かに妊娠が発覚してから運動量が減った。それなのに食べる量は変わらずだから太るのも無理はない。
「フェルディナン! わたし丸い!? 丸いのわたしっ!? だ、ダイエット! ダイエットしないとぉ~っ!」
ふあぁぁぁぁあッ!!? と過剰に反応してフェルディナンの腕の中で暴れ始めた私をフェルディナンが慌てて掴んで止めに入った。
「ま、丸くない! 君はいつも通り可愛いし綺麗だ! だからそれは止めなさい!」
「ふぇっ……だっだってぇ~丸いのフェルディナン嫌でしょ? フォルムが丸いのわたしイヤ~」
シクシクと泣きそうな顔をしてフェルディナンにヒシッとしがみつく。
まさかここまで反応されるとは思っていなかったフェルディナンは、不味いことを言ったと後悔しているようだ。ふぅっと小さく息を吐いて改めて私を抱え直すと、私の長い黒髪にさわさわと触れながら耳元に口を寄せてくる。
「丸くない。君は丸くても可愛いとは思うが……とにかく、ダイエットは止めなさい」
「う~……どうして? どうして駄目なの?」
「君は腹に子がいることを忘れてないか?」
「あっ……」
「困った人だな」
「で、でもっ! 柔らかいってことは脂肪が付いたってことでしょ? 食べ過ぎならちょっとだけ量を減らした方が……」
「身体が柔らかくなったのは妊娠の影響だろう。それと君は丸くない。より綺麗に女性らしい雰囲気が強くなったような気はするが。……それに俺は君が丸くてなっても気にしないぞ? コロコロしているのも可愛らしくていいとおも……」
「――こ、コロコロ!?」
「月瑠……?」
ちょいおデブちゃんなワンちゃん猫ちゃんが丸くなって床にコロコロ転がっている分には可愛い。寧ろやってほしいし絶対に癒やされること受け合いなのだが。私がそれと同じように丸くなって床にコロコロしていたって絶対に可愛くない。
「わたし、そんなの、絶対に、イヤ――――ッ!」
そんな自分を想像して「やだっ」と首を横にフリフリしながら絶叫している私を尻目に、フェルディナンはいったいどうすればいいんだ? と額に手をやり顔を暗くした。そうして影を落とした顔で落ち込んでいたと思ったら。次の瞬間、私はフェルディナンに肩をガシッと掴まれていた。
「月瑠!」
「へ? はっ、はい!」
名前を強く呼ばれて思わず学校で出席簿を付けられている時のように反射的に返事を返してしまった。
そしてフェルディナンは改まった口調とぎこちない動作で私をベッドの上にゆっくりと押し倒した。酷く真面目な顔をしているらしくないフェルディナンの様子が不思議で、そちらに気を取られていたらちょっとだけ頭の中に冷静な部分が戻って来る。
「妊娠して情緒が不安定になっているのは分かる」
「……えと、そかな?」
コクリと頷いてフェルディナンはそれまでの度重なる失言で私の混乱を招いたことに危惧して、言葉選びを慎重に唇を開く。
「だから君が今回のように心を乱したら、今後は君の気持ちが落ち着くまで抱き締めて唇を塞いで……それから存分に甘やかすことにする」
「フェルディナンそれ、何をどう考えたらそういう結論になるの?」
「君を妻とし、存分に抱いた末の結論だが?」
「あ、甘やかすとわたしがそれに託つけて余計につけあがるかも知れないでしょ!? だから甘やかさなくていいのっ」
だからとにかく甘やかさないでくれと私の上に覆い被さっているフェルディナンの胸元に両手を当て押し返す。そうしてフェルディナンの身体の下から出ようと藻掻いていたら突然のしかかられた。
「きゃんっ!」
突然降ってきた重み。そして身体に重なった逞しい肉体の熱に驚いて見上げると唇を塞がれた。服の隙間から入り込んでくる武骨な手の大きさとその強さを感じた瞬間にも、鳥肌が立つくらい気持ちいいと感じてしまうのが何だかとっても悔しい。
そうして悔しさを滲ませ顔を顰めている私とは反対に、フェルディナンは私から唇を離した後も私の身体をあちこち触ってその感触を楽しんでいる。頗る機嫌がいい。
「フェルディナン何だか楽しそうだね……」
「……甘くされたり自らの意思に反して俺に触れられる時の君の反応は可愛いからな。顔を真っ赤にしてまるで処女のように初心な反応を返してくれるから見ていて飽きない。もっと愛したくなるし欲しくなる」
「……いまはエッチしちゃダメだからね?」
「なら何時ならいいんだ?」
私の黒髪を梳くって口づけながらフェルディナンはくすくすと笑った。完全に人を玩具にして遊んでいる。
「本当に……君の場合は怒るよりも、こうして甘くされて愛されていることを裏切った罪悪感と葛藤しながら、最終的に逃亡を断念してしおらしく凹んで俺の元に戻ってくるようにする方がよっぽど効果的だ。だから君にはこのくらい甘い方が丁度いい」
私のお腹に手をやって優しく撫でながらフェルディナンはとんでもないことを言った。
「それでも甘いと怒るのか?」
「……わたしの考えなんてお見通しってことなの?」
「ある程度はな」
フェルディナンはふぅっとため息を付いて身体を起こした。どうやら十分からかって満足したらしい。
「そろそろ寝るか? もう深夜を回りそうな時間帯だ」
そう言われてみれば気付かなかったけれど、もう外はすっかり夜のベールに包まれている。
「うんっ」
薄暗い外の景色から目を離して、ちょっとだけ元気に返事を返した私の身体をフェルディナンはふわりと抱き上げた。一緒に毛布の中に身体を滑り込ませる。そうして互いに抱き合う形で床に付いたらやっと少し色んな事が落ち着いたような気がした。
こんなにふわふわした気持ちで夫の腕の中にいることを許されていることに感謝しつつ。ようやく私は少しだけ決心が付いた。
「フェルディナン……あのね……」
「ん? どうしたんだ?」
「日記、とって欲しいの」
「…………」
フェルディナン側にあるベッド脇のサイドテーブルに無造作に置かれた書物を指さした私をジッと見つめながらフェルディナンは無言でそれを手渡してくれた。きっと何を言っても無駄だとフェルディナンが思っているのが手に取るように分かって思わずくすっと笑ってしまう。
「見るのは最初のページだけにする。だから大丈夫だよ?」
「……君の大丈夫は信じない」
「もうっ! またそんなこと言ってっ! ――って、あの、フェルディナン……?」
フェルディナンにしては珍しく少し不安そうな顔をしてこちらを見ているから。怒るのを止めてフェルディナンの頬にチュッと唇を押し当てた。それでもまだ暗い顔をしているからサラサラの金髪を撫でながら頬を寄せるとちょっとだけ渋い顔を緩めてくれたので、私はようやく手渡された日記の最初のページだけ開くことができた。
妊娠して情緒不安定な今の私に日記は悪影響を及ぼしかねないとフェルディナンは判断している。だから最初のページ以外も開こうとしたらきっとフェルディナンは許さない。心配のあまり下手したら日記を捨てられてしまうか。永久に目に触れない場所へ隠されてしまいそうだ。だから私はフェルディナンの不興を買わないよう慎重に日記を開いた。
手渡された日記の最初のページ。そこにはこう記されていた。
<――大切な妹へ。
あなたならきっと私を探してこの世界に来てしまうでしょう。だからこの日記を残します。>
「……おねぇ、ちゃん……」
やっとの思いで振り絞って出てきた声は、涙と共にこぼれ落ちて夜の暗闇に吸い込まれて消えた。
やっぱり彼女は貴女だったんですね。
そう、私はずっと探していた。突然失踪した姉のことを。
姉が趣味でつづっていた日記を頼りに探し続けて。そして最後に姉が何をしていたのかを知った。
だから姉と同じ年になったとき私はそれを再現してみようと思った。
姉が失踪した時と同じ16歳になるのを、姉と同じ年に追いつくのを私はずっと待っていた。
そして私はこの乙女ゲーム世界にたどり着いた。
これが私の本当の目的。
これが私の本当に知りたかったこと。
これが私の隠していたこと。
誰にも言えなかった真実。それは――
姉が生きていることを願って、
突然いなくなった貴女を探して見つけ出して、
そして一緒に元の世界に帰るために私はこの世界に来たんです。
そして部屋の中にはフェルディナンとその腕に抱き上げられている私の二人だけが残されて。気まずい沈黙と重苦しい空気に包まれた室内で、私はそろそろと顔を上げフェルディナンの方を見た。
「あのぉ……何だかその、ごめんなさぃ……」
皆の気持ちを落ち込ませるようなことをしたくなかったのに。それでも私が落ち込んだ顔をしていると皆まで暗い気持ちにさせてしまう。そんなの嫌なのにどうしたらいいのか分からない。そうして泣きそうな心境でふにゃっとフェルディナンを見つめていたら、何を思ったのか。フェルディナンは無言で私を抱えたままベッドまで連れて行き。そっと下ろしてくれた。
「フェルディナン……?」
何で何にも答えてくれないんだろう……そう不安な目を向けると。フェルディナンは一緒にベッドの上に座って酷く優しい目をして私の頭を撫でてきた。
「無理はするな」
「えっ?」
「それに、急がなくてもいいと俺は言っただろう?」
「……うん、言ってたよね」
ベッドに座り込み。ギュッとシーツを掴みながら口元を強く結んで涙を耐える。そうして怒ってもないのにムウッと顔を顰めていたら突然、頭ごとふわっと抱き締められた。
「……っ!」
ほっぺたにおでこに鼻先に唇に沢山キスして優しく頬を擦り寄せられる。甘い綿菓子よりも甘くふんわりと身体中を優しさで包まれていると、先程まで沈痛な面持ちで泣きそうになっていたのが嘘みたいに解消されていく。
「どうしてなんにも聞かないの……?」
色々と知りたいことはあるはずだ。この古びた日記に何が書かれているのかとか。私の前にいた異邦人の卯佐美結良と関係があるのではないかとか。
この日記を読むことで得られる情報をフェルディナンも他の皆も知りたくないはずがなかった。それを何も聞かずにただただ私を慰めるだけに徹しているフェルディナンの包容力には毎度のことながら感心させられる。
だから私は調子に乗ってもっと夫に甘えたくなってしまうのに。それを諫めるどころか良しとしてもっと甘えさせようとしてくるのだから困ったものだ。
「ねえ、フェルディナンは知りたくないの? この日記の内容のこととか。それに……」
結良さんのこととか……
言葉に出せない部分まで汲み取って、フェルディナンはくすっと笑った。
「それを強行したところで君の負担になるだけだろう? だから今はいい。今はまだ知る必要のないことだ」
「……いいの? もしかしたら、その……読むのに時間掛かっちゃうかもしれないよ?」
怖くて読む気になれない自分がいる。だから日記から遠ざかることを選んでしまうかもしれない。私しか内容を解読出来る人はいないのにその役割を放棄してしまうかもしれない。そう言う事も含めて、それでもいいのかと尋ねてもフェルディナンはいいとしか言わなかった。
「……そんなの、いいわけないのに」
事が異邦人に関わるのならそれなりに大事になる可能性が高い。ある種の国家的な危機すら想定される問題を妻の負担になるからと平気で後回しにしてしまう。
本当に私の夫は困った王様だと半眼でジトッと非難の目を向けてもまるで効果がない。どうでもいいと適当に流されてしまう。どうでもいいわけがないのに。
「う~っ! もうっ!!」
「……どうして唸って怒るんだ?」
「だってフェルディナン甘いんだものっ!」
「夫が妻に甘いのは当然だ。……それに、いま君は子を宿している」
それなのに甘くして何が悪いんだ。と妻の身体を気遣うことに文句を言われてフェルディナンはちょっとだけ不服な顔をした。私をその強靱な腕の中に引き入れてキュッと後ろから抱きしめると、私の頭上に顎を乗っけてムッとした顔で悩むように何度も顎の位置を変え、角度を変えながらようやく居心地の良い顎の置き場所を見つけて落ち着いた。
そして、そのままの体勢で私を懐深くに抱え込んでピクリとも動かなくなる。お気に入りの玩具を絶対に取られまいとしている子供のようなことをされて何だか気持ちが少し和んでしまった。それにこうも我が物顔でひっつかれていると、大型犬に懐かれたうえ下敷きにされて身動きがとれなくなってしまった飼い主のような、ちょっと間抜けな気分にすらなってくる。
「でも、わたし大丈夫だよ? ほらっ今までも何だかんだでどうにかなってるし。強いのわたし!」
フェルディナンの腕をポンポン叩きながら、えへっと笑ってそう言ったら思いっきり嫌な顔をされた。
「君の大丈夫は信用していない」
「……それ、前にも同じこと言われた気がするんだけど」
「無理はして欲しくない。そう何度言っても君は一向に聞いてくれないからだ。それに君の場合、怒るかそれに似た気配を察知しただけで逃亡するのは知っている」
「はぅっ」
確かに怒られるかなぁと思った時はたいてい逃亡を考えるか。考える前に身体が動いて逃げ出している。それも何故かそういう時だけ行動がものすごく早いのをフェルディナンは勿論しっかり把握している。
「怒った分だけ遠くに逃げられるなんて冗談じゃない。君の場合は地の果てまでも逃げていきそうだからな」
捕獲する方の身にもなってくれ。そう言われている気がする。
「軽く準備運動程度に逃げられる分には楽しいが本気で逃げられるのは御免だ」
「……あのぉ準備運動って」
何のですか? とは聞かない。答えは決まっているからだ。
「でもね。本当にわたしもう平気だから、フェルディナンと話してたら元気出たし! あとはその……ちょっとだけ一人にさせてくれるとありがたいかなぁって。ほらっ頭の中を整理したいからっ、ね?」
「……そうやって一人になってどうする気だ?」
「えっ?」
「そうして何でも一人で解決しようと悩んで、結局最後は一人でどうにかする気か?」
「へ? あ、あのわたしそんなこといってないよ? それに、あのぉ~なんでフェルディナンは今そんなに不機嫌なのでしょうか……?」
思わず敬語で話掛けるとふんっと鼻で笑われた。
「君は今までもそして今も、肝心の部分では俺に頼ってくれないからだ」
「えっとぉ、それはですね……あの……」
「そう言えば前にも今と同じようなことが何度かあったな。確かあれは2年ほど前だったか? 勝手に神との取引に持ち込んで獣人達との諍いをおさめたのは」
皮肉交じりの非難を浴びて、私は凍り付いたように固まった。
今まで過ぎた事に関してはあまり口にせず。終わったことを後々責めるようなこともなく。淡々と大人な様子を見せてきたフェルディナンだけれど。実は心の奥深いところで相当思うところはあったようだ。言わなかっただけで。
「そっそれは不可抗力? かなぁ~とか思ったりして……ね?」
もうそんなに経つんだぁ~すご~ぃ。何てふざけて軽く誤魔化そうとしたらジトッとした目で睨まれた。
「ふきゅぁぁっ!?」
いきなりムギュッと身体を抱き締められてフェルディナンの胸の中で押し潰されてしまった。まさか潰されるとは思っていなかったから、手加減されているとはいえその分厚い筋肉に覆われた身体の圧迫感にびっくりして変な声が出た。そうして妻の口から潰された小動物のような声が出たというのに、フェルディナンは涼しい顔で何も聞こえていないようにサラッと流してしまう。
フェルディナンは今まで散々私の突拍子もない行動に振り回されて、嫌と言うほど経験を積み重ねてしてきたから、かなり私に対して耐性が出来ているようだ。今更この程度のことでは引かないらしい。
こちらの反応にもお構いなしに、フェルディナンは人の胸やら二の腕やら太股やらあちこちをむにむに触ったり引っ張ったり揉んだりし始めた。
「えっとぉ~フェルディナン? どうしたの? そんなに沢山わたしの身体触ったりして……?」
「……君の身体が何だか何時もより柔らかい気がする」
そう言いながら何だか少し嬉しそうな顔で人の身体をもみもみしている夫の”柔らかい”と言う言葉に私はピクッと反応した。
「えっ!? 柔らかいって……脂肪? 肥えた? 肥えたのわたしっ!?」
「月瑠?」
「もしかして……太った? わたし太ったのぉぉぉおっ!?」
確かに妊娠が発覚してから運動量が減った。それなのに食べる量は変わらずだから太るのも無理はない。
「フェルディナン! わたし丸い!? 丸いのわたしっ!? だ、ダイエット! ダイエットしないとぉ~っ!」
ふあぁぁぁぁあッ!!? と過剰に反応してフェルディナンの腕の中で暴れ始めた私をフェルディナンが慌てて掴んで止めに入った。
「ま、丸くない! 君はいつも通り可愛いし綺麗だ! だからそれは止めなさい!」
「ふぇっ……だっだってぇ~丸いのフェルディナン嫌でしょ? フォルムが丸いのわたしイヤ~」
シクシクと泣きそうな顔をしてフェルディナンにヒシッとしがみつく。
まさかここまで反応されるとは思っていなかったフェルディナンは、不味いことを言ったと後悔しているようだ。ふぅっと小さく息を吐いて改めて私を抱え直すと、私の長い黒髪にさわさわと触れながら耳元に口を寄せてくる。
「丸くない。君は丸くても可愛いとは思うが……とにかく、ダイエットは止めなさい」
「う~……どうして? どうして駄目なの?」
「君は腹に子がいることを忘れてないか?」
「あっ……」
「困った人だな」
「で、でもっ! 柔らかいってことは脂肪が付いたってことでしょ? 食べ過ぎならちょっとだけ量を減らした方が……」
「身体が柔らかくなったのは妊娠の影響だろう。それと君は丸くない。より綺麗に女性らしい雰囲気が強くなったような気はするが。……それに俺は君が丸くてなっても気にしないぞ? コロコロしているのも可愛らしくていいとおも……」
「――こ、コロコロ!?」
「月瑠……?」
ちょいおデブちゃんなワンちゃん猫ちゃんが丸くなって床にコロコロ転がっている分には可愛い。寧ろやってほしいし絶対に癒やされること受け合いなのだが。私がそれと同じように丸くなって床にコロコロしていたって絶対に可愛くない。
「わたし、そんなの、絶対に、イヤ――――ッ!」
そんな自分を想像して「やだっ」と首を横にフリフリしながら絶叫している私を尻目に、フェルディナンはいったいどうすればいいんだ? と額に手をやり顔を暗くした。そうして影を落とした顔で落ち込んでいたと思ったら。次の瞬間、私はフェルディナンに肩をガシッと掴まれていた。
「月瑠!」
「へ? はっ、はい!」
名前を強く呼ばれて思わず学校で出席簿を付けられている時のように反射的に返事を返してしまった。
そしてフェルディナンは改まった口調とぎこちない動作で私をベッドの上にゆっくりと押し倒した。酷く真面目な顔をしているらしくないフェルディナンの様子が不思議で、そちらに気を取られていたらちょっとだけ頭の中に冷静な部分が戻って来る。
「妊娠して情緒が不安定になっているのは分かる」
「……えと、そかな?」
コクリと頷いてフェルディナンはそれまでの度重なる失言で私の混乱を招いたことに危惧して、言葉選びを慎重に唇を開く。
「だから君が今回のように心を乱したら、今後は君の気持ちが落ち着くまで抱き締めて唇を塞いで……それから存分に甘やかすことにする」
「フェルディナンそれ、何をどう考えたらそういう結論になるの?」
「君を妻とし、存分に抱いた末の結論だが?」
「あ、甘やかすとわたしがそれに託つけて余計につけあがるかも知れないでしょ!? だから甘やかさなくていいのっ」
だからとにかく甘やかさないでくれと私の上に覆い被さっているフェルディナンの胸元に両手を当て押し返す。そうしてフェルディナンの身体の下から出ようと藻掻いていたら突然のしかかられた。
「きゃんっ!」
突然降ってきた重み。そして身体に重なった逞しい肉体の熱に驚いて見上げると唇を塞がれた。服の隙間から入り込んでくる武骨な手の大きさとその強さを感じた瞬間にも、鳥肌が立つくらい気持ちいいと感じてしまうのが何だかとっても悔しい。
そうして悔しさを滲ませ顔を顰めている私とは反対に、フェルディナンは私から唇を離した後も私の身体をあちこち触ってその感触を楽しんでいる。頗る機嫌がいい。
「フェルディナン何だか楽しそうだね……」
「……甘くされたり自らの意思に反して俺に触れられる時の君の反応は可愛いからな。顔を真っ赤にしてまるで処女のように初心な反応を返してくれるから見ていて飽きない。もっと愛したくなるし欲しくなる」
「……いまはエッチしちゃダメだからね?」
「なら何時ならいいんだ?」
私の黒髪を梳くって口づけながらフェルディナンはくすくすと笑った。完全に人を玩具にして遊んでいる。
「本当に……君の場合は怒るよりも、こうして甘くされて愛されていることを裏切った罪悪感と葛藤しながら、最終的に逃亡を断念してしおらしく凹んで俺の元に戻ってくるようにする方がよっぽど効果的だ。だから君にはこのくらい甘い方が丁度いい」
私のお腹に手をやって優しく撫でながらフェルディナンはとんでもないことを言った。
「それでも甘いと怒るのか?」
「……わたしの考えなんてお見通しってことなの?」
「ある程度はな」
フェルディナンはふぅっとため息を付いて身体を起こした。どうやら十分からかって満足したらしい。
「そろそろ寝るか? もう深夜を回りそうな時間帯だ」
そう言われてみれば気付かなかったけれど、もう外はすっかり夜のベールに包まれている。
「うんっ」
薄暗い外の景色から目を離して、ちょっとだけ元気に返事を返した私の身体をフェルディナンはふわりと抱き上げた。一緒に毛布の中に身体を滑り込ませる。そうして互いに抱き合う形で床に付いたらやっと少し色んな事が落ち着いたような気がした。
こんなにふわふわした気持ちで夫の腕の中にいることを許されていることに感謝しつつ。ようやく私は少しだけ決心が付いた。
「フェルディナン……あのね……」
「ん? どうしたんだ?」
「日記、とって欲しいの」
「…………」
フェルディナン側にあるベッド脇のサイドテーブルに無造作に置かれた書物を指さした私をジッと見つめながらフェルディナンは無言でそれを手渡してくれた。きっと何を言っても無駄だとフェルディナンが思っているのが手に取るように分かって思わずくすっと笑ってしまう。
「見るのは最初のページだけにする。だから大丈夫だよ?」
「……君の大丈夫は信じない」
「もうっ! またそんなこと言ってっ! ――って、あの、フェルディナン……?」
フェルディナンにしては珍しく少し不安そうな顔をしてこちらを見ているから。怒るのを止めてフェルディナンの頬にチュッと唇を押し当てた。それでもまだ暗い顔をしているからサラサラの金髪を撫でながら頬を寄せるとちょっとだけ渋い顔を緩めてくれたので、私はようやく手渡された日記の最初のページだけ開くことができた。
妊娠して情緒不安定な今の私に日記は悪影響を及ぼしかねないとフェルディナンは判断している。だから最初のページ以外も開こうとしたらきっとフェルディナンは許さない。心配のあまり下手したら日記を捨てられてしまうか。永久に目に触れない場所へ隠されてしまいそうだ。だから私はフェルディナンの不興を買わないよう慎重に日記を開いた。
手渡された日記の最初のページ。そこにはこう記されていた。
<――大切な妹へ。
あなたならきっと私を探してこの世界に来てしまうでしょう。だからこの日記を残します。>
「……おねぇ、ちゃん……」
やっとの思いで振り絞って出てきた声は、涙と共にこぼれ落ちて夜の暗闇に吸い込まれて消えた。
やっぱり彼女は貴女だったんですね。
そう、私はずっと探していた。突然失踪した姉のことを。
姉が趣味でつづっていた日記を頼りに探し続けて。そして最後に姉が何をしていたのかを知った。
だから姉と同じ年になったとき私はそれを再現してみようと思った。
姉が失踪した時と同じ16歳になるのを、姉と同じ年に追いつくのを私はずっと待っていた。
そして私はこの乙女ゲーム世界にたどり着いた。
これが私の本当の目的。
これが私の本当に知りたかったこと。
これが私の隠していたこと。
誰にも言えなかった真実。それは――
姉が生きていることを願って、
突然いなくなった貴女を探して見つけ出して、
そして一緒に元の世界に帰るために私はこの世界に来たんです。
応援ありがとうございます!
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