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第三章 LOSE-LOSE

第三話 誰がために

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「大丈夫ですよ。お会いするとなれば、ちゃんと衣を改めますから」

 千尋は才谷の戸惑いを読んだように短く笑い、おどけるように袴や袖の ほこりをはたいた。


「二条様がまだ江戸にいらした頃に、非公式にですが、お目にかかったことがあります。二条様は、一人の人間が五ヶ国語を あやつるなんて信じがたい、この目で確かめたいと仰せになられて、お屋敷に呼んで下さったんです。慶喜公もご一緒でしたよ。あの方も珍しいものがお好きだから」
「慶喜公にも?」

「お二人を前に、 英仏蘭露えいふつらんろ、 支那人しなじんに囲まれて、延々しゃべらされました」
「大道芸だな」
「ええ。そうですよ」

「まっこと、芸は身を助くだなぁ……。おんしの場合は」
「ですから、二条様が覚えていて下さるといいのですが……」
「忘れるわけないやろうが。五ヶ国語言うたら、すぐ思い出されるに決まっちぅ」
 

 才谷は船宿の壁にもたれかかり、斜《はす》に構えて冷笑した。


 切れ者と名高い 一橋慶喜ひとつばしよしのぶが、ただ単に異国語を楽しんだだけではないだろう。

 各国の通詞として、大使館にも出入りがあった千尋から、何らかの情報を得ようとしていた。
 もしくは 間諜かんちょうとして使った可能性も、否めない。

 千尋なら、その辺りから公家の切り崩しをかける手もある。
 

「何にせよ、薩摩の手柄にさせてもらえるがやきあれば、願ってもない。京都守護職の会津と同盟を結んだとはいえ、これで幕府に恩売って、ちっくとでも薩摩の方が抜きん出られれば、それに越したことはない」
「何卒よろしく頼みます」
 

 八つの時の鐘が鳴り渡ると、千尋は肩を波打たせた。
 
「すみません。急ぎますので私はこれで」
 
  草鞋わらじの紐を締め直す千尋を才谷が覗き込む。

「ところで、なんで今更、朝廷の調整になんぞ駆けまわっちゅうだ? おんしは薩摩に恩を売れば、それで万事済んだ話じゃったはずだ」
「さあ。なぜでしょうねぇ」
 

 千尋は顔をあらぬ方へと背けて嘆く。

「どうして私が幕府のために、頭下げて回っているのか。誰かに説明してもらいたいぐらいですよ」
「なんちゃあ、おんしがほがな顔をする時は、久藤様がらみに決まっちゅう」
 

 早口になった千尋の背後で、才谷はあっけらかんと千尋の『弱み』を笑い飛ばした。
 
「あなた方のためですよ! 薩摩だって朝廷の勅旨が得られなければ、長州を討つことも出来ずに困るんでしょう?」
 
 千尋は憤然として振り返り、才谷のためだと強調した。

 あからさまに眉をひそめ、肩をそびやかせてはいるものの、可憐に耳まで染めた顔が、どんな指摘よりも雄弁に『佑輔のため』だと語っていた。

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