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第九章 私はやめない
第三話 終わったこと
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その日は麻子は、ほとんど定時で帰宅した。
畑中ですら事務室の自分のデスクにいたせいか、三谷に「具合でも悪いんですか?」と、気遣われた。
「いえ、今日は友達と会う予定があって」
早々にデスクの上の片づけを済ませ、コートも着終えた麻子は薄く微笑んだ。
朝イチの面談は羽藤だと、身構えた。
けれども来たのは叔母の若木。家庭内での羽藤の課題を知ることが出来たのは良かったが、昨夜の羽藤は「明日、また来る」と、言ったのだ。
肩透かしをくらったせいか、緊張の糸がぷつりと切れた。
さらに南野のカウンセリングで、追い打ちをかけられた。
昨日の初出勤で突きつけられた圭吾の裏切り。
南野は不倫男の裏切り自体に過度な反応を示さずに、次の男を切望していた。
既婚女性に乗り換えた元カレと、よりを戻すことまで視野に入れている。
次ではなくて、後戻り。
ごく限られた人間関係の中でしか、動かない。
そこは安全圏だと錯覚している。
「お疲れ様でした」
麻子は事務室に残るスタッフに挨拶した。すると三谷と畑中の返事が同時に帰ってきた。
「お疲れ様でした」
畑中には、鼻にかかった甘い声音で労われ、疲労感が倍増した。
まったく悪びれる素振りがないのだ。
だって彼が私の方がいいって言ってるんだもん。
圭吾の腕に腕を絡ませ、麻子の脳裏で畑中が言う。
AとBを比較してBの方が良いな、などと考えた、幼稚な男。
結婚相手を、オモチャか何かを買う時と同様のプロセスで選んでいる。そんな男と十何年もの歳月を、過ごしてしまった憤り。
今更どんなにこき下ろしても、最後に胸に残るのは、そんな男と見破れなかった情けなさ。
「お疲れさまでした」
麻子は誰に言うとでもなく答えると、関係者専用ドアからビルの共同廊下に出たあとは、四階から一階まで階段で下りる。
今朝も階段で上ったが、帰りも下りたくなっている。
もしまた昨夜のように、不審者と鉢合わせたりした時は、エレベーターのケージの中は個室と一緒だ。逃げ場がない。
ビルを出て地下鉄に向かい、降下する。
時間が早い分だけ混み合った地下鉄に、しばらく揺られて、最寄りの駅に到着する。
ホームに降りる。
改札を抜け、階段で地上まで出る。
国道に沿った歩道を歩き、少し坂を上った所にあるのが自宅のマンションだ。
大学進学と同時に、山口県の下関から上京した頃、東京の人は何て早足なんだろうと、びっくりした。
数か月もすれば、その人波から外れて端を歩くことなく、波の一部になっていた。
歩道を逸れた坂の下には交番がある。
今夜も蛍光灯で照らされた室内に、警官が二人いる。
あの中に、震えながら飛び込んだのは、去年のいつ頃だっただろう。
あの時は、平日の真夜中だろうと圭吾を呼び出すことへの躊躇もなかった。遠慮もなかった。
だから彼女に乗り換えたのだと言われても、反論できない言い分だ。
引っ越そうかな。
麻子は街灯で照らされた坂を上り、考える。
いらない物は置いていく。いらないものは捨てていく。
乾いた鋭い寒風を正面から受け、右目を眇める。
畑中ですら事務室の自分のデスクにいたせいか、三谷に「具合でも悪いんですか?」と、気遣われた。
「いえ、今日は友達と会う予定があって」
早々にデスクの上の片づけを済ませ、コートも着終えた麻子は薄く微笑んだ。
朝イチの面談は羽藤だと、身構えた。
けれども来たのは叔母の若木。家庭内での羽藤の課題を知ることが出来たのは良かったが、昨夜の羽藤は「明日、また来る」と、言ったのだ。
肩透かしをくらったせいか、緊張の糸がぷつりと切れた。
さらに南野のカウンセリングで、追い打ちをかけられた。
昨日の初出勤で突きつけられた圭吾の裏切り。
南野は不倫男の裏切り自体に過度な反応を示さずに、次の男を切望していた。
既婚女性に乗り換えた元カレと、よりを戻すことまで視野に入れている。
次ではなくて、後戻り。
ごく限られた人間関係の中でしか、動かない。
そこは安全圏だと錯覚している。
「お疲れ様でした」
麻子は事務室に残るスタッフに挨拶した。すると三谷と畑中の返事が同時に帰ってきた。
「お疲れ様でした」
畑中には、鼻にかかった甘い声音で労われ、疲労感が倍増した。
まったく悪びれる素振りがないのだ。
だって彼が私の方がいいって言ってるんだもん。
圭吾の腕に腕を絡ませ、麻子の脳裏で畑中が言う。
AとBを比較してBの方が良いな、などと考えた、幼稚な男。
結婚相手を、オモチャか何かを買う時と同様のプロセスで選んでいる。そんな男と十何年もの歳月を、過ごしてしまった憤り。
今更どんなにこき下ろしても、最後に胸に残るのは、そんな男と見破れなかった情けなさ。
「お疲れさまでした」
麻子は誰に言うとでもなく答えると、関係者専用ドアからビルの共同廊下に出たあとは、四階から一階まで階段で下りる。
今朝も階段で上ったが、帰りも下りたくなっている。
もしまた昨夜のように、不審者と鉢合わせたりした時は、エレベーターのケージの中は個室と一緒だ。逃げ場がない。
ビルを出て地下鉄に向かい、降下する。
時間が早い分だけ混み合った地下鉄に、しばらく揺られて、最寄りの駅に到着する。
ホームに降りる。
改札を抜け、階段で地上まで出る。
国道に沿った歩道を歩き、少し坂を上った所にあるのが自宅のマンションだ。
大学進学と同時に、山口県の下関から上京した頃、東京の人は何て早足なんだろうと、びっくりした。
数か月もすれば、その人波から外れて端を歩くことなく、波の一部になっていた。
歩道を逸れた坂の下には交番がある。
今夜も蛍光灯で照らされた室内に、警官が二人いる。
あの中に、震えながら飛び込んだのは、去年のいつ頃だっただろう。
あの時は、平日の真夜中だろうと圭吾を呼び出すことへの躊躇もなかった。遠慮もなかった。
だから彼女に乗り換えたのだと言われても、反論できない言い分だ。
引っ越そうかな。
麻子は街灯で照らされた坂を上り、考える。
いらない物は置いていく。いらないものは捨てていく。
乾いた鋭い寒風を正面から受け、右目を眇める。
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