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第九話
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奄美屋では、おかみのお菊が茫然と座り込んでいた。
店は暖簾を降ろしている。客への対応など出来る心境ではなく、今日は店を開ける気にはなれなかった。
清二が店を辞めると言い出して、それが避けられないことと分かったうえでも、どこか、清二に頼り切っている自分の気持ちを切り替えられずにいた。
何とか店に留まってくれるのでは、という淡い期待もあった。
それ故に、こうして実際に清二が出て行った今、その現実を受け入れることは難しかった。まさか本当に、というのが正直な気持ちだった。
そして、清二を番頭としてだけでなく、男としても感じていたことを強く意識せざるを得なかった。この喪失感は、男を失った痛みでもあった。
お菊は深川の生まれである。
大工の父が体を壊し家計が苦しくなると、長女であるお菊は一家を支えるために浅草のお茶問屋に奉公に出る。
端正な容姿に柔らかな物腰が、店の男たちの注目を集めるのに時間はかからなかった。それは、商売で店に出入りする男たちも同じだった。
やがて、取引先のお茶屋の若旦那に見初められる。
かなり大きな店で、玉の輿と思われたが、厳しい姑とそりが合わず一年も経たずに離縁されてしまう。
失意のまましばらく実家で過ごしていたものの、又、元のお茶問屋で働き出した。
店に戻ったお菊を見て、それならば、と思う者は多かった。
言い寄る男たちの中で、かつて同じ奉公人だった政吉という男がお菊の心を捉えた。真面目な商売人で、志もあり、この時、自分の店を持つためにお茶問屋を辞めていた。
二人は、神田は神保町の空き店舗を借りて、小間物屋を始める。
政吉の頑張りもあり、商売は徐々に軌道に乗る。
だが、昼夜を分かたず働き、商売のことしか頭にないように、口を開けば、品物が、金が、商売がという言葉がまずは出てくる政吉に、お菊は満たされない思いを感じるようになって行った。
これでは、まるで店の奉公人の延長ではないか、と感じることさえあり、夫に支え家を守りながら子を育てるという、思い描いていた女の幸せには程遠い寂しさを覚える日々であった。
それでも、何不自由ない生活をさせてもらっている故に、贅沢は言えなかった。
ある日、政吉は上方から珍しい品々を仕入れることを思い立ち旅に出る。
商人ではないお菊一人では、店を切り盛りするのは難しかった。次第に資金繰りに困り、金貸しから何度も金を借りるようになった。
やがて毎日のように取り立て屋が来た。店の前で大騒ぎをされると、客足も遠のき、益々、金の工面が困難になって行った。お菊は追い詰められる。
そこに、突然現れたのが清二だった。
強引に雇ってくれと言われた時には困惑したが、大きな店で働いていたと聞き、何かにすがり付きたい衝動で雇うことを決めた。
自身を売り込んだ言葉通り、清二は直ぐに結果を出す。店は徐々に売り上げを伸ばして、客足も伸び、取り立て屋の姿も見ることがなくなった。
その商売の救世主は、男としてもお菊の心に入り込んできた。
決して自分を表に出さない謙虚さや、相手を気遣う態度と言葉遣いは、何処か陰を含んだ容姿と相まって男の色気を放っていた。
政吉を心配する気持ちは強かったが、清二の存在がそれを払拭するまでに大きくなって行った。
そのような気持ちを強くした時の、突然の別れの宣言だった。
そして、その男が去って行った。
同じ頃、奉行所の詮議の間である。
「なるほど、小田原では追い剥ぎみたいな事をやっていたのか」
「そこで、奄美屋の主人も襲った訳だ」
「いえ、それが、襲う前に死んでしまったという事です。何人かに聞きましたが、皆が死んだ主人の金品を取ったと言っていました」
前日に戻った神宮が、小田原で調べた事柄を報告している。
「襲う前に、偶然、都合よく死んでくれたという事か」
「役人は偶然を信じてはいけない、とは言われるが」
「連中は、悪いとはいえ、殺しまでするような覚悟のない小悪党ばかりでした」
「うむ。だが、市蔵を殺した番頭、清二か、そいつも、大人しい虫も殺さぬような奴という話だよな、成瀬さん」
頼方が頷きながら成瀬を見た。
「ええ、越後屋の主人は、まさか殺しなど、と言っていましたからね。ただ、窮鼠猫を嚙むではありませんが、追い詰められれば別でしょう」
成瀬が越後屋で聞いて来た話も頼方には上がっている。
頼方が煙草盆に手を伸ばした。
「市蔵のような奴に理不尽な金の要求をされて、しつこく付き纏われたならば、誰でもそうなるだろうなぁ、分かる」
成瀬が腕を組んで頼方の方を向いた。
「しかし、奉行、清二が脅されていた理由が、小田原での行いだとすれば、それは身から出たさび、あまり、同情の余地はありませんぞ」
頼方が煙管に煙草を詰めながら険しい表情をした。
「理屈ではそうなるな」
神宮が口を挟む。
「ただ、おかみさんの手前、そこは、なかなか言い出せない事でしょう」
成瀬が頷いた。
「うむ、そうなれば、当然ながら店には居られないな。ただ辞めれば済む、ということでもなかったのだろうが」
「はい。窮地の店を救うために勤め出し、金策までしたのも、罪滅ぼしのためとも考えられます。誰に聞いても、番頭を悪く言う人はいませんでした」
頼方が煙草に火を付けた。その香りが部屋に広がった。
「この二人は男と女でもある。おかみと番頭の関係だけでは割り切れない事があるのだろう」
「人の心は複雑な上に繊細です。理屈では測れないものでしょう」
「確かにそうだな」
成瀬が頼方を見た。
「しょっ引きますか」
頼方が口から煙を吐き出しながら大きく頷いた。
その時、ドタドタと廊下を急ぎ足で近づいてくる足音がした。
一同が身構えると、ザッと襖が開いて若手の役人が顔を出した。
「奄美屋の番頭が出頭して来ました」
成瀬が立ち上がる。
「何だと」
「市蔵を殺したと申し出ています」
神宮も立ち上がって、頼方を見た。
「早速牢屋に入れて、取調べます」
「あチチ、熱い・・」
頼方がモゾモゾしながら背中を揺すっている。
「煙草の火が飛んで背中に入った、あチチ・・」
成瀬と神宮が慌てて頼方の上着を脱がせ、バタバタと背中を叩きながら火消に追われ、若手の役人もそれに加わる。
何処かで猫が鳴いている。
店は暖簾を降ろしている。客への対応など出来る心境ではなく、今日は店を開ける気にはなれなかった。
清二が店を辞めると言い出して、それが避けられないことと分かったうえでも、どこか、清二に頼り切っている自分の気持ちを切り替えられずにいた。
何とか店に留まってくれるのでは、という淡い期待もあった。
それ故に、こうして実際に清二が出て行った今、その現実を受け入れることは難しかった。まさか本当に、というのが正直な気持ちだった。
そして、清二を番頭としてだけでなく、男としても感じていたことを強く意識せざるを得なかった。この喪失感は、男を失った痛みでもあった。
お菊は深川の生まれである。
大工の父が体を壊し家計が苦しくなると、長女であるお菊は一家を支えるために浅草のお茶問屋に奉公に出る。
端正な容姿に柔らかな物腰が、店の男たちの注目を集めるのに時間はかからなかった。それは、商売で店に出入りする男たちも同じだった。
やがて、取引先のお茶屋の若旦那に見初められる。
かなり大きな店で、玉の輿と思われたが、厳しい姑とそりが合わず一年も経たずに離縁されてしまう。
失意のまましばらく実家で過ごしていたものの、又、元のお茶問屋で働き出した。
店に戻ったお菊を見て、それならば、と思う者は多かった。
言い寄る男たちの中で、かつて同じ奉公人だった政吉という男がお菊の心を捉えた。真面目な商売人で、志もあり、この時、自分の店を持つためにお茶問屋を辞めていた。
二人は、神田は神保町の空き店舗を借りて、小間物屋を始める。
政吉の頑張りもあり、商売は徐々に軌道に乗る。
だが、昼夜を分かたず働き、商売のことしか頭にないように、口を開けば、品物が、金が、商売がという言葉がまずは出てくる政吉に、お菊は満たされない思いを感じるようになって行った。
これでは、まるで店の奉公人の延長ではないか、と感じることさえあり、夫に支え家を守りながら子を育てるという、思い描いていた女の幸せには程遠い寂しさを覚える日々であった。
それでも、何不自由ない生活をさせてもらっている故に、贅沢は言えなかった。
ある日、政吉は上方から珍しい品々を仕入れることを思い立ち旅に出る。
商人ではないお菊一人では、店を切り盛りするのは難しかった。次第に資金繰りに困り、金貸しから何度も金を借りるようになった。
やがて毎日のように取り立て屋が来た。店の前で大騒ぎをされると、客足も遠のき、益々、金の工面が困難になって行った。お菊は追い詰められる。
そこに、突然現れたのが清二だった。
強引に雇ってくれと言われた時には困惑したが、大きな店で働いていたと聞き、何かにすがり付きたい衝動で雇うことを決めた。
自身を売り込んだ言葉通り、清二は直ぐに結果を出す。店は徐々に売り上げを伸ばして、客足も伸び、取り立て屋の姿も見ることがなくなった。
その商売の救世主は、男としてもお菊の心に入り込んできた。
決して自分を表に出さない謙虚さや、相手を気遣う態度と言葉遣いは、何処か陰を含んだ容姿と相まって男の色気を放っていた。
政吉を心配する気持ちは強かったが、清二の存在がそれを払拭するまでに大きくなって行った。
そのような気持ちを強くした時の、突然の別れの宣言だった。
そして、その男が去って行った。
同じ頃、奉行所の詮議の間である。
「なるほど、小田原では追い剥ぎみたいな事をやっていたのか」
「そこで、奄美屋の主人も襲った訳だ」
「いえ、それが、襲う前に死んでしまったという事です。何人かに聞きましたが、皆が死んだ主人の金品を取ったと言っていました」
前日に戻った神宮が、小田原で調べた事柄を報告している。
「襲う前に、偶然、都合よく死んでくれたという事か」
「役人は偶然を信じてはいけない、とは言われるが」
「連中は、悪いとはいえ、殺しまでするような覚悟のない小悪党ばかりでした」
「うむ。だが、市蔵を殺した番頭、清二か、そいつも、大人しい虫も殺さぬような奴という話だよな、成瀬さん」
頼方が頷きながら成瀬を見た。
「ええ、越後屋の主人は、まさか殺しなど、と言っていましたからね。ただ、窮鼠猫を嚙むではありませんが、追い詰められれば別でしょう」
成瀬が越後屋で聞いて来た話も頼方には上がっている。
頼方が煙草盆に手を伸ばした。
「市蔵のような奴に理不尽な金の要求をされて、しつこく付き纏われたならば、誰でもそうなるだろうなぁ、分かる」
成瀬が腕を組んで頼方の方を向いた。
「しかし、奉行、清二が脅されていた理由が、小田原での行いだとすれば、それは身から出たさび、あまり、同情の余地はありませんぞ」
頼方が煙管に煙草を詰めながら険しい表情をした。
「理屈ではそうなるな」
神宮が口を挟む。
「ただ、おかみさんの手前、そこは、なかなか言い出せない事でしょう」
成瀬が頷いた。
「うむ、そうなれば、当然ながら店には居られないな。ただ辞めれば済む、ということでもなかったのだろうが」
「はい。窮地の店を救うために勤め出し、金策までしたのも、罪滅ぼしのためとも考えられます。誰に聞いても、番頭を悪く言う人はいませんでした」
頼方が煙草に火を付けた。その香りが部屋に広がった。
「この二人は男と女でもある。おかみと番頭の関係だけでは割り切れない事があるのだろう」
「人の心は複雑な上に繊細です。理屈では測れないものでしょう」
「確かにそうだな」
成瀬が頼方を見た。
「しょっ引きますか」
頼方が口から煙を吐き出しながら大きく頷いた。
その時、ドタドタと廊下を急ぎ足で近づいてくる足音がした。
一同が身構えると、ザッと襖が開いて若手の役人が顔を出した。
「奄美屋の番頭が出頭して来ました」
成瀬が立ち上がる。
「何だと」
「市蔵を殺したと申し出ています」
神宮も立ち上がって、頼方を見た。
「早速牢屋に入れて、取調べます」
「あチチ、熱い・・」
頼方がモゾモゾしながら背中を揺すっている。
「煙草の火が飛んで背中に入った、あチチ・・」
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