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10話「がんばりすぎた日」
しおりを挟むその日は朝から体が軽かった。
(……きのう、たくさん、あるいた)
脚は少しだるいけれど、
動けないほどじゃない。
それどころか、
胸の奥に小さなやる気が残っていた。
(……もっと)
もっと、ちゃんと動けたら。
もっと、早く歩けたら。
昨日、井戸のそばで見たあの子みたいに。
(……つよく)
強くなりたい。
それは前みたいな焦りじゃない。
できない自分を責める気持ちでもない。
ただ、
“できることを増やしたい”
それだけだった。
***
私は部屋の隅に行って、
ごろん、と仰向けに寝転がった。
(……これ)
前世の記憶が、ぼんやり浮かぶ。
床に寝て、
お腹に力を入れて、
起き上がるやつ。
(……ふっきん)
腹筋。
名前は思い出せた。
やり方は、
ちょっと、あやふや。
でも、とりあえず
私はお腹に力を入れた。
(……っ)
何も、起きない。
頭を上げようとして、
首だけ、きゅっと縮む。
足は、なぜかばたばた動く。
(……ちがう)
もう一回。
今度は、両手を胸の上に置いて。
(……ふん)
顔が赤くなる。
でも、視界は天井のまま。
お腹は、
ぷにっと、動いただけ。
(……できない)
一回もできない。
私はそのまましばらく天井を見つめた。
(……おなか)
今更だけど、お腹やわらかい。
力を入れても支えてくれない。
(……ぷに)
ぷにぷにボディ。
ちょっと、憎い。
***
次は立ってみた。
片足を上げる。
(……いち、に)
ぐら。
慌てて腕を広げる。
ぐらぐら。
(……あ)
壁に、ごつん。
「……っ」
声が漏れる。
痛い、というより、
びっくり。
私は壁に手をついたまま、
もう一度片足を上げた。
(……ゆっくり)
さっきより、
ちょっとだけ、慎重。
でも。
足が自分の体重を支えきれなくて、
すぐ下りる。
(……むり)
片足立ちもできない。
***
その時。
前世の、
もっと曖昧な記憶が、
ふわっと、浮かんだ。
(……たいそう)
音楽。
腕を伸ばす。
体を曲げる。
(……らじお)
ラジオ体操。
私は両手を上に上げてみた。
(……のび)
背伸びみたいになる。
それから横に倒そうとして、
(……あれ)
どっちからだっけ。
考えている間に、
体がふらつく。
足が、
もつれる。
「……っ」
今度は、ちゃんと転んだ。
どすん。
痛くはない。
でも、
(……つかれた)
息がはぁはぁする。
胸がどきどきしている。
顔が熱い。
***
私はそのまま座り込んで
しばらく動かなかった。
(……がんばりすぎた?)
分からない。
でも、体がいつもと違う。
頭が少しぼーっとする。
「りぃ?」
お母さんの声。
振り向くと、
台所の方から、
心配そうな顔が見えた。
「どうしたの?」
私は言葉を探した。
できなかったこと。
悔しかったこと。
強くなりたかったこと。
全部、うまく言えない。
「……つよく、なりたかった」
それだけ言った。
お母さんは、一瞬驚いた顔をして、
それからゆっくり近づいてきた。
「そう」
否定しない。
ただ、私の額に手を当てる。
「……あら」
声が少し変わった。
「ちょっと、熱いわね」
(……ねつ)
自分でも分かる。
体が内側からぽーっとしている。
***
布団に寝かされると、
急に世界が遠くなった。
天井がゆらゆらする。
「今日は、がんばりすぎたのね」
お母さんが、
布で額を冷やしてくれる。
「でもね」
その声はとてもやわらかい。
「強くなりたいって思うのは、いいことよ」
(……いい)
「でも、りぃの身体はまだ育ってる途中」
(うん)
「休むのも、大事な仕事なの」
(……しごと)
休むのも、仕事。
その言葉が胸にすとんと落ちた。
***
少しして、お父さんもやってきた。
「無理したか」
責める声じゃない。
ただ、状況を確認する声。
私は小さく頷いた。
お父さんは私の頭をぽん、と撫でる。
「強くなるのは、逃げないってことじゃない」
(……にげる)
「ちゃんと休めるってことだ」
意味は、全部分からない。
でも。
撫でる手が、とてもあったかかった。
***
熱は夜まで少し続いた。
体はだるくて……
でも、心は変じゃなかった。
(……がんばった)
腹筋は一回もできなかった。
片足立ちもできなかった。
体操もよく分からなかった。
でも、やろうとした。
それは確かだった。
布団の中で、私はぷにぷにのお腹に、
そっと手を置く。
(……いつか)
いつか、これがちゃんと支えてくれる日が来る。
その日まで。
今日は休む。
それも大事なこと。
そう思いながら、
私は静かに眠りに落ちた。
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