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1巻
1-2
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「甘いだろ」
「あま……い?」
仕上げに入れた砂糖の甘さは、子どもが喜ぶこと間違いなしだ。
葛湯は凍えた身体を温められるし、砂糖をたくさん入れれば子どもが好きそうな甘い飲みものに早変わりする。剣はこの状況にぴったりの選択だと思った。
だが、目の前の子どもは、不思議そうな顔で湯呑の中をじっと見つめている。
「どうした? 甘いのは嫌いか?」
剣がそう尋ねるも、まだ子どもは首を傾げている。
(味がわからなかったのだろうか? それにしては、さっきは美味しそうに口に含んでいた。ではいったい、どうしたのだろう)
剣が考えていると、子どもはおずおずと言葉を口にした。
「これ……『あまい』?」
味をなんと表現するかわからなかったのか、と剣は合点がいく。
「そうだ……ほら、饅頭なんかと同じ感じがしないか? ケーキのほうがわかるか?」
「ケー……キ?」
子どもの様子に剣は唖然とした。
(この子は自分の足で歩いてここまで来た。言葉もわかるようだし、詳しい年齢はわからないが、おそらく四歳か五歳くらいだろう。それなのに、甘いものの一つも食べたことがないとは……)
剣はそんな風に考えながらも、このみすぼらしい出で立ちを思えば、頷けることかもしれないと思った。
どうしてこんなに痩せっぽちなのか、どうして甘いものも知らないのか。疑問はたくさんあるが、ひとまず今はそれらは脇に退けておこう。剣はそう思い、驚いた表情を引っ込める。
「そっちの葛湯には、俺のよりずっとたくさんの砂糖を入れたからとても甘いはずだ。その味が、『甘い』だ」
「『あまい』……さとう?」
「そう、砂糖。どんなものも甘くしてしまう魔法の調味料だ」
「まほう⁉ ……ちょうみ……⁉」
「あ、いや、すまん。一度には無理だな。この最後に入れた白い粒々が砂糖だ。舐めてみな」
剣は砂糖壺を引き寄せて一つまみ取り出し、子どもの手にのせてやる。
子どもはそれをじっと見つめて、ぺろっと口に入れた。
「!」
「な? こいつと同じで、『甘い』だろう?」
剣がそう言うと、子どもはびっくりするほどの勢いで首をぶんぶん縦に振る。
「あまい……あまい!」
「そうか。『甘い』は好きか?」
「『すき』?」
子どもは、またしても首を傾げてしまった。
「あ~つまり……もっと飲むか?」
「!」
子どもは目をキラキラ輝かせて、湯呑の中身を一気に飲み干して、空の湯呑を剣によこす。
「わかったわかった。じゃあそれを飲んでる間に、今度は何か食べるものを作ろうな」
剣はもう一度同じ手順で葛湯を作ってやりながら、あれこれ思案していた。
甘くて、胃に優しくて、食べやすい、見た目も食欲をそそるもの……
子どもが顔を綻ばせて葛湯を飲む姿を横目に、剣は冷蔵庫の中身と今日の献立を相談し始めるのだった。
❖
剣は視線を感じていた。自分の手元を穴が開くほど見つめる小さな目が二つ。
さっきまで音を立てて葛湯を必死に飲んでいたが、もう飲み干したらしい。
剣は少し困ってしまう。葛湯は熱々だったから飲み干すまでもう少し時間が稼げると思っていたのだ。土鍋に米を少し入れ、たっぷりの水と昆布を入れて火にかける。
煮立つまでの間に、ニンジンとネギを刻んでいると、子どもの視線を感じるようになった。まな板がトントンと鳴る音が気になったらしい。
「……見るか?」
「!」
剣がちょいちょいと手招きして呼ぶと、子どもは調理台の近くまでおずおずと寄ってくる。少し背伸びをして、かろうじて目が調理台より上にくるくらいだ。調理台に置いた手にほっぺたがちょこんとのっている様に、剣は少し笑いそうになりながらも、包丁を動かし続ける。
ニンジンを短冊切りからさらに細かく刻み、まな板の端に寄せていく。橙色の山がどんどん大きくなる様子を、子どもは目を見開いて見ていた。土鍋の隣で火にかけていたもう一つの鍋に、醤油やみりん、砂糖を入れると、子どもは何かに気付いたようだった。
「さとう?」
「そう、砂糖だ」
「あまい?」
「甘いと思うぞ」
その言葉を聞くと同時に、子どもの頬が少し赤くなる。喜んでいるようだ。剣は内心で『よしよし』と思いながら、砂糖に続いてさっき切った野菜を入れる。
「ここからちょっと待つ」
剣がそう言うと、子どもは小さく頷いた。
さっきからやけに従順だ。おそらく、葛湯の時点で大分と心を……いや胃袋を掴んでしまったらしい。剣にしてみれば、葛湯だけで掴んでしまったというのは少し張り合いがない。本当に胃袋を掴むのは、この料理を食べてもらってからだ。そう思っていた。
鍋が両方ともぐつぐつ音を立てると、子どもは目をぱちくりさせて、覗き込もうとする。
剣は作っておいた白い液体を鍋に注ぎ入れた。
「それ……」
子どもは先ほどの葛湯に使った葛粉をちらっと見る。
「これはちょっと違う。水溶き片栗粉だ」
「……?」
「まぁ見てな」
流し込んだ水溶き片栗粉を軽く混ぜ合わせ、そこに今度は溶き卵を流し込む。すると、黄色い卵がふわっと鍋の中に広がり、先に煮ていたネギやニンジンを優しく包み込んでいった。
そして、折よく土鍋のほうもいい具合に仕上がったようだ。
「できたぞ。そっちに座りな」
子どもが先ほど座っていた場所にきちんと座るのを見届けて、剣は土鍋をテーブルまで運ぶ。
そして、わくわくしているような、緊張しているような面持ちの子どもの目の前で、蓋を取る。中から現れたのは、とろっと煮立てた真っ白な白粥だった。
雪原のような米から、吹雪のような湯気が勢いよく飛び出して、子どもの鼻先をかすめて消える。しかし、この真っ白な湯気は吹雪とは違い、とても温かい。湯気が落ち着くと、剣は深皿に白粥を掬い取る。
作ったのは八分粥。口に含めば、たちまち呑み込めてしまうほど柔らかく仕上がっている。
そして、その上に流しかけるのは、小さく刻んだ野菜が入ったとろとろの餡だ。緑、黄色、赤……鮮やかな野菜と卵が絡み合った餡は、まるで草木や花を閉じ込めた琥珀のようだ。
「さあできた。卵と野菜の餡かけ粥だ」
剣がそう言うと、子どもは目玉が落っこちてしまうのではないかと心配になるぐらい、料理を一心に見つめている。口もあんぐり開けている。
柔らかい白粥に、醤油とみりんと砂糖で甘く味付けした餡。その優しい香りは、子どもの鼻孔を刺激してやまないようだった。見た目も美しく、単なる白粥よりは食欲をそそるだろう。そう考えていた剣を、子どもはキラキラ光る瞳で見つめて、言う。
「これ……たからばこ?」
「さ、さぁ……そこまでは、どうかな?」
剣は言葉を濁したが、子どもはそうに違いないという目で皿を見つめる。
そして剣が目の前にれんげを置くと、子どもは待ちきれないというように白粥を頬張った。
「‼」
子どもはさっき初めて葛湯を飲んだときと同じ反応をする。熱かったのだ……
はふはふっと、口の中に冷気を取り込もうと必死になりながらも、口の中のものを決して出そうとはしない。
「熱いだろ。ふーふーってしながら食べるんだよ」
子どもの口の中を案じつつ、剣は安堵していた。
(よかった、また一つ、役目を果たせた)
剣は包丁の付喪神。数々の料理人の技術と知識、そして魂が顕現した存在である。
そんな剣にできることは、料理を作ること。ただそれだけなのだ。
「ご飯粒、ついてる。逃げないから、落ち着いてゆっくり食べな」
小さな頬をそっと拭いながら、剣はそんなことを思うのだった。
第二章 まっしろうどん
もくもくのぼるけむり……じゃなくて『ゆげ』のむこうは、同じくらいまっしろだった。
まっしろな中にときどき黄色と緑、そしてまたしろい……タコみたいなものがふんわり浮かんでる。まるでどこまでもどこまでも続く雪の野原みたい。
だけど雪とはちょっとちがう。
これは、ちょっぴりあまい匂いがする。
それに、どこを食べてもあったかくて、ぽかぽかするんだ。
❖
「よしちびっ子、風呂に入るぞ」
「ふろ?」
お粥を食べて少し血色が戻った子どもを、今度は洗ってやらねば。剣はそう思い、食後に一息ついている間に湯を溜めておいたのだ。風呂という単語にピンときていない子どもを引きつれ、剣は風呂場へ向かう。だが剣はこのとき、重大なことを見落としていた。
手早く自分の準備を済ませ、子どもの準備を手伝う。改めて見ても、驚くほど小さく細い。見た目では幼稚園児ぐらいに見えるが、実際はもう少し年齢は上かもしれない。
この子どもは思いのほか受け答えがしっかりしているので、尋ねれば自分についてもう少し話してくれるかもしれない。それには裸の付き合いがもってこい――そんな風に思って、剣は大胆に子どもの服を取っ払ったのだが……
「‼」
「?」
固まる剣を、子どもは瞬きしながら見つめる。
「……おまえ……女の子、か……?」
「……?」
子どもは、まだきょとんとしていた。かたや剣は、頭の中を整理する。てっきり男の子かと思っていたが、現実を目の当たりにしてしまっては気にしないわけにはいかない。
(風呂に入れるのは俺でいいのか? 洗ってやってもいいのか? いや違う。それ以前に、連れて帰ってきてよかったのか?)
「……っくしゅん!」
剣が脳内で様々なことを巡らせていると、くしゃみの声がそれらを打ち消した。子どもも自分も裸のままだ。ここにいたら風邪を引いてしまう。
(――ええい、ままよ!)
剣は子どものためと自分に言い聞かせて、子ども――改め少女を風呂場へと促す。
洗い場でお湯をかけてやり、もう掻かなくても済むように、まず体を洗ってやることにした。だが少女の背中にはりついた垢はなかなか落ちない。
途中で一度湯船につからせると、湯は驚くべき色に変色した。剣は丹念に、ゆっくり背中と頭をごしごし洗う。その間少女は、嫌がる素振りを一つも見せずに、むしろ心地よさそうにしていた。
「なあ、おまえ……名前は?」
「……なま、え?」
「ああ、名前だ」
尋ねる剣を、少女は不思議そうな目で見上げる。どうもこの問いに対する答えを持っていないらしい。
「名前……わからない、のか? お父さんやお母さんからなんて呼ばれてる?」
「……? 『はい』?」
「え……」
「『ほら』?」
「……なんだ、そりゃ……」
剣は驚きのあまり手を止める。しかし少女はどうして剣が驚くのかわからず、戸惑っているようだった。
「じ、じゃあ……お父さんとお母さんは? 一緒にいたのか?」
「……おとう、さん……?」
「お父さんは……いないのか? じゃあお母さんは?」
「おかあさん……ない」
少女は、『お母さん』という言葉に反応し、大きく首を横に振った。
「どういう……ことだ……?」
疑問は解消するどころか深まるばかりだ。だが今は、とにかく子どもを洗うことに全力を注ぐことにする。
風呂から上がると、少女は剣が用意した大きすぎる服にくるまれて、あっという間に眠りについてしまった。きっと疲れたのだろう。静かな寝息を立てる姿を見届けて、剣はスマートフォンを手にする。このままではいけない。まだ小さいから両親の居場所や元いた場所がわからないのかもしれない。きちんと大人が探し出さなければ。
そう思い、剣はとある番号に電話をかけた。
『もしもし――』
短い呼び出し音のあと、声が聞こえる。
「もしもし、ちょっと頼みたいことがあるんだが――」
剣は電話口の人物に、そう切り出すのだった。
❖
翌日。日が高く昇っても、少女はまだ眠っていた。
剣はそのまま寝かせてやることにした。無理に起こしても自分には何もできない。
痩せこけた頬は痛ましいが、それは食べれば治っていくはずだ。
しかしこれから先、この少女にそれができるのだろうかと剣は密かに案じていた。
(親元に帰ることで不自由なく食べられるようになるのか。いやそもそも、親元に帰してやれるのか――)
すると、剣の不安を払拭するように、能天気な声が玄関から聞こえてきた。
「ちはーっす。剣、来たぞー」
剣は少女を置いて、玄関へ向かう。
そこに立っていたのは、片手にスーパーの大袋を抱えた、剣と同年代の長身の男だ。ジーンズとダウンジャケットを身につけ、髪はセミロングまで伸びているが清潔感がある。彼こそ、剣が昨晩連絡を取った相手だ。
「すまんな、突然」
「ちょうど前の依頼も終わったところだ。代金はその自慢の腕による手料理ってことにしといてやる。あ、それと頼まれてた諸々も買ってきてやったぞ」
「やっぱり、飯が目当てか。あと、買い出しありがとな。まあ、上がってくれ」
剣は男の持つ袋を受け取ると、そのまま居間に通す。客間に案内するほど畏まった間柄ではない。彼は居間につくなり、こたつに遠慮なく足と手を突っ込み、冷えた末端を回復させていた。
「で……伊三次、どうだった? 何かわかったか?」
「わかるわけないだろうが、なんの情報もないってのに」
この男の名は伊三次。普段は『菅原伊三次』と名乗っている私立探偵だ。剣とは浅からぬ縁があり、困ったことがあると料理を代金代わりに、色々と手助けしてもらっている。
「ただまぁ、この近辺を探ったところ、子どもが行方不明になっている家庭はなかったな」
「そうか……じゃあご近所ではないんだな」
剣はまだ安堵していないものの、少しだけ不安が消えた。近所にあんな不憫な子がいて、それを見逃していたとは思いたくない。
「!」
ふと、居間の襖付近で、誰かが息を呑む気配がする。あの少女だ。
「ああ、起きたのか」
「へえ、この子が?」
剣が少女に声をかけると、伊三次が視線を向ける。
汚れは落ちたものの、男物のシャツを着ているちぐはぐな出で立ちを、伊三次は興味深そうに見つめる。少女は、伊三次の視線に身を硬くしたが、伊三次は構わずじろじろと全身を見回していた。一応、これは探偵という職業上の癖であって、決してやましい性癖があるわけではない。少女が怯えているのを見かねて、剣が間に割って入る。
「はいはい、そこまでだ。知らない人間から見たら、おまえすごく怪しいぞ」
「なんだと? 現状で言えばおまえのほうが『変質者』だぞ。こんな小さい女の子を警察にも届けないで勝手に家に連れ込んで……」
伊三次にそう言われ、剣は顔をしかめる。
確かにそのとおりだ。そして、それこそが、剣が伊三次を呼んだ最大の理由だった。
昨今、近所づきあいが希薄化し、児童誘拐などの事件も少なくはない。迷子を見かけたら警察に届け出て、子どもを引き渡すのが普通だ。未成年者を、警察や保護者の許可なく、届け出もせず、家に連れ帰るなど言語道断なのだ。相手は小さな女の子で、剣は大柄な成人の男の姿をしている。どこからどう見ても罪に問われてしまうだろう。
しかし、そうは言っても剣は付喪神である。身元を証明できるものなど持っていない。こういうときに警察になんて話をしたらよいものか。
「で、俺に両親を捜させて親元に帰し、何事もなかったことにしたいわけだ」
「ところどころ言い方に棘があるが……まぁそうだ」
「しかしなぁ……」
伊三次がちらりと少女に視線を向ける。
「……なんだ?」
「いや、なんでもない」
そう言うと、伊三次は口をつぐむ。剣はそれ以上問おうとはしなかった。
一方、少女は剣と伊三次を見比べている。話している様子を見て、どうも怖い人間じゃないと察してきたようだ。
「こっち来な。寒いだろう」
剣は自分の横に少女を呼び寄せ、こたつに入るよう勧める。促されるままこたつに足を入れると、少女はまたしても驚いていた。
「あったかいだろ」
「『あったかい』……?」
「あ~……ぽかぽかするか?」
「『ぽかぽか』?」
どの言葉もピンと来てはいないようだが、少女はとにかく温かいその空間が気に入ったようだった。
「よしよし。じゃああったかいものを飲まないとな。ちょうど、そのおじさんがいいもの買ってきてくれたところだ」
「おい、『おにいさん』だろ」
「……おまえ、いくつだ?」
「……」
剣が問うと、伊三次はむすっとして黙り込む。
先ほど『変質者』呼ばわりされたことへの、ささやかな仕返しは成功したようだ。
「あま……い?」
仕上げに入れた砂糖の甘さは、子どもが喜ぶこと間違いなしだ。
葛湯は凍えた身体を温められるし、砂糖をたくさん入れれば子どもが好きそうな甘い飲みものに早変わりする。剣はこの状況にぴったりの選択だと思った。
だが、目の前の子どもは、不思議そうな顔で湯呑の中をじっと見つめている。
「どうした? 甘いのは嫌いか?」
剣がそう尋ねるも、まだ子どもは首を傾げている。
(味がわからなかったのだろうか? それにしては、さっきは美味しそうに口に含んでいた。ではいったい、どうしたのだろう)
剣が考えていると、子どもはおずおずと言葉を口にした。
「これ……『あまい』?」
味をなんと表現するかわからなかったのか、と剣は合点がいく。
「そうだ……ほら、饅頭なんかと同じ感じがしないか? ケーキのほうがわかるか?」
「ケー……キ?」
子どもの様子に剣は唖然とした。
(この子は自分の足で歩いてここまで来た。言葉もわかるようだし、詳しい年齢はわからないが、おそらく四歳か五歳くらいだろう。それなのに、甘いものの一つも食べたことがないとは……)
剣はそんな風に考えながらも、このみすぼらしい出で立ちを思えば、頷けることかもしれないと思った。
どうしてこんなに痩せっぽちなのか、どうして甘いものも知らないのか。疑問はたくさんあるが、ひとまず今はそれらは脇に退けておこう。剣はそう思い、驚いた表情を引っ込める。
「そっちの葛湯には、俺のよりずっとたくさんの砂糖を入れたからとても甘いはずだ。その味が、『甘い』だ」
「『あまい』……さとう?」
「そう、砂糖。どんなものも甘くしてしまう魔法の調味料だ」
「まほう⁉ ……ちょうみ……⁉」
「あ、いや、すまん。一度には無理だな。この最後に入れた白い粒々が砂糖だ。舐めてみな」
剣は砂糖壺を引き寄せて一つまみ取り出し、子どもの手にのせてやる。
子どもはそれをじっと見つめて、ぺろっと口に入れた。
「!」
「な? こいつと同じで、『甘い』だろう?」
剣がそう言うと、子どもはびっくりするほどの勢いで首をぶんぶん縦に振る。
「あまい……あまい!」
「そうか。『甘い』は好きか?」
「『すき』?」
子どもは、またしても首を傾げてしまった。
「あ~つまり……もっと飲むか?」
「!」
子どもは目をキラキラ輝かせて、湯呑の中身を一気に飲み干して、空の湯呑を剣によこす。
「わかったわかった。じゃあそれを飲んでる間に、今度は何か食べるものを作ろうな」
剣はもう一度同じ手順で葛湯を作ってやりながら、あれこれ思案していた。
甘くて、胃に優しくて、食べやすい、見た目も食欲をそそるもの……
子どもが顔を綻ばせて葛湯を飲む姿を横目に、剣は冷蔵庫の中身と今日の献立を相談し始めるのだった。
❖
剣は視線を感じていた。自分の手元を穴が開くほど見つめる小さな目が二つ。
さっきまで音を立てて葛湯を必死に飲んでいたが、もう飲み干したらしい。
剣は少し困ってしまう。葛湯は熱々だったから飲み干すまでもう少し時間が稼げると思っていたのだ。土鍋に米を少し入れ、たっぷりの水と昆布を入れて火にかける。
煮立つまでの間に、ニンジンとネギを刻んでいると、子どもの視線を感じるようになった。まな板がトントンと鳴る音が気になったらしい。
「……見るか?」
「!」
剣がちょいちょいと手招きして呼ぶと、子どもは調理台の近くまでおずおずと寄ってくる。少し背伸びをして、かろうじて目が調理台より上にくるくらいだ。調理台に置いた手にほっぺたがちょこんとのっている様に、剣は少し笑いそうになりながらも、包丁を動かし続ける。
ニンジンを短冊切りからさらに細かく刻み、まな板の端に寄せていく。橙色の山がどんどん大きくなる様子を、子どもは目を見開いて見ていた。土鍋の隣で火にかけていたもう一つの鍋に、醤油やみりん、砂糖を入れると、子どもは何かに気付いたようだった。
「さとう?」
「そう、砂糖だ」
「あまい?」
「甘いと思うぞ」
その言葉を聞くと同時に、子どもの頬が少し赤くなる。喜んでいるようだ。剣は内心で『よしよし』と思いながら、砂糖に続いてさっき切った野菜を入れる。
「ここからちょっと待つ」
剣がそう言うと、子どもは小さく頷いた。
さっきからやけに従順だ。おそらく、葛湯の時点で大分と心を……いや胃袋を掴んでしまったらしい。剣にしてみれば、葛湯だけで掴んでしまったというのは少し張り合いがない。本当に胃袋を掴むのは、この料理を食べてもらってからだ。そう思っていた。
鍋が両方ともぐつぐつ音を立てると、子どもは目をぱちくりさせて、覗き込もうとする。
剣は作っておいた白い液体を鍋に注ぎ入れた。
「それ……」
子どもは先ほどの葛湯に使った葛粉をちらっと見る。
「これはちょっと違う。水溶き片栗粉だ」
「……?」
「まぁ見てな」
流し込んだ水溶き片栗粉を軽く混ぜ合わせ、そこに今度は溶き卵を流し込む。すると、黄色い卵がふわっと鍋の中に広がり、先に煮ていたネギやニンジンを優しく包み込んでいった。
そして、折よく土鍋のほうもいい具合に仕上がったようだ。
「できたぞ。そっちに座りな」
子どもが先ほど座っていた場所にきちんと座るのを見届けて、剣は土鍋をテーブルまで運ぶ。
そして、わくわくしているような、緊張しているような面持ちの子どもの目の前で、蓋を取る。中から現れたのは、とろっと煮立てた真っ白な白粥だった。
雪原のような米から、吹雪のような湯気が勢いよく飛び出して、子どもの鼻先をかすめて消える。しかし、この真っ白な湯気は吹雪とは違い、とても温かい。湯気が落ち着くと、剣は深皿に白粥を掬い取る。
作ったのは八分粥。口に含めば、たちまち呑み込めてしまうほど柔らかく仕上がっている。
そして、その上に流しかけるのは、小さく刻んだ野菜が入ったとろとろの餡だ。緑、黄色、赤……鮮やかな野菜と卵が絡み合った餡は、まるで草木や花を閉じ込めた琥珀のようだ。
「さあできた。卵と野菜の餡かけ粥だ」
剣がそう言うと、子どもは目玉が落っこちてしまうのではないかと心配になるぐらい、料理を一心に見つめている。口もあんぐり開けている。
柔らかい白粥に、醤油とみりんと砂糖で甘く味付けした餡。その優しい香りは、子どもの鼻孔を刺激してやまないようだった。見た目も美しく、単なる白粥よりは食欲をそそるだろう。そう考えていた剣を、子どもはキラキラ光る瞳で見つめて、言う。
「これ……たからばこ?」
「さ、さぁ……そこまでは、どうかな?」
剣は言葉を濁したが、子どもはそうに違いないという目で皿を見つめる。
そして剣が目の前にれんげを置くと、子どもは待ちきれないというように白粥を頬張った。
「‼」
子どもはさっき初めて葛湯を飲んだときと同じ反応をする。熱かったのだ……
はふはふっと、口の中に冷気を取り込もうと必死になりながらも、口の中のものを決して出そうとはしない。
「熱いだろ。ふーふーってしながら食べるんだよ」
子どもの口の中を案じつつ、剣は安堵していた。
(よかった、また一つ、役目を果たせた)
剣は包丁の付喪神。数々の料理人の技術と知識、そして魂が顕現した存在である。
そんな剣にできることは、料理を作ること。ただそれだけなのだ。
「ご飯粒、ついてる。逃げないから、落ち着いてゆっくり食べな」
小さな頬をそっと拭いながら、剣はそんなことを思うのだった。
第二章 まっしろうどん
もくもくのぼるけむり……じゃなくて『ゆげ』のむこうは、同じくらいまっしろだった。
まっしろな中にときどき黄色と緑、そしてまたしろい……タコみたいなものがふんわり浮かんでる。まるでどこまでもどこまでも続く雪の野原みたい。
だけど雪とはちょっとちがう。
これは、ちょっぴりあまい匂いがする。
それに、どこを食べてもあったかくて、ぽかぽかするんだ。
❖
「よしちびっ子、風呂に入るぞ」
「ふろ?」
お粥を食べて少し血色が戻った子どもを、今度は洗ってやらねば。剣はそう思い、食後に一息ついている間に湯を溜めておいたのだ。風呂という単語にピンときていない子どもを引きつれ、剣は風呂場へ向かう。だが剣はこのとき、重大なことを見落としていた。
手早く自分の準備を済ませ、子どもの準備を手伝う。改めて見ても、驚くほど小さく細い。見た目では幼稚園児ぐらいに見えるが、実際はもう少し年齢は上かもしれない。
この子どもは思いのほか受け答えがしっかりしているので、尋ねれば自分についてもう少し話してくれるかもしれない。それには裸の付き合いがもってこい――そんな風に思って、剣は大胆に子どもの服を取っ払ったのだが……
「‼」
「?」
固まる剣を、子どもは瞬きしながら見つめる。
「……おまえ……女の子、か……?」
「……?」
子どもは、まだきょとんとしていた。かたや剣は、頭の中を整理する。てっきり男の子かと思っていたが、現実を目の当たりにしてしまっては気にしないわけにはいかない。
(風呂に入れるのは俺でいいのか? 洗ってやってもいいのか? いや違う。それ以前に、連れて帰ってきてよかったのか?)
「……っくしゅん!」
剣が脳内で様々なことを巡らせていると、くしゃみの声がそれらを打ち消した。子どもも自分も裸のままだ。ここにいたら風邪を引いてしまう。
(――ええい、ままよ!)
剣は子どものためと自分に言い聞かせて、子ども――改め少女を風呂場へと促す。
洗い場でお湯をかけてやり、もう掻かなくても済むように、まず体を洗ってやることにした。だが少女の背中にはりついた垢はなかなか落ちない。
途中で一度湯船につからせると、湯は驚くべき色に変色した。剣は丹念に、ゆっくり背中と頭をごしごし洗う。その間少女は、嫌がる素振りを一つも見せずに、むしろ心地よさそうにしていた。
「なあ、おまえ……名前は?」
「……なま、え?」
「ああ、名前だ」
尋ねる剣を、少女は不思議そうな目で見上げる。どうもこの問いに対する答えを持っていないらしい。
「名前……わからない、のか? お父さんやお母さんからなんて呼ばれてる?」
「……? 『はい』?」
「え……」
「『ほら』?」
「……なんだ、そりゃ……」
剣は驚きのあまり手を止める。しかし少女はどうして剣が驚くのかわからず、戸惑っているようだった。
「じ、じゃあ……お父さんとお母さんは? 一緒にいたのか?」
「……おとう、さん……?」
「お父さんは……いないのか? じゃあお母さんは?」
「おかあさん……ない」
少女は、『お母さん』という言葉に反応し、大きく首を横に振った。
「どういう……ことだ……?」
疑問は解消するどころか深まるばかりだ。だが今は、とにかく子どもを洗うことに全力を注ぐことにする。
風呂から上がると、少女は剣が用意した大きすぎる服にくるまれて、あっという間に眠りについてしまった。きっと疲れたのだろう。静かな寝息を立てる姿を見届けて、剣はスマートフォンを手にする。このままではいけない。まだ小さいから両親の居場所や元いた場所がわからないのかもしれない。きちんと大人が探し出さなければ。
そう思い、剣はとある番号に電話をかけた。
『もしもし――』
短い呼び出し音のあと、声が聞こえる。
「もしもし、ちょっと頼みたいことがあるんだが――」
剣は電話口の人物に、そう切り出すのだった。
❖
翌日。日が高く昇っても、少女はまだ眠っていた。
剣はそのまま寝かせてやることにした。無理に起こしても自分には何もできない。
痩せこけた頬は痛ましいが、それは食べれば治っていくはずだ。
しかしこれから先、この少女にそれができるのだろうかと剣は密かに案じていた。
(親元に帰ることで不自由なく食べられるようになるのか。いやそもそも、親元に帰してやれるのか――)
すると、剣の不安を払拭するように、能天気な声が玄関から聞こえてきた。
「ちはーっす。剣、来たぞー」
剣は少女を置いて、玄関へ向かう。
そこに立っていたのは、片手にスーパーの大袋を抱えた、剣と同年代の長身の男だ。ジーンズとダウンジャケットを身につけ、髪はセミロングまで伸びているが清潔感がある。彼こそ、剣が昨晩連絡を取った相手だ。
「すまんな、突然」
「ちょうど前の依頼も終わったところだ。代金はその自慢の腕による手料理ってことにしといてやる。あ、それと頼まれてた諸々も買ってきてやったぞ」
「やっぱり、飯が目当てか。あと、買い出しありがとな。まあ、上がってくれ」
剣は男の持つ袋を受け取ると、そのまま居間に通す。客間に案内するほど畏まった間柄ではない。彼は居間につくなり、こたつに遠慮なく足と手を突っ込み、冷えた末端を回復させていた。
「で……伊三次、どうだった? 何かわかったか?」
「わかるわけないだろうが、なんの情報もないってのに」
この男の名は伊三次。普段は『菅原伊三次』と名乗っている私立探偵だ。剣とは浅からぬ縁があり、困ったことがあると料理を代金代わりに、色々と手助けしてもらっている。
「ただまぁ、この近辺を探ったところ、子どもが行方不明になっている家庭はなかったな」
「そうか……じゃあご近所ではないんだな」
剣はまだ安堵していないものの、少しだけ不安が消えた。近所にあんな不憫な子がいて、それを見逃していたとは思いたくない。
「!」
ふと、居間の襖付近で、誰かが息を呑む気配がする。あの少女だ。
「ああ、起きたのか」
「へえ、この子が?」
剣が少女に声をかけると、伊三次が視線を向ける。
汚れは落ちたものの、男物のシャツを着ているちぐはぐな出で立ちを、伊三次は興味深そうに見つめる。少女は、伊三次の視線に身を硬くしたが、伊三次は構わずじろじろと全身を見回していた。一応、これは探偵という職業上の癖であって、決してやましい性癖があるわけではない。少女が怯えているのを見かねて、剣が間に割って入る。
「はいはい、そこまでだ。知らない人間から見たら、おまえすごく怪しいぞ」
「なんだと? 現状で言えばおまえのほうが『変質者』だぞ。こんな小さい女の子を警察にも届けないで勝手に家に連れ込んで……」
伊三次にそう言われ、剣は顔をしかめる。
確かにそのとおりだ。そして、それこそが、剣が伊三次を呼んだ最大の理由だった。
昨今、近所づきあいが希薄化し、児童誘拐などの事件も少なくはない。迷子を見かけたら警察に届け出て、子どもを引き渡すのが普通だ。未成年者を、警察や保護者の許可なく、届け出もせず、家に連れ帰るなど言語道断なのだ。相手は小さな女の子で、剣は大柄な成人の男の姿をしている。どこからどう見ても罪に問われてしまうだろう。
しかし、そうは言っても剣は付喪神である。身元を証明できるものなど持っていない。こういうときに警察になんて話をしたらよいものか。
「で、俺に両親を捜させて親元に帰し、何事もなかったことにしたいわけだ」
「ところどころ言い方に棘があるが……まぁそうだ」
「しかしなぁ……」
伊三次がちらりと少女に視線を向ける。
「……なんだ?」
「いや、なんでもない」
そう言うと、伊三次は口をつぐむ。剣はそれ以上問おうとはしなかった。
一方、少女は剣と伊三次を見比べている。話している様子を見て、どうも怖い人間じゃないと察してきたようだ。
「こっち来な。寒いだろう」
剣は自分の横に少女を呼び寄せ、こたつに入るよう勧める。促されるままこたつに足を入れると、少女はまたしても驚いていた。
「あったかいだろ」
「『あったかい』……?」
「あ~……ぽかぽかするか?」
「『ぽかぽか』?」
どの言葉もピンと来てはいないようだが、少女はとにかく温かいその空間が気に入ったようだった。
「よしよし。じゃああったかいものを飲まないとな。ちょうど、そのおじさんがいいもの買ってきてくれたところだ」
「おい、『おにいさん』だろ」
「……おまえ、いくつだ?」
「……」
剣が問うと、伊三次はむすっとして黙り込む。
先ほど『変質者』呼ばわりされたことへの、ささやかな仕返しは成功したようだ。
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