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2巻
2-2
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❖
悠が少し歩いてみると、桜の花びらはそこかしこに落ちていた。
それまで枝に咲いているものと、舞っている花びらしか見ていなかったが、足元にも桜の絨毯が敷いてあるようだ。
「すごい……!」
悠はそう言いながら、視線を上に向ける。
料理をして食べるなら、やはり地面に落ちているものはよくないのではないかと考えたのだ。しかし、どうしても踏まずには歩けない。
踏まれてしまった花びらは、食べるのには向いていないだろう。
「ごめんね」
足元の花びらたちにそう言って、悠は落ちてくる花びらに手を伸ばした。
伸ばした手の先に、ひらりと軽やかに舞う花びらがある。悠はそれを掴もうとした。
しかし、ふわりと悠の手から逃れてしまう。
「あれ?」
掴めたと思ったのに、悠の掌は空っぽだった。
もう一度、落ちてくる花びらをじっと見つめる。狙いを定めて、今度はゆっくり近付いていく。両手でそっと包み込むようにして、ぎゅっと掴む。だが、手を開くとやはり掌は空っぽ。悠のことをからかうように、花びらはどこかへ行ってしまうのだった。
「……なんで?」
「掴もうとしちゃ、ダメだ」
悠の問いに答える声が、聞こえた。それは悠のまったく知らない声だった。
振り向くと、声の主が立っていた。悠よりも背の高い、真っ白なシャツに、真っ黒の半ズボンを履いた男の子だった。
驚いて瞬きばかり繰り返す悠に向けて、男の子はそっと手を差し伸べた。
その手は悠の手を掴むのではなく、悠の頭の上に伸びていった。そして、悠の髪の毛についていた、ひとひらの花びらを摘まんだ。
「ほら。欲張ると手に入らないけど、ジッとしてたら、こんなに簡単に降ってくるんだよ」
男の子は悠の掌にそっと花びらを載せた。
泥もついておらず、うっすら透けて見えるほど薄い、とてもきれいな花びらだった。
「ありがとう」
悠がぺこりとお辞儀をしてそう言うと、男の子は小さく会釈した。
「桜……きれいだな」
「うん!」
取ってもらった花びらを、悠はしげしげと見つめている。そして、今度は逃すまいとぎゅっと握りしめて、新たな花びらを掴まえようと構える。
「まだ、取りたいのか?」
「うん、いっぱい」
「そんなに取って、どうするんだ?」
「料理、してくれる!」
「……料理?」
男の子は怪訝な顔をするが、そんなことに構わず、悠は花びらを取ろうとし続けている。だがやはり、逃げられてしまう。何度も逃がして、悠はしょんぼりしていた。
「料理に使うのは、それじゃない」
男の子が呟く。
「ちがうの?」
悠が聞き返しても、返事は返ってこなかった。それどころか、さっきまで男の子がいた場所には誰もいない。いったいどこに消えたのか。足音は聞こえなかったのに。そう思って悠がきょろきょろあたりを見回していると、再び背後から声が聞こえた。
「ほら」
見ると、またあの男の子がいた。その手には、花びらよりも大きい、花そのものが握られている。
「桜の塩漬けは、こういう状態で作ることが多いんだ」
「花びらじゃなくて、花?」
「ああ」
悠は感嘆の声を漏らしながら、男の子の手の中の花をじっと見つめる。
「花も、今咲いてるソメイヨシノじゃなくて、八重咲きの桜のほうがいいらしいぞ」
「……ヤエザキ?」
「こう、花びらが何重にも咲いてる花で……いや、家に帰ってお母さんとかに聞けよ」
男の子は何故か急にぶっきらぼうにそう言った。それに対して、悠は首を傾げる。
「おかあさん、いない」
「じゃあ、お父さんに」
男の子の言葉に悠は考えを巡らせて、嬉しそうに言った。
「けん!」
「『けん』て、誰?」
「ごはんとってもおいしいんだよ。あとねやさしい。いつも、すっごくがんばってる!」
「……は?」
まくし立てる悠に、今度は男の子のほうが首を傾げた。
男の子の質問には答えず、悠は全力で剣のことを褒め称えている。
悠が必死なのはなんとか伝わったのか、男の子は怪訝な顔をしながらも尋ねた。
「お父さんを『けん』て呼んでるってこと?」
「わかんない」
「なんだそれ? じゃあ、もしかして他人なのか?」
「たにん?」
男の子の口元が一瞬だけ歪んだ。笑っているようにも、悲しんでいるようにも見える。
「その『けん』とおまえは、家族でもなんでもないってことだよ」
男の子の言葉の意味を、悠は測りかねた。何度も考えて、その言葉を反芻して、俯いたり空を仰いだり……時間をかけて答えを出そうとしている。
そして何かに思い至った。その悠の顔は……晴れやかだった。
「うん! けん、だいすき!」
「……は?」
男の子が瞬きを繰り返す間も、悠はニコニコしている。
「あのね、けんのごはんね、すっごくおいしいんだよ」
「それはもう聞いたよ。でも、他人だろ?」
「うん。いちばんおいしい!」
「……他人が作ったご飯が、一番なわけない」
これにもまた、悠は考え込んだ。一生懸命考えて、言葉の意味を理解する。
「そんなことない!」
「家族が作ってくれたご飯が一番に決まってるだろ!」
「ちがう! けんのごはんおいしい! もってくる!」
そう叫ぶと、悠はくるりと踵を返して走り去った。あとに残された男の子は一人、ぽつんと立ち尽くしたままだ。
「家族のご飯……食べたい」
悠には男の子の零した独り言は、聞こえていなかった。
❖
色々な料理を堪能してお腹も心も満たされた伊三次たちは、ほとんど空の重箱を前に、酒だけをちびちび舐めていた。剣はやはり心配だからと悠を捜しに行ってしまった。
あともう少ししても帰ってこないようなら、剣も悠もまとめて捜しに行くつもりでいたので、伊三次たち三人は暢気に構えているのであった。そこへ、何やら慌ただしい足音が聞こえてきた。
「おかえり、悠!」
「戻ってきたのですね。収穫はありましたか?」
「童よ、桜は見つかったか? ……なんじゃ、一枚きりではないか」
伊三次たちが口々に言葉をかけるも、悠はその一切に応じようとしない。必死の形相だ。眉をきゅっと寄せたまま、悠は料理を凝視する。重箱のほとんどは空っぽだった。
伊三次たちは、料理がなくなって悲しむだろうかと心配したが……悠は構わず最後の重箱に視線を向けた。いなり寿司が入っていたお重だ。まだいくつか残っている。
「あった!」
「おお、いなり寿司はそんなに食べてなかったみたいだから残しておいたぞ。それ、四種類の味に分かれてたんだな」
「童よ、お主も作ったのだろう? 礼を言うぞ」
伊三次と銅が言う。
「おいしかった?」
鼻息荒くそう尋ねる悠の様子に、伊三次たちは圧倒され、何度も頷いてみせた。
すると悠は、二人が頷くのを見て、満足そうに笑った。
「どうした? 残り全部、悠が食べていいぞ?」
手をつけようとしない悠に、伊三次は言った。だが悠はちらりと伊三次を見上げて問う。
「……あげてもいい?」
「そりゃおまえの自由だけど……あげるって、誰に?」
伊三次の問いに、悠は答えなかった。考え込んで、答えを探しているような様子だ。
何かがおかしいと三人は感じた。
「悠、誰かに食い物をよこせって言われたのか?」
伊三次のその問いに、悠ははっきりと首を横に振った。
「じゃあ誰に持っていくんだ? 大人か子どもか。男か女か。それだけでも答えてくれねえか?」
「こども! おとこのこ!」
「ふむ、男の子ねぇ……で、名前はわからないってことか」
伊三次が問うと、悠は素直に頷いた。
「けんのごはんが、いちばんおいしいから、これあげるの」
「んん? どういう理屈だ?」
伊三次たちには悠の言っていることはまるで理解できなかったが、悠の中ではしっかり筋が通っているのだろう。さっきから、早く戻りたそうにうずうずしている。
これ以上話していても、悠自身、上手く言葉にできないかもしれない。
「うーん、わかった。じゃあ持っていってやりな。転ぶなよ」
「うん!」
伊三次の言葉に大きく頷くと、悠は再び走っていった。風の如き速さだ。
その背中を見送りつつ、伊三次は正体不明の男の子が気にかかっていた。そして、側に控えていた二人に告げた。
「銀、剣を呼んでこい。銅、悠についていけ。ひっそり、な」
「「御意」」
銀と銅は同時にそう答えると、成人男性から白い光へと姿を変えた。そして、ふわりと浮かび上がり、それぞれ別の方向へと飛び去った。
「まぁ杞憂であれば、それはそれでいいから」
そう言い、伊三次は空になったコップを地面に置いた。
❖
悠が急いで走っていくと、あの男の子は、まだ同じ場所で桜の雨に降られていた。
頭に降ってくる花びらを気にもせず、男の子は視線を悠に向けた。
そして次に、悠が手に持っているものに視線を移す。
「はい!」
「……いなり寿司?」
悠が手にした重箱の中には、数個のいなり寿司が入っていた。それらを一つ一つ指さしながら、悠は説明する。
「これ、ふつうの! これ、しょうが! これは、ふき! こっちは大葉と……えーと」
「梅?」
男の子の補足に、悠はめいっぱい頷いた。
「梅のいい匂いがするもんな」
男の子はしげしげといなり寿司を一つ一つ見ている。しかし、手を伸ばそうとはしなかった。そしてわずかに眉根を寄せて、首を横に振った。
「ごめん。いらない」
「なんで? けんのごはん、おいしいよ」
悠は驚いて、もう一度重箱を男の子に差し出した。だが男の子は、それをそっと押し返した。
「どうしても食べたいものがあるんだ。それ以外は、いらない」
悠は、更に驚いた。剣のご飯を「いらない」と言われた挙句、他に食べたいものがあるなんて、予想外なことだったのだ。
悠はしょんぼりしていた。その様子を、男の子は申し訳なさそうな表情で見つめる。
「……おまえ、家族いないのか?」
「?」
顔を上げた悠は、きょとんとする。男の子の言葉が、すぐには理解できなかった。
「それ作ったの、お父さんでもお母さんでもないんだろ。じゃあ……」
ふいに、男の子の口の端が持ち上がった。
優しげな笑みを浮かべたかと思うと、男の子は悠に手を差し出す。
首を傾げつつも、悠はその手を握り返そうとした。しかし、そこで声が聞こえた。
「悠! おーい、どこだ⁉」
「けん!」
悠は瞬時にきょろきょろして、声の主を捜す。
剣は、悠に向かってまっすぐ駆け寄ってくるところだった。
その後ろには銀も銅もいる。悠はぴょんぴょん跳ねながら手を振る。そして、剣のことを見てもらいたいと思って男の子のほうを振り向いた。だが、男の子の姿はどこにもなかった。まるで、初めから存在しなかったかのように、跡形もなく消えてしまった。
悠が周囲を見回していると、剣が息を切らして駆け寄ってきた。
「悠、こんなところで何してるんだ?」
「……おとこのこ、いた」
「男の子?」
剣もまた周囲を見回し、銀と銅に視線を送る。だが、二人とも首を横に振っている。どういうことなのか、揃って首を傾げていると、悠がそろりと呟いた。
「たべてもらえなかった。たべたいものじゃないって……」
悠が重箱の中身に視線を移す。剣が作った、自分もお手伝いした、美味しいいなり寿司なのに。男の子の『どうしても食べたいもの』ではなかったために、断られてしまった。
それは剣のご飯が大好きな悠にとって、とても悲しいことだった。
じんわり涙を浮かべる悠の頭を、剣がそっと撫でる。
「人によって食べたいものや食べられるものは違うさ。それを無理矢理食べろとは言えないよ」
悠が野菜を怖がって食べられなかったとき、剣は色々と工夫をしてくれたけれど、無理に食べろとは言わなかった。そのことを、悠は思い出した。
「……うん」
「また、会えるといいな。そのときは、食べてもらえたら嬉しいな」
「うん」
悠の表情がほんの少し和らいだのを見て、剣は悠が持っていた重箱を受け取った。
そしてもう片方の手を悠に向けて差し出す。悠は迷いなく握り返した。
❖
「おう、おかえり」
戻ってきた剣と悠を見て、伊三次はそう言った。伊三次は銀と銅に目配せをしつつ、重箱の中身を覗き込んだ。いなり寿司が四種類一つずつ残ったままだ。
「食ってくれなかったんだな、その子?」
伊三次の言葉に、悠はしょんぼり頷いた。その様子を見た伊三次は、ひょいっといなり寿司を一つ口に放り込む。
「うん、美味い! こんなに美味いもん食べないなんて、もったいないな」
美味しいと言ってもらえて、悠の頬が桜の花びらのようにピンク色に染まっていく。
「本当に美味い。これは何が入ってるんだ?」
「しょうが!」
伊三次の問いに悠がぴょんぴょん飛び跳ねながら答えると、剣がそれを補う。
「生姜の甘酢漬けを細かく刻んだものだよ。甘いと酸っぱいが、いい塩梅で混ざってるだろ」
油揚げの中を見てみると、真っ白な酢飯の中に、淡い桜色の刻み生姜が混ぜ込まれている。まるで桜の花びらのようだ。
「風流だねぇ」
伊三次がそう言うと、今度は銀と銅がそれぞれ一つずつ、いなり寿司を手に取る。
「先ほども食べましたが……こちらには何が?」
「童よ、こちらには何が入っておる?」
双子が同時に尋ねるので悠はどちらに答えるべきか混乱している。
そして双子のほうは、自分の答えを先に言わせようと視線で争っていた。そんな二人を、伊三次が順番にデコピンし、剣が代わりに答える。
「銀のほうがふき。銅のほうが大葉と梅だよ」
「ほほぅ」
剣の答えに、二人揃ってそう呟き、何やら感心している。
「なるほどふきですか」
「なるほど、梅……!」
「そうそう、どっちもいい香りだろう。ふきは萌黄色がきれいでご飯と合わさると水晶みたいだし、大葉と梅は互いの香りを引き立て合って……どっちも美味いよな」
剣が『どっちも』を強調して言ったことで、銀も銅も互いに目を見合わせる。仲良くしろ、と釘を刺されたのがわかったのだろう。二人はなんとか矛を収めた。
確かに、悠を慰めようとして喧嘩をしていたら世話がない。二人は同じ速さでそれぞれのいなり寿司をぱくっと食べ終わると、名残惜しそうに最後に残された一つを見つめた。
最後の一つを誰が食べるかは、決まっている。
「これは、悠が食べていいんじゃないか?」
剣が残ったいなり寿司を指さして言う。というか、もともと残っていたものは全部悠にあげる予定だった。伊三次たちは苦笑いを浮かべて頷いた。
悠はそろりと最後の一つを手に取り、半分に分けた。そして片方を剣に差し出す。
「はい」
「……くれるのか?」
悠は、コクリと頷く。なんだか照れくさそうだ。最近、悠は剣と『半分こ』をしたがる。剣が半分を受け取ると、この上なく幸せそうな顔をするのだ。
「ありがとう」
だから剣も、遠慮なく受け取る。
そして、決まって二人同時にぱくっと食べてしまうのだった。悠が先ほど浮かべていた悲しそうな表情はもうない。
「やれやれ、こんな美味いものを断るとは、馬鹿なことをするのう」
「おまえ……なんで蒸し返すんだよ」
カラカラ笑う銅を、伊三次が厳しく睨んでたしなめた。だが悠はニコニコして聞いているし、剣も笑っている。
「何か事情があるんだろ。今度会ったら、リベンジすればいいさ。なぁ、悠?」
「……りべんじ?」
「今度こそ、食べてもらおうなってこと」
「うん!」
剣の言葉にグッとガッツポーズする悠を見て、ほっと安堵する伊三次たちだった。しかし、一つ気になることがある。
「しかし、その男の子ってのは……どこの子なんだろうな?」
伊三次が軽い調子で言う。
その質問は悠についていった銅に向けられていた。銅が静かに首を横に振る。
「わかりませぬ。ただまぁ、悪い感じはしなかったのう……」
「やさしい!」
悠は即座にそう言い、先ほどもらった花びらを見せた。
「とってくれた!」
「そうか。これを取ってくれた子だったのか。そりゃあ、お礼しないとな」
「あとね、お花がいいって教えてくれた」
「ああ、確かに塩漬けにするのはそっちのほうがいいって言うな」
悠の言葉に伊三次は考え込む。そして、うーんと唸り声を漏らしたかと思うと、急に何か閃いた顔をして、ぽんと手を叩いた。
「その男の子、もしかしたら桜の精霊だったのかもしれねえな」
「……さくらのせいれい?」
「この公園の桜の木を守ってるっていうのかな。とにかく、桜の精霊が友達なんてやるじゃねえか、悠!」
わしゃわしゃと頭を撫で回されて、くすぐったそうにしつつも、悠は誇らしげに笑った。
ひとまず、よくないことが起こったわけではないとわかって剣は安心する。しかし、その表情はすぐに曇った。
「悪いものは我々が寄せつけぬようにするゆえ、心配しなさるな」
剣の顔を見て、銅が言う。
「ああ、ありがとう……でも、今思っていたのはそのことじゃなくてだな……」
剣の視線は再び悠に向けられた。褒められて無邪気に笑っている悠に。
「悠に子どもの『友達』ができたのは初めてなんじゃないかってことだ」
「確かに、そうですね」
銀が剣に同意する。悠は剣に拾われてからこれまで、ずっと剣とその周囲の人とともに過ごしてきた。接する人は限られてくる。剣と、伊三次たち、それに商店街の人々。剣が買い物に行く時間帯だと同年代の子どもたちはあまり見かけない。
「本当なら、悠の年齢なら幼稚園か小学校に通って、同い年の友達がいっぱいできるものだろう。だけど……」
悠には、戸籍がない。更に、親代わりである剣は付喪神だ。普通なら当たり前にできることが、悠にはできない。
「このままじゃいけない。だけど、どうしたものかな……」
剣自身も戸籍がないので、どうしたらいいか、考えあぐねてしまう。しかも悠と違って剣は付喪神。人間社会の戸籍を手にする手段など、あるはずもない。
(あやかしである俺が、悠にしてあげられることは、いったいなんなんだろうな……)
そんな考えがよぎり、剣の大きなため息が空気に溶ける。
「あのー」
猫背になりかけていた剣の背中に、遠慮がちな声がかけられた。慌てて振り向くと、声の主である女性は、ニッコリ微笑んでいた。その笑みは、剣がよく知る笑みにそっくりだ。
「あなたは……!」
「やっぱり剣さんだ。こんにちは!」
挨拶をすると女性は、剣の背後からひょこっと顔を覗かせた悠を見つけて、更に微笑んだ。
悠も思わずニコッと笑い返した。女性は続いて伊三次たちにも笑いかけた。
「伊三次さん、銀くん、銅くん、お久しぶり。たくさん食べてる?」
「お久しぶりです。ええもう、本当に……ちっとは食い物以外のことも考えてほしいですよ」
「考えているでしょう! 主様の命はきちんと果たしているはず」
「文句を言われる謂れはありませんぞ!」
またしても喧嘩を始めそうになる三人を引き剥がして、剣が女性に言う。
「あー……今日はどうしたんですか? お仕事ですか?」
「ううん。市役所に行ってきたの。ちょっと手続きがあってね。ねぇ、もしかして、その子が……?」
女性の視線が、もじもじしている悠に向いた。照れた悠が剣のほうを見ると、剣は考え込む。
剣の真剣な様子を感じ取って、女性は剣に問いかけた。
「剣さん、どうしたの?」
その言葉に被せるように、剣は迫った。
「あの、今度お時間いただけませんか⁉」
「へ?」
あまりの気迫に、女性はあとずさったが、剣は更に距離を詰める。
「大切なお話があるんです」
「た、大切な……?」
剣が頷くと、女性もおずおずと頷き返した。
悠が少し歩いてみると、桜の花びらはそこかしこに落ちていた。
それまで枝に咲いているものと、舞っている花びらしか見ていなかったが、足元にも桜の絨毯が敷いてあるようだ。
「すごい……!」
悠はそう言いながら、視線を上に向ける。
料理をして食べるなら、やはり地面に落ちているものはよくないのではないかと考えたのだ。しかし、どうしても踏まずには歩けない。
踏まれてしまった花びらは、食べるのには向いていないだろう。
「ごめんね」
足元の花びらたちにそう言って、悠は落ちてくる花びらに手を伸ばした。
伸ばした手の先に、ひらりと軽やかに舞う花びらがある。悠はそれを掴もうとした。
しかし、ふわりと悠の手から逃れてしまう。
「あれ?」
掴めたと思ったのに、悠の掌は空っぽだった。
もう一度、落ちてくる花びらをじっと見つめる。狙いを定めて、今度はゆっくり近付いていく。両手でそっと包み込むようにして、ぎゅっと掴む。だが、手を開くとやはり掌は空っぽ。悠のことをからかうように、花びらはどこかへ行ってしまうのだった。
「……なんで?」
「掴もうとしちゃ、ダメだ」
悠の問いに答える声が、聞こえた。それは悠のまったく知らない声だった。
振り向くと、声の主が立っていた。悠よりも背の高い、真っ白なシャツに、真っ黒の半ズボンを履いた男の子だった。
驚いて瞬きばかり繰り返す悠に向けて、男の子はそっと手を差し伸べた。
その手は悠の手を掴むのではなく、悠の頭の上に伸びていった。そして、悠の髪の毛についていた、ひとひらの花びらを摘まんだ。
「ほら。欲張ると手に入らないけど、ジッとしてたら、こんなに簡単に降ってくるんだよ」
男の子は悠の掌にそっと花びらを載せた。
泥もついておらず、うっすら透けて見えるほど薄い、とてもきれいな花びらだった。
「ありがとう」
悠がぺこりとお辞儀をしてそう言うと、男の子は小さく会釈した。
「桜……きれいだな」
「うん!」
取ってもらった花びらを、悠はしげしげと見つめている。そして、今度は逃すまいとぎゅっと握りしめて、新たな花びらを掴まえようと構える。
「まだ、取りたいのか?」
「うん、いっぱい」
「そんなに取って、どうするんだ?」
「料理、してくれる!」
「……料理?」
男の子は怪訝な顔をするが、そんなことに構わず、悠は花びらを取ろうとし続けている。だがやはり、逃げられてしまう。何度も逃がして、悠はしょんぼりしていた。
「料理に使うのは、それじゃない」
男の子が呟く。
「ちがうの?」
悠が聞き返しても、返事は返ってこなかった。それどころか、さっきまで男の子がいた場所には誰もいない。いったいどこに消えたのか。足音は聞こえなかったのに。そう思って悠がきょろきょろあたりを見回していると、再び背後から声が聞こえた。
「ほら」
見ると、またあの男の子がいた。その手には、花びらよりも大きい、花そのものが握られている。
「桜の塩漬けは、こういう状態で作ることが多いんだ」
「花びらじゃなくて、花?」
「ああ」
悠は感嘆の声を漏らしながら、男の子の手の中の花をじっと見つめる。
「花も、今咲いてるソメイヨシノじゃなくて、八重咲きの桜のほうがいいらしいぞ」
「……ヤエザキ?」
「こう、花びらが何重にも咲いてる花で……いや、家に帰ってお母さんとかに聞けよ」
男の子は何故か急にぶっきらぼうにそう言った。それに対して、悠は首を傾げる。
「おかあさん、いない」
「じゃあ、お父さんに」
男の子の言葉に悠は考えを巡らせて、嬉しそうに言った。
「けん!」
「『けん』て、誰?」
「ごはんとってもおいしいんだよ。あとねやさしい。いつも、すっごくがんばってる!」
「……は?」
まくし立てる悠に、今度は男の子のほうが首を傾げた。
男の子の質問には答えず、悠は全力で剣のことを褒め称えている。
悠が必死なのはなんとか伝わったのか、男の子は怪訝な顔をしながらも尋ねた。
「お父さんを『けん』て呼んでるってこと?」
「わかんない」
「なんだそれ? じゃあ、もしかして他人なのか?」
「たにん?」
男の子の口元が一瞬だけ歪んだ。笑っているようにも、悲しんでいるようにも見える。
「その『けん』とおまえは、家族でもなんでもないってことだよ」
男の子の言葉の意味を、悠は測りかねた。何度も考えて、その言葉を反芻して、俯いたり空を仰いだり……時間をかけて答えを出そうとしている。
そして何かに思い至った。その悠の顔は……晴れやかだった。
「うん! けん、だいすき!」
「……は?」
男の子が瞬きを繰り返す間も、悠はニコニコしている。
「あのね、けんのごはんね、すっごくおいしいんだよ」
「それはもう聞いたよ。でも、他人だろ?」
「うん。いちばんおいしい!」
「……他人が作ったご飯が、一番なわけない」
これにもまた、悠は考え込んだ。一生懸命考えて、言葉の意味を理解する。
「そんなことない!」
「家族が作ってくれたご飯が一番に決まってるだろ!」
「ちがう! けんのごはんおいしい! もってくる!」
そう叫ぶと、悠はくるりと踵を返して走り去った。あとに残された男の子は一人、ぽつんと立ち尽くしたままだ。
「家族のご飯……食べたい」
悠には男の子の零した独り言は、聞こえていなかった。
❖
色々な料理を堪能してお腹も心も満たされた伊三次たちは、ほとんど空の重箱を前に、酒だけをちびちび舐めていた。剣はやはり心配だからと悠を捜しに行ってしまった。
あともう少ししても帰ってこないようなら、剣も悠もまとめて捜しに行くつもりでいたので、伊三次たち三人は暢気に構えているのであった。そこへ、何やら慌ただしい足音が聞こえてきた。
「おかえり、悠!」
「戻ってきたのですね。収穫はありましたか?」
「童よ、桜は見つかったか? ……なんじゃ、一枚きりではないか」
伊三次たちが口々に言葉をかけるも、悠はその一切に応じようとしない。必死の形相だ。眉をきゅっと寄せたまま、悠は料理を凝視する。重箱のほとんどは空っぽだった。
伊三次たちは、料理がなくなって悲しむだろうかと心配したが……悠は構わず最後の重箱に視線を向けた。いなり寿司が入っていたお重だ。まだいくつか残っている。
「あった!」
「おお、いなり寿司はそんなに食べてなかったみたいだから残しておいたぞ。それ、四種類の味に分かれてたんだな」
「童よ、お主も作ったのだろう? 礼を言うぞ」
伊三次と銅が言う。
「おいしかった?」
鼻息荒くそう尋ねる悠の様子に、伊三次たちは圧倒され、何度も頷いてみせた。
すると悠は、二人が頷くのを見て、満足そうに笑った。
「どうした? 残り全部、悠が食べていいぞ?」
手をつけようとしない悠に、伊三次は言った。だが悠はちらりと伊三次を見上げて問う。
「……あげてもいい?」
「そりゃおまえの自由だけど……あげるって、誰に?」
伊三次の問いに、悠は答えなかった。考え込んで、答えを探しているような様子だ。
何かがおかしいと三人は感じた。
「悠、誰かに食い物をよこせって言われたのか?」
伊三次のその問いに、悠ははっきりと首を横に振った。
「じゃあ誰に持っていくんだ? 大人か子どもか。男か女か。それだけでも答えてくれねえか?」
「こども! おとこのこ!」
「ふむ、男の子ねぇ……で、名前はわからないってことか」
伊三次が問うと、悠は素直に頷いた。
「けんのごはんが、いちばんおいしいから、これあげるの」
「んん? どういう理屈だ?」
伊三次たちには悠の言っていることはまるで理解できなかったが、悠の中ではしっかり筋が通っているのだろう。さっきから、早く戻りたそうにうずうずしている。
これ以上話していても、悠自身、上手く言葉にできないかもしれない。
「うーん、わかった。じゃあ持っていってやりな。転ぶなよ」
「うん!」
伊三次の言葉に大きく頷くと、悠は再び走っていった。風の如き速さだ。
その背中を見送りつつ、伊三次は正体不明の男の子が気にかかっていた。そして、側に控えていた二人に告げた。
「銀、剣を呼んでこい。銅、悠についていけ。ひっそり、な」
「「御意」」
銀と銅は同時にそう答えると、成人男性から白い光へと姿を変えた。そして、ふわりと浮かび上がり、それぞれ別の方向へと飛び去った。
「まぁ杞憂であれば、それはそれでいいから」
そう言い、伊三次は空になったコップを地面に置いた。
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悠が急いで走っていくと、あの男の子は、まだ同じ場所で桜の雨に降られていた。
頭に降ってくる花びらを気にもせず、男の子は視線を悠に向けた。
そして次に、悠が手に持っているものに視線を移す。
「はい!」
「……いなり寿司?」
悠が手にした重箱の中には、数個のいなり寿司が入っていた。それらを一つ一つ指さしながら、悠は説明する。
「これ、ふつうの! これ、しょうが! これは、ふき! こっちは大葉と……えーと」
「梅?」
男の子の補足に、悠はめいっぱい頷いた。
「梅のいい匂いがするもんな」
男の子はしげしげといなり寿司を一つ一つ見ている。しかし、手を伸ばそうとはしなかった。そしてわずかに眉根を寄せて、首を横に振った。
「ごめん。いらない」
「なんで? けんのごはん、おいしいよ」
悠は驚いて、もう一度重箱を男の子に差し出した。だが男の子は、それをそっと押し返した。
「どうしても食べたいものがあるんだ。それ以外は、いらない」
悠は、更に驚いた。剣のご飯を「いらない」と言われた挙句、他に食べたいものがあるなんて、予想外なことだったのだ。
悠はしょんぼりしていた。その様子を、男の子は申し訳なさそうな表情で見つめる。
「……おまえ、家族いないのか?」
「?」
顔を上げた悠は、きょとんとする。男の子の言葉が、すぐには理解できなかった。
「それ作ったの、お父さんでもお母さんでもないんだろ。じゃあ……」
ふいに、男の子の口の端が持ち上がった。
優しげな笑みを浮かべたかと思うと、男の子は悠に手を差し出す。
首を傾げつつも、悠はその手を握り返そうとした。しかし、そこで声が聞こえた。
「悠! おーい、どこだ⁉」
「けん!」
悠は瞬時にきょろきょろして、声の主を捜す。
剣は、悠に向かってまっすぐ駆け寄ってくるところだった。
その後ろには銀も銅もいる。悠はぴょんぴょん跳ねながら手を振る。そして、剣のことを見てもらいたいと思って男の子のほうを振り向いた。だが、男の子の姿はどこにもなかった。まるで、初めから存在しなかったかのように、跡形もなく消えてしまった。
悠が周囲を見回していると、剣が息を切らして駆け寄ってきた。
「悠、こんなところで何してるんだ?」
「……おとこのこ、いた」
「男の子?」
剣もまた周囲を見回し、銀と銅に視線を送る。だが、二人とも首を横に振っている。どういうことなのか、揃って首を傾げていると、悠がそろりと呟いた。
「たべてもらえなかった。たべたいものじゃないって……」
悠が重箱の中身に視線を移す。剣が作った、自分もお手伝いした、美味しいいなり寿司なのに。男の子の『どうしても食べたいもの』ではなかったために、断られてしまった。
それは剣のご飯が大好きな悠にとって、とても悲しいことだった。
じんわり涙を浮かべる悠の頭を、剣がそっと撫でる。
「人によって食べたいものや食べられるものは違うさ。それを無理矢理食べろとは言えないよ」
悠が野菜を怖がって食べられなかったとき、剣は色々と工夫をしてくれたけれど、無理に食べろとは言わなかった。そのことを、悠は思い出した。
「……うん」
「また、会えるといいな。そのときは、食べてもらえたら嬉しいな」
「うん」
悠の表情がほんの少し和らいだのを見て、剣は悠が持っていた重箱を受け取った。
そしてもう片方の手を悠に向けて差し出す。悠は迷いなく握り返した。
❖
「おう、おかえり」
戻ってきた剣と悠を見て、伊三次はそう言った。伊三次は銀と銅に目配せをしつつ、重箱の中身を覗き込んだ。いなり寿司が四種類一つずつ残ったままだ。
「食ってくれなかったんだな、その子?」
伊三次の言葉に、悠はしょんぼり頷いた。その様子を見た伊三次は、ひょいっといなり寿司を一つ口に放り込む。
「うん、美味い! こんなに美味いもん食べないなんて、もったいないな」
美味しいと言ってもらえて、悠の頬が桜の花びらのようにピンク色に染まっていく。
「本当に美味い。これは何が入ってるんだ?」
「しょうが!」
伊三次の問いに悠がぴょんぴょん飛び跳ねながら答えると、剣がそれを補う。
「生姜の甘酢漬けを細かく刻んだものだよ。甘いと酸っぱいが、いい塩梅で混ざってるだろ」
油揚げの中を見てみると、真っ白な酢飯の中に、淡い桜色の刻み生姜が混ぜ込まれている。まるで桜の花びらのようだ。
「風流だねぇ」
伊三次がそう言うと、今度は銀と銅がそれぞれ一つずつ、いなり寿司を手に取る。
「先ほども食べましたが……こちらには何が?」
「童よ、こちらには何が入っておる?」
双子が同時に尋ねるので悠はどちらに答えるべきか混乱している。
そして双子のほうは、自分の答えを先に言わせようと視線で争っていた。そんな二人を、伊三次が順番にデコピンし、剣が代わりに答える。
「銀のほうがふき。銅のほうが大葉と梅だよ」
「ほほぅ」
剣の答えに、二人揃ってそう呟き、何やら感心している。
「なるほどふきですか」
「なるほど、梅……!」
「そうそう、どっちもいい香りだろう。ふきは萌黄色がきれいでご飯と合わさると水晶みたいだし、大葉と梅は互いの香りを引き立て合って……どっちも美味いよな」
剣が『どっちも』を強調して言ったことで、銀も銅も互いに目を見合わせる。仲良くしろ、と釘を刺されたのがわかったのだろう。二人はなんとか矛を収めた。
確かに、悠を慰めようとして喧嘩をしていたら世話がない。二人は同じ速さでそれぞれのいなり寿司をぱくっと食べ終わると、名残惜しそうに最後に残された一つを見つめた。
最後の一つを誰が食べるかは、決まっている。
「これは、悠が食べていいんじゃないか?」
剣が残ったいなり寿司を指さして言う。というか、もともと残っていたものは全部悠にあげる予定だった。伊三次たちは苦笑いを浮かべて頷いた。
悠はそろりと最後の一つを手に取り、半分に分けた。そして片方を剣に差し出す。
「はい」
「……くれるのか?」
悠は、コクリと頷く。なんだか照れくさそうだ。最近、悠は剣と『半分こ』をしたがる。剣が半分を受け取ると、この上なく幸せそうな顔をするのだ。
「ありがとう」
だから剣も、遠慮なく受け取る。
そして、決まって二人同時にぱくっと食べてしまうのだった。悠が先ほど浮かべていた悲しそうな表情はもうない。
「やれやれ、こんな美味いものを断るとは、馬鹿なことをするのう」
「おまえ……なんで蒸し返すんだよ」
カラカラ笑う銅を、伊三次が厳しく睨んでたしなめた。だが悠はニコニコして聞いているし、剣も笑っている。
「何か事情があるんだろ。今度会ったら、リベンジすればいいさ。なぁ、悠?」
「……りべんじ?」
「今度こそ、食べてもらおうなってこと」
「うん!」
剣の言葉にグッとガッツポーズする悠を見て、ほっと安堵する伊三次たちだった。しかし、一つ気になることがある。
「しかし、その男の子ってのは……どこの子なんだろうな?」
伊三次が軽い調子で言う。
その質問は悠についていった銅に向けられていた。銅が静かに首を横に振る。
「わかりませぬ。ただまぁ、悪い感じはしなかったのう……」
「やさしい!」
悠は即座にそう言い、先ほどもらった花びらを見せた。
「とってくれた!」
「そうか。これを取ってくれた子だったのか。そりゃあ、お礼しないとな」
「あとね、お花がいいって教えてくれた」
「ああ、確かに塩漬けにするのはそっちのほうがいいって言うな」
悠の言葉に伊三次は考え込む。そして、うーんと唸り声を漏らしたかと思うと、急に何か閃いた顔をして、ぽんと手を叩いた。
「その男の子、もしかしたら桜の精霊だったのかもしれねえな」
「……さくらのせいれい?」
「この公園の桜の木を守ってるっていうのかな。とにかく、桜の精霊が友達なんてやるじゃねえか、悠!」
わしゃわしゃと頭を撫で回されて、くすぐったそうにしつつも、悠は誇らしげに笑った。
ひとまず、よくないことが起こったわけではないとわかって剣は安心する。しかし、その表情はすぐに曇った。
「悪いものは我々が寄せつけぬようにするゆえ、心配しなさるな」
剣の顔を見て、銅が言う。
「ああ、ありがとう……でも、今思っていたのはそのことじゃなくてだな……」
剣の視線は再び悠に向けられた。褒められて無邪気に笑っている悠に。
「悠に子どもの『友達』ができたのは初めてなんじゃないかってことだ」
「確かに、そうですね」
銀が剣に同意する。悠は剣に拾われてからこれまで、ずっと剣とその周囲の人とともに過ごしてきた。接する人は限られてくる。剣と、伊三次たち、それに商店街の人々。剣が買い物に行く時間帯だと同年代の子どもたちはあまり見かけない。
「本当なら、悠の年齢なら幼稚園か小学校に通って、同い年の友達がいっぱいできるものだろう。だけど……」
悠には、戸籍がない。更に、親代わりである剣は付喪神だ。普通なら当たり前にできることが、悠にはできない。
「このままじゃいけない。だけど、どうしたものかな……」
剣自身も戸籍がないので、どうしたらいいか、考えあぐねてしまう。しかも悠と違って剣は付喪神。人間社会の戸籍を手にする手段など、あるはずもない。
(あやかしである俺が、悠にしてあげられることは、いったいなんなんだろうな……)
そんな考えがよぎり、剣の大きなため息が空気に溶ける。
「あのー」
猫背になりかけていた剣の背中に、遠慮がちな声がかけられた。慌てて振り向くと、声の主である女性は、ニッコリ微笑んでいた。その笑みは、剣がよく知る笑みにそっくりだ。
「あなたは……!」
「やっぱり剣さんだ。こんにちは!」
挨拶をすると女性は、剣の背後からひょこっと顔を覗かせた悠を見つけて、更に微笑んだ。
悠も思わずニコッと笑い返した。女性は続いて伊三次たちにも笑いかけた。
「伊三次さん、銀くん、銅くん、お久しぶり。たくさん食べてる?」
「お久しぶりです。ええもう、本当に……ちっとは食い物以外のことも考えてほしいですよ」
「考えているでしょう! 主様の命はきちんと果たしているはず」
「文句を言われる謂れはありませんぞ!」
またしても喧嘩を始めそうになる三人を引き剥がして、剣が女性に言う。
「あー……今日はどうしたんですか? お仕事ですか?」
「ううん。市役所に行ってきたの。ちょっと手続きがあってね。ねぇ、もしかして、その子が……?」
女性の視線が、もじもじしている悠に向いた。照れた悠が剣のほうを見ると、剣は考え込む。
剣の真剣な様子を感じ取って、女性は剣に問いかけた。
「剣さん、どうしたの?」
その言葉に被せるように、剣は迫った。
「あの、今度お時間いただけませんか⁉」
「へ?」
あまりの気迫に、女性はあとずさったが、剣は更に距離を詰める。
「大切なお話があるんです」
「た、大切な……?」
剣が頷くと、女性もおずおずと頷き返した。
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