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三章 婚約者

十一話 美桜と芙蓉

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 桜の間を飛び出したものの、行く当てがなく、美桜は仕方なく、浴場へと向かった。涙でぐちゃぐちゃになった顔を誰かに見られたくはなかったし、部屋へ戻って、芙蓉を責めるわけにもいかない。

 脱衣所で着物を脱ぎ、浴場へ入り、ぼんやりとしながら、髪と体を洗う。湯船に浸かると、再び涙がこぼれてきた。今頃、翡翠と芙蓉は何をしているのだろう。想像をしたくなくて、湯の中に顔を沈めた。

(翡翠と芙蓉さん、このまま夫婦になってしまうのかな……)

 それでもそばにいたいと思っていたが、この胸の痛みでは無理だ。自分はこの城を去ろう。

(ずるいかもしれないけれど、神楽さんに連れて行ってもらおう……)

  ざばっと顔を上げ、頭を振る。空を見上げると、星が瞬いている。

(……それって、逃げじゃない?)

 ふと、そんな考えが浮かんだ。
 自分は、叔父と叔母、いとこに何も告げず、あの家から逃げ出した。恩のある翡翠の元を去ることもまた、逃げではないのだろうか。

(私はまだ、恩を返しきれていない)

 菓子店はオープンしたばかり。軌道に乗せるのはこれからだ。
 自分がどうしたらいいのか分からない。
 湯船に浸かりながら、思い悩む。

 どれぐらいの時間が過ぎただろうか。そろそろのぼせてしまうのではないか。けれど、風呂を出た後、どこへ行けば良いだろう。迷っていると、がらりと浴場の扉が開いた。

(誰か来た)

 とりあえず風呂を出て、入ってきた誰かに譲ろうと立ち上がったら、

「芙蓉、さん……」

 そこにいたのは芙蓉だった。均整の取れた裸体は美しく、女の美桜でも、一瞬見とれた。

「あら、あなた、お風呂に来ていたのね」

 芙蓉はまるで何ごともなかったような口調で言うと、すたすたと湯船まで歩いて来た。するりと湯の中に入り、体を沈める。先程の翡翠と芙蓉の姿を思い出し、居心地の悪くなった美桜は湯船から出ようとしたが、芙蓉に、

「待ちなさいよ」

 と腕を掴まれた。

「あなた、さっきの私たちを見て、何も思わなかったの?」

 ズバリと問いかけられて、美桜の体がこわばる。

「な、何もって……だって、翡翠と芙蓉さんは婚約者だから……」

「あなたの翡翠への気持ちって、そんなものだったんだ」

 馬鹿にしたような芙蓉の言葉に、美桜はムッとした。

「そんなことない……!」

「逃げたじゃない」

「そ、それは……! びっくりして!」

「泣いていたんでしょう。目が赤い」

 芙蓉に図星をさされて、悔しくなる。

「泣いてない!」

 思わず噛みついたら、芙蓉は面白そうに笑った。

「私たち、夫婦になったの。もう、あなたの出る幕はない。あなたは神楽のところへ行きなさいよ」

「……!」

 美桜は息をのんだが、ふるふると首を振った。

「行かない」

「どうして? ここにいてもつらいだけよ」

 芙蓉に挑発的な視線を向けられ、美桜の覚悟が決まった。

「私は、もう逃げない。翡翠があなたのものになっても、私は翡翠を想い続ける。あの人の役に立てるように、そばにいて、この身を捧げます」

 きっぱりと言い切ると、今度は芙蓉が息をのんだ。

「…………」

「…………」

 しばらくの間、二人は無言で睨み合った。そして、先に口を開いたのは芙蓉だった。

「……あなたって、私と似ているのね」

「似ている?」

 芙蓉の言葉の意味が分からず、首を傾げると、芙蓉はふっと自嘲気味に笑った。

「想い続けても振り向いてもらえない相手だとしても、そばにいられれば幸せだって考えているところ」

「どういう意味ですか?」

「まあ、座りなさいよ。体が冷えるわよ」

 芙蓉は手首を掴むと、美桜を湯船の中に浸からせた。
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