京の都で没落姫君は黒髭大将に命を救われ、姫宮に人生を授けられる

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痛みを、祈りに変えて

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 その日も、二条の邸には薄い霧雨がかかっていた。庭の萩が雨に濡れてしなり、風が渡るたびに、花の雫がぽつりと几帳に落ちた。
 姫宮は紫苑の色の衣を重ね、いつものように静かに香を焚いておられた。

その場に侍していた雅子は、ひときわ静かな面持ちで、香炉から立ちのぼる煙を見つめていた。

「この香を聞くと、どこか切ない想いがするわね」
と、姫宮が微笑むと、年若い女房が応じた。
「まるで、恋に身を焦がす女の涙のようにございます」
 くすくすと笑いがこぼれる中で、雅子は俯いたまま、袖の端をそっと握った。
 笑いの輪の中にいながら、どこか遠い場所にいるような気がした。

 ふと、姫宮が雅子に目を向けた。
「珠の君は、この香りをどうお思いになって?」
 突然の問いに、雅子の唇がわずかに震えた。
「……わたくしは……」
 言葉を探すように、目を伏せたまま、しばし沈黙が落ちる。
 女房のひとりが、香炉に新しい沈香をくべた。煙がふわりと立ちのぼり、あたりの空気を満たす。

 やがて、雅子は小さく息を吐いた。
「胸をつくような、素晴らしき香と存じますが……。わたくしには、そもそも、恋というものが……慰めや、あたたかさであるならば……。わたくしには、それがどうしても……そう思えませぬのです」

 驚きに満ちた人々の顔。その光景を前にして、雅子ははっとした。
 衝動のままに口をついた言葉だったが。実はずっと、この場にいる人たち、そう、姫宮にこそ、語りたかったのだと気づいた。

「初めて殿と対面した折のことが、今も……」
 と、言いかけて言葉を止める。女房たちの気配が、わずかに動く。
「……まるで、獣が……心ではなく、ただ身を奪うような……わたくしを、数ならぬ身だと思うからこその、恐ろしさでございました。あれを恋と申すならば、恋とは……人を壊すものでしょうか」

 その言葉に、部屋の空気がひやりと張りつめた。
 女房たちは互いに目を見合わせ、誰も笑おうとはしなかった。
 姫宮はしばらく、何も言わずに香の煙を見つめていた。
 やがて扇を閉じ、静かに息をつく。

「……珠の君」

 その声は、やわらかく、しかし芯のある響きだった。

「人の心を傷つけるほどの愛も、世にはございます。それを恋と呼ぶにはあまりに哀しいけれど……女は皆、その影を一度はくぐるのかもしれません」

 部屋にいた誰もが顔を伏せ、唇を噛んだ。
 姫宮はしばらく考え込むように視線を落とし、そして静かに言った。

「……出家なされたい、ということかしら」
 雅子は驚いたように顔を上げた。
「いえ……そんなつもりでは……ただ……」

 けれど、言葉は続かなかった。


 雨がやんで、庭の空気にほんのりと桂の香が混じった。

 その香を堪能していた姫宮は、ふと遠い日を思い出されたように、ゆるやかに目を伏せた。

「……わたくしも、昔はあなたのようだったわ」

 その声は、いつになく静かで、女房たちも息をひそめた。

「まだ宮中にいたころ、わたくしには一人心に想う方がおりました。けれどその方はわたくしを愛してくださると同時に、『手に入れたい』と思っておられたのです。初めのうちは、それも恋の一つと思っておりましたが……だんだんと、己の心がまるで壊れてゆくようで」
 そこまで語って、姫宮は扇の先で唇をそっとなぞった。
 香の煙がゆるやかに揺れ、薄闇の中にその横顔が浮かぶ。
「わたくしは知ったのです。人が『女』という形に閉じ込められるとは、こういうことなのだと。誰かの掌に握られ、呼吸の仕方まで定められるようなあの感覚。あれ以来、恋という言葉が……少し恐ろしいものに思えてしまって……」

 雅子は息を呑み、そっと姫宮を見つめた。
 姫宮は、あくまで静かに、悲しみを押し殺すように微笑んでいた。

「それでも、朝が来ると、空がとても美しかったのです。鳥の声も、庭の露も、何もかもが生まれ変わったように澄んでいて……あの時、わたくしは思いましたの。もしもう一度、生まれ変われるのなら、女でも男でもない『ただの人』として生きたい、と」
 姫宮の手が、膝の上でゆるやかに重なった。
 白い指の間に、光がかすかに揺れていた。

「それから幾年か後、黒髭殿との縁談が決まった時も……わたくしは、もう心のどこかで『俗世の恋』というものを諦めていたのかもしれないわね。彼は誠実で、真面目で、愛を言葉にせぬ方。だからこそ、安心できる、と」

 そう言いながら、姫宮は遠い庭を見つめた。
 風が簾を揺らし、池の水面に、雲の影が静かに流れてゆく。

「けれどもね、珠の君。人の心というのは、諦めただけでは救われぬもの。時に、祈りが必要になる。世を離れるというのは、逃げることではなく、もう一度『自分』に戻るための道。あなたがその道に心を寄せるなら、わたくしは、それを美しいことだと思います」

 雅子はいつしか涙を拭くことも忘れ、ただ姫宮の言葉を聞いていた。
 外では、風が少し強くなり、庭の萩がさらさらと揺れている。

「……姫宮さま」

 雅子は震える声でつぶやいた。

「では、あなたさまも……いつか、出家を望まれたことが?」
 姫宮はしばらく黙っておられた。
 そして、微笑ともため息ともつかぬ息を漏らして、言った。

「ええ。けれどその時にはもう、袖が俗の色に染まりすぎていた。いつか白き衣をまとう日が来るかもしれないけれど、その前にこの生を味わいつくしたいと思ったの」
 その微笑みには、苦い光があった。
 それでも声は穏やかで、どこまでも気高かった。

「ですがこれはわたくしのお話。心が傷ついたままでは、花も咲けません。すべてを捨てねば救われぬということも、またある。……珠の君、もしそのようにお思いなら、わたくしが道をお開きいたしましょう」

姫宮の声は、冷たくも温かくもない、ただ静かな真心の色を帯びていた。
香の煙がふたりの間をゆるやかに漂い、淡く消えてゆく。
雅子は涙の跡を袖で拭い、かすかに頭を下げた。
「……恐れながら、今はただ……この胸の痛みを、忘れることができたらと……」
 姫宮は頷き、扇を閉じた。
 外では、風が簾を揺らし、虫の音がひときわ高く響いた。
「忘れるのではなく、祈りに変えるの。そのとき、あなたの痛みはきっと誰かの光になります」

 その言葉に、雅子は胸が詰まり、ただ深く頭を下げた。
 障子の隙間から、秋の光が差し込み、二人の間に淡い金の帯を落とした。

 それは、二人の運命を隔てながらも、どこかでひとつに結ぶ、祈りの光のようであった。
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