天狗の盃

大林 朔也

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黒龍 2

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「大丈夫?!」

「すまんな…今宵は…どうも調子が狂う」
 紅天狗は顔を押さえながら指の隙間から僕を見た。
 男の額には薄らと汗が滲み、息を荒げながら胸に手をあてて何かを強く握り締めた。
 乱れた襟の隙間から透明な汗が伝っていくのが見え、その先には紫色の光が明滅していた。
 
 紅天狗は深く息を吸い込み、僕には分からない言葉で何かを呟くと胸から手を離した。呼吸が落ち着いていくと紫色の光も薄らいでいき、逞しい首筋を伝っていた汗が蒸発するように消えていった。

「心配かけたな。
 もう、大丈夫だ」
 紅天狗はそう言ったが、僕は心配でならなかった。銀色の瞳をじっと見つめていると、男はその気持ちを察したのか僕の頭をクシャクシャと撫でた。

「カラスが来て、しばらく共に過ごしたら、俺達は歩いて帰るからな。
 暗い夜道だから、転ぶなよ」
 紅天狗は冗談めかして言った。

「あっ!そうか…ここは軒下じゃなかった。
 僕は、歩いて帰るよ。
 けれど、なんだか…このまま横になりたい気分なんだ。
 フカフカの草の上で横になりながら、夜明けを見たいんだ。
 もし叶うのなら…今宵だけでもそうしたい」
 僕がため息混じりに言うと、紅天狗は腕組みをして黙り込んだ。

「今宵の満月は、本当に綺麗だ。
 夜空の星も…手が届きそうなほどに近く感じるよ」
 僕はさらに呟いた。

 はめ殺しの窓から見える夜空は、どうしても遠く感じてしまう。こんな風に夜風を感じることも出来ず、閉ざされた空間にいるような気持ちになることもあった。時折ベランダに出ては、夜風に吹かれながら月を見ていた頃を懐かしく思った。
 数週間前の事なのに、随分遠い日のように感じてならなかった。それはきっと…今まで僕が過ごしてきた日々よりも、この山で過ごす毎日が濃密だからだろう。
 それになにより紅天狗の事が心配でならなかった。
 僕が側にいたところで何もできはしないが、それでも側にいたかった。声も顔色もすっかり戻っていたが「何か」がおかしく感じてならなかったのだ。

「分かった。
 なら、共に夜明けを見るか。
 異界に行くのは、明後日からにしよう」

「ありがとう!」
 僕がそう言うと、紅天狗は優しく微笑んだ。

「俺の方こそ、ありがとな。
 心の内の半分は、言葉通りだ。
 だが、残りの半分は言葉にしていない。
 優しいな、昌景は」
 紅天狗がそう言うと、僕は恥ずかしくなった。読心などしなくても、紅天狗に僕の気持ちが分からないはずがなかった。

「袴の人はまだかな?そろそろなんだよね?」
 僕が慌てて話題を変えると、紅天狗は少し笑った。

「そろそろだ。
 そういえば、カラスの名は決まったのか?」

「あっ…それが、まだなんだ。 
 自分の事で手一杯だったから、まだ何も考えていない。
 それに…彼女に確認もしていない。
 彼女がカラスという名を気に入っているのなら、やめておくよ。これは、僕がただ…思っただけのことだから」
 と、僕は言った。
 僕が思っている以上に、紅天狗は彼女の事を大切に思っている。そんな相手から呼ばれ続けた名であるのなら、たとえ沢山の鴉を指す名であっても、特別なものに形を変えるのかもしれないと思うようになっていた。

「そうか。
 カラスが受け入れるのならば、いい名をつけてやってくれ。
 美しい名ならば、カラスも喜ぶだろう」
 紅天狗はそう言うと、美しい星を見上げた。僕も男の視線の先を追うと、不意に「ある言葉」を思い出した。

「紅天狗…」
 僕は星を見ながら男の名を呟いた。

「なんだ?」

「その…探している…美しい星は見つかったの?
 空には無数の星が燦然と輝いている。
 その中で、たった一つの星を見つけるのは…なかなか難しいよね。 
 僕は月が好きだから、すぐに見つけられるけれど」
 僕はそう言うと、紅天狗を見た。

 すると男の顔には不敵な笑みが浮かんだ。銀色の瞳には力強い意志が感じられ、僕の目は釘付けになった。

「そうだな。無数の星が輝いている。 
 だが俺にとっての輝ける星は、たった一つだけだ。他の星は必要ない。
 その星だけが、俺の全てなんだ。
 必ず見つけ出してみせる。
 そう約束したんだ」
 紅天狗が力強い声でそう言うと、空に目も眩むような光が閃いて松の木の枝葉を白く照らした。

 その不思議な光景は、桔梗が飾られた花瓶に松の枝葉をさした瞬間を思い起こさせた。嬉しそうに揺れながら松に寄り添う桔梗を思いながら夜空を見上げると、美しい星がさらに輝きを増した気がした。

「そう…だね。
 紅天狗ならば見つけ出せる。
 星も、紅天狗に見つけて欲しがっているだろう。
 地上と空は遠く離れている。けれど紅天狗には翼があるから、その美しい星を迎えに行くことが出来る。
 もう2度と空に飛んでいくことがないよう…強く抱き締めることも出来るしね」
 と、僕は言った。 

 すると、紅天狗は嬉しそうな顔で笑い出した。
 その顔を見ていると僕も幸せな気持ちになったので、松の木の下は喜びで溢れていったのだった。


 だが笑い声が止むと、何者かの訪れを告げるかのように風が唸りを上げた。木々に囲まれた薄暗い階段の方から、狼煙のような煙が一筋立ち上った。
 草が波のように揺れ動き、落葉が一斉に舞い上がると、唸りを上げる風の音以上に背筋が凍るような音が聞こえてきた。聞いたこともない音だったが、空気が振動すると命の鼓動を感じたのだった。

 荒々しく風が吹きつけてくると、木々がザワザワと激しく揺れ動き、幹がきしむような音が上がった。
 暗闇に運ばれるように鳴き声を発する生き物が迫ってきているような気がして、僕は慌てて立ち上がった。

「動くなよ、昌景。
 俺から離れるな。吹き飛ばされるぞ」
 紅天狗は落ち着いた声で言うと、ゆっくりと立ち上がった。

 その言葉を聞いた僕は息を呑んだ。
 僕自身の足の震えによるものなのか、踏みしめる大地が揺れ動いているような気がした。

 風が吹き、草木が揺れ、異様な鳴き声が響き渡っている。
 流れる時間が、とても長く感じた。

 額から流れ落ちる汗を手で拭うと、その一瞬の間に、前方が靄のようなものに包まれていた。
 頭がくらくらするような香りが漂うと、目が霞んで耳鳴りがし手足が冷たくなり、僕の心にジワジワと恐怖が広がっていった。息苦しさを感じて喘ぐように息をしていると靄は引いていき、そこから現れたものを見た僕は仰天して腰を抜かしそうになった。

 2つの紅い炎が、宙に浮いていた。
 その紅い炎は生きているかのように力強く、風に吹かれるほどに激しく燃え上がった。
 夜空は煌めいているのに凄まじい雷が鳴る音が聞こえ、輝く星々が列をなし稲妻のように見えた。
 すると炎と星の光によって、闇から放たれたような色をした蛇に似た巨大な生き物の姿が見えた。
 それは天狗と同じように、存在しないと思っていた伝説上の生き物だった。
 漆黒の生き物が頭をもたげると、2つの紅い炎も浮かび上がった。紅い炎は、双眼だったのだ。
 頭には全てを貫くような2本の鋭い角を生やし、風の音すらも聞き分ける細長い耳を持ち、一瞬で何もかもを喰らうような恐ろしい口には鋭く光る銀色の牙が見えた。

「黒龍…だ。
 まさか…そんな…存在するなんて…」
 僕はこの目で見てもまだ信じられなかった。 

 すると黒龍の紅い瞳が僕をとらえた。途方もなく長い胴体を見せつけるように四足を蠢かせながら、真っ直ぐに空へと駆け昇っていった。
 眩い光の中を、黒龍は優雅に泳ぎ、彼に合わせるように星は輝きを放った。


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