不可侵領域

千木

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 ベッドに丸くなる。食事もとらず、シャワーも浴びずに。香りの薄れた上着を抱きしめたまま、どれくらいの時間が経っただろうか。
 声は出なかった。ただ涙が溢れて止まらなかった。拭うことも面倒だったから、シーツが濡れてしまっている。
 夜はすっかり濃くなっていた。部屋の外の僅かなざわつきも、今は聞こえずにしんとしている。時計の針が歩む音だけが、決まったテンポで響き続けていた。
 今頃、レンは顔も知らぬ女を抱いているのだろうか。
 そう何度も思うたびに、セイは唇を噛んだ。それから、この自問自答の繰り返す時間に苦しんで、やっと理解する。

「(神父様のことが、好きなんだ)」

 遅すぎる答え。初めから、助けてもらった日から。きっと心は惹かれていたに違いないのに、それを認識出来なかったのは【こうなること】がわかっていたから。それゆえに「そんな筈はない」と無意識に遮断していたというのに、一度わかってしまえばもう元には戻ることは出来なかった。
 番を持つことを何より重んじるこの場所で、神父として生きている。それなら、番探しに積極的であるのは当然だった。そして、それはセイが嫌う風習で、男性への嫌悪の理由なのに。
 どうして、彼は違うと思ってしまったのか。
 どうして、彼に惹かれてしまったのか。
 勝手に裏切られたような顔をしている自分が惨めで仕方ないのに、彼のことを嫌悪している部分は確かにあるのに。

「……」

 セイは立ち上がった。雑に涙を拭い、壁に立て掛けた十字架を手に取る。
 ハンガーに掛けて大切にしていた上着を、ベッドに放ったままで、静かに扉を開いた。

「(貴方を、はっきりと嫌えたら良いのに)」

ーー。

 何度見ても生理的嫌悪に鳥肌が立つ。そんな触手を十字架で叩き斬る。何度も何度も、八つ当たりに似た怒りの感情を攻撃に乗せて、身体を触れることを一切許さない気迫で、本体を殴る。びゅっと石を吐いて動かなくなる異形に、とどめの何発かを入れて、石を拾い奥へと進む。

「(早く此処を出ていきたい)」

 いつまでも、彼の姿を見続けるのはきっと苦しいだろう。今夜狩れるだけ、多少無理をしてでも石を回収しようと。もう少し(とは言っても一日二日で貯めるには難しい)量を稼ぐことができれば、ここ最近だけで大幅に増えた貯蓄と合わせて、最低限ではあるが他の街へ移住出来るくらいになる筈だから。正直なところ、安定をとりたいならばまだまだ貯めておきたいところだが、セイはもう本当に此処にいたくはなかった。
 こんな危険な任務にも携わらず、男性に必要以上に劣情を向けられない場所へ。それはずっと前からセイが望み、目標にしていたこと。それが近々叶うというのに、セイの顔は暗い。思考しないように、手を動かす。歩を進める。それでも悲しいくらい思い出しては、また涙が流れた。
 つい最近此処に来た時には、背中を守ってくれた頼もしい人間が、居ない。
 セイは首を振る。元々は一人だったじゃないか。少しだけ、浮かれていただけなのだ。
 弱くなんて、なっていない。

「……」

 茂みが揺れる。触手が飛んでくる。飽きるほどに見たシーン。冷静に十字架を構える。今のセイに、余裕も油断もなかった。そしてそうともなれば、セイがこんな異形などに遅れをとることはないのだ。
 グチャ、と音がする。触手が細切れになって吹き飛び、間合いを詰めて本体を潰す。石を回収して、更に奥へ。
 つまらないルーティン。しかし今、セイに最も必要な行動だった。
 深夜、異形に塗れた森で、涙を流しながら歩を進めるシスターの、なんと惨めたるや。
 誰にも会いたくなかった。早く、早く。

「(出ていきたい)」

 どんどん森が深くなる。木々が月光を遮り、視界が悪い。……それにしたって暗すぎはしないか?セイは空を見上げる。分厚い雲が月も星も覆い隠していた。あまり見ない空模様に、少しだけ驚く。もしかしたら雨が降るのかもしれない。
 それでも、セイは進む。欲しいものを手に入れるために。
 暗闇の先から気配がしたと思うと、ビュッと生ぬるい感触が頬を掠めた。咄嗟に躱したものの、察知が一瞬遅れたことに舌打ちをして、セイは目を凝らす。輪郭がぼんやりとするばかりの視界を、ふと思いついて一度閉じる。それから音と、気配の方へ、十字架を振るう。確かな感触を手に感じた。そのまま木の幹を盾にして、触手をやり過ごして、その方向から木の影に隠れた本体に向けて十字架を突き立てる。足に固いものが当たって、気配は消えた。石を拾い、一息吐く。それから、自嘲。

「貴方は、こうやって戦って……生きていたんですね」

 彼の顔を思い出して、編み出した打開策。皮肉にもそれが功を奏してしまった。また泣きそうになるのを、今度は耐える。
 夜はどんどん更けていき、光は無い。せめて雲が途切れてくれたら良かったが、そんな裂け目はないようだ。
 セイは太い木に背中を預ける。気力のまま進んでいたが、流石に疲労が溜まってしまっていたことを自覚して、一度休息を図る。もちろんその間も気は緩めずに周辺に十分に注意しながら。

「……?」

 少し離れているが、異形と……異形以外の気配を感じて、その方向に目を向ける。人間の気配だ。この広大な森で、他の人間と出会ったことはなかった。特にセイは《男と二人で》という決まりを破っているため、間違っても出くわさないようにルートを考えていたから。
 しかし、なにやら様子がおかしい。悲鳴のような、そんな声がする。いくら男性嫌いとはいえ、危機の迫った人間を無視するほど、セイは無慈悲ではなかった。さほど切羽詰まっていなければ、場合によっては暗闇に乗じて逃げてしまえばいい。そう決めると、セイはゆっくりと声のする方向へ向かった。

「ーー!!」

 なんだあれは。
 咄嗟に息を飲む。
 地面に転がったランプに照らされたのは、身体を拘束された知らぬ顔の神父と、見たことのない大きさの異形だった。大きさだけでない、その強く禍々しい気配に、セイは肩を震わせる。
 あんなものを見たことはなかった。しかし、このままではあの神父はおそらくーー。セイは腹を決めて、木陰から飛び出した。
 触手一本ですら太く、しかし不意をついたお陰か、なんとか神父を縛るものを切り離すことは出来た。咽せながら蹲る神父と異形の間に立ちはだかる。

「ご無事ですか?」
「君は……」
「まだお怪我がないようで何よりです。戦えるでしょうか」
「はっ……?まさか!逃げるに決まってるだろう!勝てるわけない!」
「……は?」

 神父は腰が抜けたようで、しかし手足をじたばたさせて後ずさった。セイは目を向ける。情けない顔が、心許ないランプの光に照らされた。

「ご冗談を言っている場合ではありません。逃げられるとお思いですか。森から出るまでに捕まってしまいます。斃しておかなくては」
「無茶だ!いやだ、怖い!!」
「……」

 話は通じないようだった。想定に無い強さの異形に襲われパニックになってしまったのだろう。しかしこの任務についておきながら、とセイは侮蔑した。それから、二度と神父の方を向かなかった。

「なら貴方だけ、逃げてください。私が足止めをいたしますから」
「……!!」
「戦力にならないならば、逃げてくれた方が都合が良いのです。その代わり、私が此処にいたことはどうぞご内密に」

 転がるような足音が遠ざかる。何度か縺れたらしい音も聞こえた。本当になんの躊躇いもなく自分を置いて逃げていった神父に、セイは溜息を吐く。

「だから男性は嫌いなんですよね」

 そんな男たちと、レンは本当に同じだったのか?同じだと、思いたくはない。彼は、彼ならきっと、同じ立場であったなら。

「(……虚しい)」

 十字架を構える。勝算は正直なかったが、逃げることが出来ないなら立ち向かうしかないのだ。
 触手が勢いよく襲いかかる。避けながら一本一本、確実に叩き斬っていく。地面に落ちた切れ端に足をとられないよう注意して、木の幹に隠れながら、多方向に動く。攻撃の反動が重すぎて、手が痺れるのを必死に耐える。段々と掌が擦り剥けて手元が滑り出した。躱しきれない触手が掠めざまに服を溶かした。それでも、耐える。
 本体を踏み抜いて、思い切り十字架を突き刺す。ぐちゅり、と十字架の先端が食い込んでいく。ばたばたと触手が暴れるのを気にしている余裕はない。とにかく、本体を斃せば終わるのだ。

「……ッ!?」

 一本。本体から触手が現れた。周りで這いずり回っているものより幾分か細い。けれど今のセイは十字架から手を離すことが出来ない。
 突然目の前に現れたそれに、対応する間もなく。それは、セイの口に突っ込まれた。

「ッ!?ぐ、」

 十字架が本体の中心を捉え貫ききったのと、セイの口内に粘液が注ぎ込まれたのは、ほぼ同時だった。
 異形は他より多量の石を撒き散らして力なく沈黙する。それと同じくして、セイの手が十字架から離れ、喉に当てられた。
 咳き込みながら必死に吐き出す。粘着質な液体は口内にも喉奥にも張りついてとれない。地面に白い粘液がぼたぼたと落ちる。
 気持ち悪い。気持ち悪い。
 飲み込んでしまった。空っぽの胃が押し返す。
 膝を崩す。視界が歪む。口から、喉から意に反した熱が身体を蝕み始める。

「(いや、……嫌、)」

 女性は異形の粘液を、体内に入れてはならない。
 強い媚薬の効果があるから。
 意識が奪われて、見境がなくなってしまうから。
 そんなふざけた注意事項が頭の片隅に浮かんですぐに消えた。

「(……神父様、)」

 セイの意識は混濁していく。
 蹲った彼女の背に、水の粒が落ちてきた。
 
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