不可侵領域

千木

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 レンは一人、暗闇を進む。早足で、曇天の下、多少の焦りを包帯の裏に浮かべながら。
 主任の用意した見知らぬ女性を抱き、番の印が出ないことを確認すると、すぐさま行為を終わらせた。主任の息がかかった、教会の中でも立場が高いレンの番になれば、自分の地位も上がる。そんな下心が言外に隠せない女性たちを、何人抱いたのだろう。愛なく、使い捨てるように。それが同意の上であっても、レンにとって気持ちの良いものではなかった。
 きっと女性に罪はない。この立場が、場所が悪いのだ。それでもこうも強制的に、何度も機械的に行為を繰り返していれば、嫌悪を抱かずにはいられなくなってしまった。番なら、そもそも性行為を無しにしてもなんとなく惹かれ合う筈で、性行為は生殖を伴わないなら愛情を伝えるものの筈で。しかし此処では、それは運命の相手を見つけるための、「最も手っ取り早い手段」に成り下がってしまっている。
 障害を持つ自分を育ててくれた恩を返さねばいけない。そんな名目で従い続けている自分が嫌だった。結局はそれを理由にしてこの生活に妥協し、諦めているだけだったから。そんな自分の未来など、切り開く価値を見出せなかった。
 そんな自分と、この場所と。明らかにセイは違っていた。
 初めて会った時から、他より一際声の綺麗な女性だと思っていた。偶然助けて、ふんわりと彼女から香った匂いに惹かれて頬に触れた。彼女が男性嫌いなことは、同僚たちの品の無い噂で知っていた。だから正直、何の気なしに触れてしまったことを詫びようと思った。
 けれど彼女は、再び自分に声を掛けてくれた。話すたびに、行動を共にするたびに……彼女を知るたびに、彼女に惹かれていく自分に、レンはずっと早く気づいていた。そして、すぐにそれを伝えることはないと諦めた。自分が嫌々でも番探しをしていることは、彼女に許容される筈もなかったから。
 空気が凍りついたあの時。どうして彼女の前で言ってしまうのだと、主任に殴りかかってでも止めたかった。しかしもちろん出来なかった。保身を優先した。結果、彼女は拒絶を言葉に乗せて去ってしまった。
 
「……」

 自室に帰ろうとして、セイの外出札が表を向いていることに気がついた。一人で任務に向かったのだろう。自分に資格が無いことはわかっているが、どうしても心配になって。身支度を済ませて森へと向かった。
 いつも彼女が使っていたルートを、灰になりきらずまだ遺っていた異形の欠片を足がかりに進んでいく。一人で進むには明らかに危険な奥地。もし彼女に何かあったら。考えるだけで背筋が凍る。たとえ彼女がその辺の神父より強いとしても、それは安心材料になりえない。
 ガサリと音がした。咄嗟に振り向いて銃を構える。しかしその気配は異形でもセイでもなかった。

「レン、レンか!?助かった!」
「君は……」

 誰だったか。名前は思い出せないが聞き覚えのある声だった。任務に携わる同僚だ。レンが名を呼ばないことなど気にすることもなく、同僚の神父は早口で捲し立てる。

「強い異形にあたって、からがら逃げてきたところなんだが、道に迷ってしまって……教会は向こうか!?」
「そうだけれど、コンパスはどうしたの?」
「襲われた時にランプと一緒に落としてしまったんだよ……あぁ助かった。死ぬかと思ったんだ。あのシスターが助けてくれなかったら、今頃俺は……」
「待って。シスターが助けてくれたなら、彼女は何処?」

 安堵からかやたらと饒舌な同僚の言葉を、強めな口調で遮る。そんな強い異形に立ち向かう勇気を持ち、奥に進めるシスターなど、レンの知る限り一人しかいない。すると同僚は思い出したようにあたふたとし始めた。レンの顔にうっすらと苛立ちが浮かぶ。

「まさか……彼女を置いて逃げてきたの?」
「仕方ないじゃないか!あんな異形に勝てる筈がないのに、彼女は立ち向かうと言ったんだ!!だから俺は……」
「………。情けない。女性を置いて一人で逃げ果せるなんて」

 レンが冷たい口調でそう言い放つと、同僚は口を噤んだ。それから大きく溜息を吐いて、レンは彼の肩を強く掴み、顔を近づける。

「どの方向から君は森に入ったの。此処まで体感でいい、何分走ったの。それを教えて。でなければ、君のその失態を上に伝えるよ」
「ッ!!ま、待て、思い出すから……」
「早く」

 普段穏やかで優しいレンの、聞いたことのない責めるような口調に同僚はあからさまに萎縮し、必死に頭を回す。それからしどろもどろに、しかし出来る限り正確に伝えた。……でなければ、肩に当たる黒い暴力を向けてきそうな圧を感じていたのだ。間違いないかと念を押すレンに、何度も頷く。するとようやく、彼の身体は解放された。

「……俺の後ろをずっと行けば、森を抜ける。早く行きなさい」

 同僚は何も言わずに立ち去る。それを確認する間もなく、レンは再び歩き出した。
 明らかに、彼女に危機が迫っている。それは焦燥となりレンの歩を早めた。目が見えないことをこれほどはっきり後悔したのはいつぶりだろうか。方向を見失わないように、時々ポケットにあるコンパスに触れた。目の見えないレンの為の、微弱な磁力で触覚的に方向を教えてくれる代物。異形を撃ち抜きながら、セイの名を呼びながら、レンは進んでいく。
 見つけられないかもしれない。手遅れかもしれない。自分がついていたら、と唇を噛んだ。それでも、諦めるわけにはいかなかった。
 やがて、ぽつりと水が落ちてきた。それはあまり時間をかけずに数を増やし、静かな雨となる。レンの焦りはより濃くなっていく。雨音に掻き消されないように、少し声を張る。

「ーー」
「……!」

 レンは立ち止まった。声というよりは、息遣いのようなものが聞こえた気がした。集中して、方向を見極める。セイのものであれと祈って、ゆっくり進む。
 足元にぐちゃりと嫌な感触があった。異形のものとわかり、乱暴にはらう。踏むと足が沈む感覚で、触手の太さを認知する。これが同僚の言っていた異形ではないか。レンは耳を澄ます。

「ッ、……っ、」

 弱った気配があった。地面に近いところで、荒い息が聞こえる。蹲っている。名を呼ぶと、ピクリと反応した目の前の気配に駆け寄った。水溜りが撥ねる。

「セイ!大丈夫……」

 そう言って伸ばした手を、セイは振り払う。息遣いが明らかにおかしい。怪我をしているのだろうか。血の匂いはしないが、とにかく拒絶を繰り返すセイの手首を、半ば無理矢理掴んだ。

「俺が嫌なのはわかる。けれど、今はーー」

 そこまで言って、レンは気づいた。セイが纏う心地の良い香りを、独特な匂いが遮っている。それは、とても嫌な匂い。身体に纏わりつかれただけでは、雨に濡れた彼女からする筈がない匂い。

「まさか、セイ、」

 片手を掴んだまま、もう片方の指を彼女の口に無理やり突っ込んで開かせる。苦しそうな息に、強く明瞭になった匂いがねっとりと纏わりついている。そしてそれを、レンが知らない筈がない。

「君、異形の粘液を……!」

 不意に、セイがレンに抱きついた。咄嗟に手を引いている間に、身体を密着される。薄い布越しに、柔らかな感触と熱が伝わってくる。首に回された腕を離そうとしても、セイは力を込めるばかりだった。
 甘い息が耳元で溢れ続けている。好いた女性の、この状態など、正直耐えるのは難しい。レンは息を飲む。近い距離の二人に、雨が降る。
 
「……駄目だ」

 奥歯を噛んで、本能を理性で押し殺す。レンは本気でセイを引き剥がした。すぐにまた身体を求めようとする彼女を、手早く脱いだ上着で頭から包み、その上から強く抱き締めた。一縷の望みにかけて。

「ッ、……、」
「大丈夫。……大丈夫だよ。セイ。苦しいね。……息を吸って、吐いて。少しずつでも良い。出来るだけ深く呼吸をして。そうすれば、きっと」

 粘液を飲んだ女性への対処法として、【落ち着く匂いを嗅がせること】があるのをレンは思い出していた。快楽や性欲を強引に高められた神経を、著しく落ち着かせることが出来れば。この状態の女性を、大抵は据え膳として抱いて鎮めるため、こんな信憑性の薄い方法を使うことは殆どないだろうが、今のレンにはこれしかなかった。もしこれが駄目ならば、……彼女の望まないことをすることになってしまう。レンは強く強く、ふるふると震える小さな肩を抱き締める。優しく声を掛けながら、自身の本能と戦いながら。

「……」

 身体を擦りつけていたセイの動きが、ゆっくりと静まっていく。縋るように服を掴んでいた手の力が抜けて、そっと裾をつまむのみになる。呼吸が次第に落ち着いていき、それから……。

「神父、様、」
「大丈夫、……君は強かった。だから大丈夫。……このまま俺に、任せて」
「……、………」

 声が届いたのだろうか。セイの身体がぐらりと傾き、力を失う。気絶してしまった彼女を抱き上げ、レンは立ち上がった。

「(粘液を飲んだ女性は、性欲に支配される。それでも必死に抗っていた君を穢すことにならなくて、……良かった)」

 匂いについて、やたらと狼狽えたあの時。「むしろ逆で、」と言った彼女にとって、自分の匂いは何かしら惹かれるものがあったのではないかと。レン自身がそうだったように。思い出すことが出来て、その偶然に感謝する。

「(番は、お互いの匂いに惹かれると聞いたことがあるけれど。……まさかね)」

 そこまで上手い話はないだろう。それより、とレンは思考を切り替えた。それから座標を確認する。僅かに奥から水の音がする。雨音とは違う、もっと質量の多い水が落ちる音。本当に深くまで来たものだ、とレンはその方向へ進む。
 異形は灰となり、雨にも溶けずに消えていく。二人の姿は暗闇に吸い込まれていき、その場には何も残らなかった。
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