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第一章
アパートメント
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殿下の所有するアパートメントは王都の高級住宅街にある。
ここ一月ほど、殿下の身近で過して気づいたのは、殿下はほとんど、王宮には帰らない、ということだった。いちいち出入りに衛兵が立っていて面倒くさいし、設備も古くて不便なのだそうだ。基本的な生活拠点は、王都の郊外に持つ邸宅に置いていて、ただ陸軍司令としての仕事や、王都での遊びには郊外の邸はやや遠いので、中心部の高級アパートメントを一軒、購入したのだという。
アパートメントと言っても最上階のワンフロア丸ごとだから、わたしの王都の家よりも、広い。――もともと、あの家は母が賃貸による収益を上げるために持っていた、庶民用の住宅だから、それほど広くないのだけれど。
アパートメントにはもう、何度も通っている。――殿下の間諜ごっこに付き合うための、着替えの場所として。
専用のエレベーターを降り、ロベルトさんが先に立って玄関の豪華なドアを開けると、ここの執事の、アンダーソンさんが出迎えてくれた。
「お待ちしておりました、ミス・アシュバートン」
アンダーソンさんは三十歳くらいで、殿下が前線に出ていた時もずっと従っていた従僕で、半ば「執事見習い」も兼ねてこのアパートメントの管理を任されている。
「今日は殿下は王宮に呼ばれていて遅くなる。だからアシュバートン嬢には部屋で夕食を出して、先に寝んでもらうよう、言われている」
ロベルトさんがアンダーソンさんに言えば、アンダーソンさんは心得たように頷いた。
「承知しました。お部屋の用意はすでにできております。万事はノーラが心得ておりますので」
「じゃあ、頼んだよ、俺はこの後、殿下のもとに戻るから」
ロベルトさんは玄関ホールでわたしの鞄をアンダーソンさんに託し、出て行った。疲労と衝撃で頭が働かないわたしは、額縁を抱きしめたまま、茫然と見送る。
「レディ、お部屋にご案内いたしましょう……そちらの、お荷物もお持ちいたします」
「え、ええっ……は、はい、お世話になります、アンダーソンさん。これは自分で持っていけます」
「ジュリアンとお呼びください。殿下は堅苦しいのはお嫌いでして」
「はあ。……でも……」
アンダーソンさんはあくまで殿下の使用人であって、わたしが呼び捨てにしていいとは思えなかった。
「せめてアンダーソン、と呼び捨てに。ミスターは不要です。殿下のお耳に入ったら、私が叱られてしまいます」
「……苗字呼び捨てと、名前呼び捨てだったら、名前の方がマシですか?」
「まあ、親しみは感じますよね。というわけで、ジュリアン、です」
ジュリアンは茶色い瞳をくるっといたずらっぽく動かし、念を押した。わたしの知る執事は、リンドホルムの城にいたアーチャーと、王都の家のジョンソン――ジョンソンはもともと、祖母の執事だ――だけで、どちらもそこそこの年配だったから、若いジュリアンにはやや違和感がある。でも、よく考えたらアーチャーもジョンソンも、昔から年を取っていたわけじゃない。いずれジュリアンも貫禄のある執事になるのだろうか。
通された部屋はいつも、着替えに使わせてもらっている部屋だった。出迎えたメイドのノーラが、普段は閉じている、奥に部屋に繋がるドアも開ける。ジュリアンが先に立って入り、クローゼットの前にわたしの鞄を置いた。ゆったり広い寝室で、天蓋のついた豪華な寝台が部屋の中央に鎮座しているのを見て、わたしはギクリと足を止めた。
わたしはどうしようもないくらい世間知らずだが、殿下がわたしに期待している特別業務が、寝台と関わるものであるのは、薄っすら理解している。だから正直に言えば寝台が怖い。でも寝台が無ければ眠ることもできないわけで――。
……もっと小さくてみすぼらしい寝台だったら、無駄に意識しなくて済んだのに――。
「ご夕食はこちらにお運びしますね。その額縁は明日にでもお好みの場所に飾ります。今はどこか、チェストの上にでも置いておいて下さい。……では、ご用がありましたら、なんなりとお申し付けください」
ジュリアンが一礼して下がり、わたしが額縁を暖炉の上の棚に立てかけていると、ノーラが声をかけてきた。
「先に入浴なさいます? お部屋でのお食事ですから、気軽な服装で構わないと思いますし」
「ええっと……一人で食べるから、寝間着のようなのでも構わないのかしら」
ノーラは三十前くらいの、そばかすのある気さくな女性で、微笑んで肩を竦めた。
「殿下と御一緒のお食事でしたら、寝間着にガウン、ってわけにもまいりませんが、本日はお一人ですし、何より、お疲れのようですから。……実を申しますと、夕食もありあわせの材料しかなくて、わりとアッサリ目なんです。殿下はこの家ではほとんど夕食を召し上がらないので、いつもはあたしたち使用人だけなんです。しっかりしたものがご希望でしたら、明日からはご用意できますけど」
わたしは慌てて首を振る。
「い、いいえ。アッサリ目で、……というか、皆さんと同じもので十二分ですので、お気遣いなく」
わたしはノーラのお薦めに従い、先に入浴を済ませ、モスリンの薄い寝間着を着て、その上に薄紫色の、絹のガウンを羽織った。――東洋のキモノをそのままガウンとして着るのが、この節の上流階級の流行で、実は昔、わたしの母も赤いキモノを持っていた。
そのキモノは薄紫色で上半身は胸と四角い袖に丸い文様――どうやら家の紋章らしい――が白く抜き染めてあるだけだが、裾にかけて極めて精緻な草花の模様が描かれている。露を含んだ先の尖った草と、紫色の桔梗に白く細かい花模様、草の影には愛らしい小鳥までいて、豪華なだけでなく美しく愛らしい意匠だ。
わたしが慣れないキモノのガウンを着て椅子に腰かけると、ノーラは鏡を設置して、入浴後の肌の手入れをし、髪を梳る。亜麻色の髪を簡単にまとめてもらい、人心地ついたところにドアをノックされて、中年のふくよかな女性がワゴンで食事を運んできた。
「お食事をお持ちいたしました、レディ?」
「えーっと、エルスペス・アシュバートンです。しばらくお世話になります」
「アンナ・アンダーソンと申します。そこのノーラと、執事のジュリアンの母ですの。特にお嫌いなものはないと伺っておりますけれど、食べたいものがございましたら、なんなりと仰ってください」
ジュリアンとノーラの母親と聞いて、わたしはビックリする。
「普通、王族の方はあたしたちのような、ざっくばらんな使用人は雇わないんですが、殿下は畏まったのがお嫌いらしくて」
ノーラが片目をつぶってみせる。
「ジュリアンが戦地から帰りましてね、こちらのアパートメントを親子で管理してくれと申し付けられたんでございますよ」
アンダーソン夫人も笑う。ふっくらした頬にえくぼが浮かび、さらに優し気な表情になる。
「あ、あたしは結婚しているので、通いなんです。すぐ、近くなんですけどね」
ノーラが言い、母親と二人がかりで料理をテーブルに並べる。デミグラスソースのシチューとマッシュポテト、ピクルスとパン、それからデザートのプディング。アッサリ目という話だったけれど、疲れて食欲のないわたしには、これでも多いくらいだった。
食事を終えて、わたしはアンダーソン夫人が淹れてくれたホットミルクを飲み、早々にベッドに入った。
今日一日で、軽く一か月分くらいの出来事があったような疲労感。不安ばかりが募るが、せめて今だけは、何も考えないで眠りたかった。
――おばあ様、大丈夫なのかしら。郊外の療養院に動かせる程度には、回復したのかしら。明日はロベルトさんがお見舞いに連れて行ってくれると言っていた。そうしたら――
普段の半ば綿の潰れたような寝具と違い、上等な寝具に身を横たえていると、猛烈な眠気が襲ってきて、わたしはうとうととしていた。
遠くで、物音がしたような気がしたけれど、わたしの瞼は重くて、泥沼のような眠りの中に吸い込まれていった。
ここ一月ほど、殿下の身近で過して気づいたのは、殿下はほとんど、王宮には帰らない、ということだった。いちいち出入りに衛兵が立っていて面倒くさいし、設備も古くて不便なのだそうだ。基本的な生活拠点は、王都の郊外に持つ邸宅に置いていて、ただ陸軍司令としての仕事や、王都での遊びには郊外の邸はやや遠いので、中心部の高級アパートメントを一軒、購入したのだという。
アパートメントと言っても最上階のワンフロア丸ごとだから、わたしの王都の家よりも、広い。――もともと、あの家は母が賃貸による収益を上げるために持っていた、庶民用の住宅だから、それほど広くないのだけれど。
アパートメントにはもう、何度も通っている。――殿下の間諜ごっこに付き合うための、着替えの場所として。
専用のエレベーターを降り、ロベルトさんが先に立って玄関の豪華なドアを開けると、ここの執事の、アンダーソンさんが出迎えてくれた。
「お待ちしておりました、ミス・アシュバートン」
アンダーソンさんは三十歳くらいで、殿下が前線に出ていた時もずっと従っていた従僕で、半ば「執事見習い」も兼ねてこのアパートメントの管理を任されている。
「今日は殿下は王宮に呼ばれていて遅くなる。だからアシュバートン嬢には部屋で夕食を出して、先に寝んでもらうよう、言われている」
ロベルトさんがアンダーソンさんに言えば、アンダーソンさんは心得たように頷いた。
「承知しました。お部屋の用意はすでにできております。万事はノーラが心得ておりますので」
「じゃあ、頼んだよ、俺はこの後、殿下のもとに戻るから」
ロベルトさんは玄関ホールでわたしの鞄をアンダーソンさんに託し、出て行った。疲労と衝撃で頭が働かないわたしは、額縁を抱きしめたまま、茫然と見送る。
「レディ、お部屋にご案内いたしましょう……そちらの、お荷物もお持ちいたします」
「え、ええっ……は、はい、お世話になります、アンダーソンさん。これは自分で持っていけます」
「ジュリアンとお呼びください。殿下は堅苦しいのはお嫌いでして」
「はあ。……でも……」
アンダーソンさんはあくまで殿下の使用人であって、わたしが呼び捨てにしていいとは思えなかった。
「せめてアンダーソン、と呼び捨てに。ミスターは不要です。殿下のお耳に入ったら、私が叱られてしまいます」
「……苗字呼び捨てと、名前呼び捨てだったら、名前の方がマシですか?」
「まあ、親しみは感じますよね。というわけで、ジュリアン、です」
ジュリアンは茶色い瞳をくるっといたずらっぽく動かし、念を押した。わたしの知る執事は、リンドホルムの城にいたアーチャーと、王都の家のジョンソン――ジョンソンはもともと、祖母の執事だ――だけで、どちらもそこそこの年配だったから、若いジュリアンにはやや違和感がある。でも、よく考えたらアーチャーもジョンソンも、昔から年を取っていたわけじゃない。いずれジュリアンも貫禄のある執事になるのだろうか。
通された部屋はいつも、着替えに使わせてもらっている部屋だった。出迎えたメイドのノーラが、普段は閉じている、奥に部屋に繋がるドアも開ける。ジュリアンが先に立って入り、クローゼットの前にわたしの鞄を置いた。ゆったり広い寝室で、天蓋のついた豪華な寝台が部屋の中央に鎮座しているのを見て、わたしはギクリと足を止めた。
わたしはどうしようもないくらい世間知らずだが、殿下がわたしに期待している特別業務が、寝台と関わるものであるのは、薄っすら理解している。だから正直に言えば寝台が怖い。でも寝台が無ければ眠ることもできないわけで――。
……もっと小さくてみすぼらしい寝台だったら、無駄に意識しなくて済んだのに――。
「ご夕食はこちらにお運びしますね。その額縁は明日にでもお好みの場所に飾ります。今はどこか、チェストの上にでも置いておいて下さい。……では、ご用がありましたら、なんなりとお申し付けください」
ジュリアンが一礼して下がり、わたしが額縁を暖炉の上の棚に立てかけていると、ノーラが声をかけてきた。
「先に入浴なさいます? お部屋でのお食事ですから、気軽な服装で構わないと思いますし」
「ええっと……一人で食べるから、寝間着のようなのでも構わないのかしら」
ノーラは三十前くらいの、そばかすのある気さくな女性で、微笑んで肩を竦めた。
「殿下と御一緒のお食事でしたら、寝間着にガウン、ってわけにもまいりませんが、本日はお一人ですし、何より、お疲れのようですから。……実を申しますと、夕食もありあわせの材料しかなくて、わりとアッサリ目なんです。殿下はこの家ではほとんど夕食を召し上がらないので、いつもはあたしたち使用人だけなんです。しっかりしたものがご希望でしたら、明日からはご用意できますけど」
わたしは慌てて首を振る。
「い、いいえ。アッサリ目で、……というか、皆さんと同じもので十二分ですので、お気遣いなく」
わたしはノーラのお薦めに従い、先に入浴を済ませ、モスリンの薄い寝間着を着て、その上に薄紫色の、絹のガウンを羽織った。――東洋のキモノをそのままガウンとして着るのが、この節の上流階級の流行で、実は昔、わたしの母も赤いキモノを持っていた。
そのキモノは薄紫色で上半身は胸と四角い袖に丸い文様――どうやら家の紋章らしい――が白く抜き染めてあるだけだが、裾にかけて極めて精緻な草花の模様が描かれている。露を含んだ先の尖った草と、紫色の桔梗に白く細かい花模様、草の影には愛らしい小鳥までいて、豪華なだけでなく美しく愛らしい意匠だ。
わたしが慣れないキモノのガウンを着て椅子に腰かけると、ノーラは鏡を設置して、入浴後の肌の手入れをし、髪を梳る。亜麻色の髪を簡単にまとめてもらい、人心地ついたところにドアをノックされて、中年のふくよかな女性がワゴンで食事を運んできた。
「お食事をお持ちいたしました、レディ?」
「えーっと、エルスペス・アシュバートンです。しばらくお世話になります」
「アンナ・アンダーソンと申します。そこのノーラと、執事のジュリアンの母ですの。特にお嫌いなものはないと伺っておりますけれど、食べたいものがございましたら、なんなりと仰ってください」
ジュリアンとノーラの母親と聞いて、わたしはビックリする。
「普通、王族の方はあたしたちのような、ざっくばらんな使用人は雇わないんですが、殿下は畏まったのがお嫌いらしくて」
ノーラが片目をつぶってみせる。
「ジュリアンが戦地から帰りましてね、こちらのアパートメントを親子で管理してくれと申し付けられたんでございますよ」
アンダーソン夫人も笑う。ふっくらした頬にえくぼが浮かび、さらに優し気な表情になる。
「あ、あたしは結婚しているので、通いなんです。すぐ、近くなんですけどね」
ノーラが言い、母親と二人がかりで料理をテーブルに並べる。デミグラスソースのシチューとマッシュポテト、ピクルスとパン、それからデザートのプディング。アッサリ目という話だったけれど、疲れて食欲のないわたしには、これでも多いくらいだった。
食事を終えて、わたしはアンダーソン夫人が淹れてくれたホットミルクを飲み、早々にベッドに入った。
今日一日で、軽く一か月分くらいの出来事があったような疲労感。不安ばかりが募るが、せめて今だけは、何も考えないで眠りたかった。
――おばあ様、大丈夫なのかしら。郊外の療養院に動かせる程度には、回復したのかしら。明日はロベルトさんがお見舞いに連れて行ってくれると言っていた。そうしたら――
普段の半ば綿の潰れたような寝具と違い、上等な寝具に身を横たえていると、猛烈な眠気が襲ってきて、わたしはうとうととしていた。
遠くで、物音がしたような気がしたけれど、わたしの瞼は重くて、泥沼のような眠りの中に吸い込まれていった。
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