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二十三、替身
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一月の末に少し遅れていた月の障りが訪れ、密かに期待していたらしい馬婆や王婆の落胆ぶりに、わたしも少し申し訳ない気分になる。そんな時に陛下からの先触れが来たので、わたしは内侍を使者にして、お断りを入れた。
だが、陛下は来ると仰る。
――それはどういうことなの。
後宮入りして三か月。後宮は秘密が多いわりに、なぜかすべてが筒抜けになっていたりする。
わたしに月の障りがあった――つまり妊娠していない――ことは、どこかから他の妃嬪の宮にも漏れているかもしれない。それなのに陛下のお渡りを受けるというのは、あらぬ批判を呼ぶだけのこと。
「……今度ばかりは何とかお断りできないかしら? いらっしゃっても閨のお勤めはできないし」
「内侍監の劉様も止めてくださったそうですが、どうしてもと。話をして帰るだけだからと仰って」
「でもきっと余計なことを言われるでしょうね……」
お渡りが続いたことで、趙淑妃や高昭容だけでなく、穏和なことで知られる韓充儀からさえ、嫌味っぽい使者がやってきた。
――表向きは皆、ご寵愛の深さを歓び、懐妊を願うという名目だったけれど、真逆のことを考えているのはわたしにもわかる。
「困ったわ……」
わたしは無意識に、裙の下のお腹を押さえる。
わたしはそれほど月の障りの重い方ではないが、今回は少し辛い……と思った時に、ふっと視界が暗くなってわたしはその場に倒れ込んでしまった。
「娘娘? 娘娘!」
馬婆の声がやけに遠くに聞こえて――
「すまなかった。朕が気づかなかったばかりに、余計な重圧をかけてしまったらしい」
陛下に詫びられて、わたしこそ申し訳なくて俯いてしまう。
「申し訳――」
「詩阿が謝る必要はない」
陛下はわたしの手を取ると、それを愛おしそうに口元に当て、沈痛な表情で仰った。
「朕はどうも、自分の気持ちばかりを押し付けていたようだ。皇帝であることを忘れ、普通の男のように振る舞おうとした。その負担はそなたにかかっていたのに、気づかなかった」
「陛下……」
陛下がわたしの手を自分の頬に当て、まっすぐに覗き込んでくる。
「数日、安静にすればいいと、太医は申しておった。――そなたが休んでいる間に、朕は、自らの責任を果たそうと思う」
意味がわからずにただ微笑めば、陛下は顔を近づけてわたしの頬に口付けた。
「だがこれだけはわかって欲しい。愛しているのはそなただけだ。お世辞でもないし、俺の気持ちに嘘偽りはない」
わたしはハッとして陛下を見た。陛下の黒い瞳が悲し気な色を湛えている。
「また、そなたが回復したころに参ろう」
――数日後、陛下が高昭容の元にお通いになった、との報せを(聞いてもいないのに)薛美人がもたらした。
正直に言えば、わたしはホッとしていた。
陛下がわたしの元にだけ通っておられた時の、後宮での空気には殺意すら感じた。他の人のところにも通われたせいで、少しはマシになると、わたしは胸を撫でおろす。
他の女と夫を共有する。――普通の家庭に嫁いでいたら、到底、耐えがたい裏切りと感じたかもしれないが、わたしは陛下を「夫」や「家族」だと認識できていなかった。いや、認識しないようにしていた。
だってあの方は皇帝陛下だもの。もともと、わたしとは釣り合わない雲の上の人。最初から独り占めしたいなんて、考えたこともなかった。
一天万乗の君の愛は、一人で受け止めるには重すぎる――
「でも趙淑妃の方がカンカンですって」
「また?」
薛美人の噂話に、わたしは思わず聞き返してしまった。
「序列がおかしいって! 結局、自分のところに来ないから怒っているだけですわよ」
薛美人がコロコロと笑うが、わたしは眉を顰めていた。
劉侍郎への告げ口の件もあって、陛下はおそらく、趙淑妃に含むところがあって、ワザと順番を飛ばしたのだ。
「それに陛下も、用が済んだら、夜の内にお帰りになったそうですわ」
「そう……お忙しいのね」
そこへ使者の到来が知らされる。
「皇上のお使者、廉公公でございます」(*公公は宦官に対する敬称)
入ってきたのはまだ若い宦官の、廉公公だった。
この人は元宵の時も灯篭を提げてついてきていた。一番の側近らしい。
廉公公はわたしに恭しく頭を下げた後、薛美人にも丁寧にお辞儀する。
「皇上が今宵こちらにご訪問なさいます。これは南方より届きましたもので、娘娘にと」
捧げてきたものは、南方わたりの珊瑚と真珠のついた透かし彫りの金の笄と鼈甲の櫛、それとお茶の葉だった。
わたしは櫛と笄は一瞥して箱を閉じ、茶葉の方の開けて言った。
「いい匂い。……せっかくだから今、いただいても?」
「でしたら奴才がお淹れいたします」
廉公公が言い、薛美人が恐縮する。
「でも、わたしなどが――」
「せっかく陛下にいただいたんですもの。いつも仲良くしてくださる方と飲みたいわ」
馬婆の指示で王婆がお湯とお茶道具を運んできて、受け取った廉公公が優雅な手つきでお茶を淹れる。
甘く清新で馥郁とした香りが広がる。
「素晴らしい香り……さすが陛下からのご下賜品ですわ! わたくし、みんなに自慢しなくっちゃ!」
大げさに騒ぐ薛美人に苦笑しながら、わたしはお茶を一口頂いて、廉公公に言った。
「とても美味しいです。陛下にもよくよくお礼申し上げてくださいませ」
「承知いたしました」
ではまた後程、と廉公公は一礼して戻っていく。
その背中を何気なく見送っていたわたしの耳元で、薛美人が言った。
「中宮様……ちょっと小耳にはさんだのですけれど」
「なあに?」
薛美人が黒い瞳でじっとわたしを見る、その視線に妙な必死さがあった。
「今回の、高昭容へのお渡り、中宮様に障りがあったせいだとか」
「……さあ。障りがあったのは確かですが、もともとその予定だったかもしれませんし、わたしは何とも」
「次の障りの時には推薦していただけませんか?」
「え?」
何を言うのかと、思わず薛美人をまじまじと見た。
「……昔から、障りのために身近なものをお薦めするのはよくあることなんです。わたし、中宮様にはよく仕えていると思いません?」
何を言い出すのかとギョッとして、わたしは息を飲んだ。
――薛美人は三度ほどお召に与ったが、その後は途絶えてもう、一年になるとか――
「その……そんなこと言われても……」
動揺するわたしに、薛美人が畳みかける。
「けして、中宮様と寵を競おうなんて、大それたことは考えておりません。ですが……わたし……」
薛美人が睫毛を伏せる。
「陛下をお慕いしておりますの……中宮様もお分かりになりますでしょ? 陛下との夜が忘れられませんの。……たとえ、中宮様の身代わりでも構いません。せめてもう一度だけでも、お情けをいただきたい」
真剣な目で見つめられて、わたしはゴクリと唾を飲み込んだ。
もしやこの人は最初からそのつもりで、わたしに取り入ったの――?
驚愕して声も出せないわたしに、薛美人は切々と真情を吐露する。
「……三度、お情けをいただいて……陛下は冷たい方と聞いておりましたが、わたしは優しい方と思いました。とにかく夢のような時間で、わたしは陛下のことが――」
そんな話をされて、ズキリと胸が痛む。
――どうして? 趙淑妃にも、高昭容にも、こんな気持ちになったことはないのに。わたしは――
わたしは大きく息を吸いこむと、気を落ち着かせるようにお茶をもう一口飲み、言った。
「……約束は、できません。陛下はその……少し気難しいところがあって。お渡り先に口を出すと、お怒りを買うかもしれません」
「でも、もし機会があったら、お願いします!」
薛美人の必死の形相に、わたしはもう、それ以上何も言えなかった。
だが、陛下は来ると仰る。
――それはどういうことなの。
後宮入りして三か月。後宮は秘密が多いわりに、なぜかすべてが筒抜けになっていたりする。
わたしに月の障りがあった――つまり妊娠していない――ことは、どこかから他の妃嬪の宮にも漏れているかもしれない。それなのに陛下のお渡りを受けるというのは、あらぬ批判を呼ぶだけのこと。
「……今度ばかりは何とかお断りできないかしら? いらっしゃっても閨のお勤めはできないし」
「内侍監の劉様も止めてくださったそうですが、どうしてもと。話をして帰るだけだからと仰って」
「でもきっと余計なことを言われるでしょうね……」
お渡りが続いたことで、趙淑妃や高昭容だけでなく、穏和なことで知られる韓充儀からさえ、嫌味っぽい使者がやってきた。
――表向きは皆、ご寵愛の深さを歓び、懐妊を願うという名目だったけれど、真逆のことを考えているのはわたしにもわかる。
「困ったわ……」
わたしは無意識に、裙の下のお腹を押さえる。
わたしはそれほど月の障りの重い方ではないが、今回は少し辛い……と思った時に、ふっと視界が暗くなってわたしはその場に倒れ込んでしまった。
「娘娘? 娘娘!」
馬婆の声がやけに遠くに聞こえて――
「すまなかった。朕が気づかなかったばかりに、余計な重圧をかけてしまったらしい」
陛下に詫びられて、わたしこそ申し訳なくて俯いてしまう。
「申し訳――」
「詩阿が謝る必要はない」
陛下はわたしの手を取ると、それを愛おしそうに口元に当て、沈痛な表情で仰った。
「朕はどうも、自分の気持ちばかりを押し付けていたようだ。皇帝であることを忘れ、普通の男のように振る舞おうとした。その負担はそなたにかかっていたのに、気づかなかった」
「陛下……」
陛下がわたしの手を自分の頬に当て、まっすぐに覗き込んでくる。
「数日、安静にすればいいと、太医は申しておった。――そなたが休んでいる間に、朕は、自らの責任を果たそうと思う」
意味がわからずにただ微笑めば、陛下は顔を近づけてわたしの頬に口付けた。
「だがこれだけはわかって欲しい。愛しているのはそなただけだ。お世辞でもないし、俺の気持ちに嘘偽りはない」
わたしはハッとして陛下を見た。陛下の黒い瞳が悲し気な色を湛えている。
「また、そなたが回復したころに参ろう」
――数日後、陛下が高昭容の元にお通いになった、との報せを(聞いてもいないのに)薛美人がもたらした。
正直に言えば、わたしはホッとしていた。
陛下がわたしの元にだけ通っておられた時の、後宮での空気には殺意すら感じた。他の人のところにも通われたせいで、少しはマシになると、わたしは胸を撫でおろす。
他の女と夫を共有する。――普通の家庭に嫁いでいたら、到底、耐えがたい裏切りと感じたかもしれないが、わたしは陛下を「夫」や「家族」だと認識できていなかった。いや、認識しないようにしていた。
だってあの方は皇帝陛下だもの。もともと、わたしとは釣り合わない雲の上の人。最初から独り占めしたいなんて、考えたこともなかった。
一天万乗の君の愛は、一人で受け止めるには重すぎる――
「でも趙淑妃の方がカンカンですって」
「また?」
薛美人の噂話に、わたしは思わず聞き返してしまった。
「序列がおかしいって! 結局、自分のところに来ないから怒っているだけですわよ」
薛美人がコロコロと笑うが、わたしは眉を顰めていた。
劉侍郎への告げ口の件もあって、陛下はおそらく、趙淑妃に含むところがあって、ワザと順番を飛ばしたのだ。
「それに陛下も、用が済んだら、夜の内にお帰りになったそうですわ」
「そう……お忙しいのね」
そこへ使者の到来が知らされる。
「皇上のお使者、廉公公でございます」(*公公は宦官に対する敬称)
入ってきたのはまだ若い宦官の、廉公公だった。
この人は元宵の時も灯篭を提げてついてきていた。一番の側近らしい。
廉公公はわたしに恭しく頭を下げた後、薛美人にも丁寧にお辞儀する。
「皇上が今宵こちらにご訪問なさいます。これは南方より届きましたもので、娘娘にと」
捧げてきたものは、南方わたりの珊瑚と真珠のついた透かし彫りの金の笄と鼈甲の櫛、それとお茶の葉だった。
わたしは櫛と笄は一瞥して箱を閉じ、茶葉の方の開けて言った。
「いい匂い。……せっかくだから今、いただいても?」
「でしたら奴才がお淹れいたします」
廉公公が言い、薛美人が恐縮する。
「でも、わたしなどが――」
「せっかく陛下にいただいたんですもの。いつも仲良くしてくださる方と飲みたいわ」
馬婆の指示で王婆がお湯とお茶道具を運んできて、受け取った廉公公が優雅な手つきでお茶を淹れる。
甘く清新で馥郁とした香りが広がる。
「素晴らしい香り……さすが陛下からのご下賜品ですわ! わたくし、みんなに自慢しなくっちゃ!」
大げさに騒ぐ薛美人に苦笑しながら、わたしはお茶を一口頂いて、廉公公に言った。
「とても美味しいです。陛下にもよくよくお礼申し上げてくださいませ」
「承知いたしました」
ではまた後程、と廉公公は一礼して戻っていく。
その背中を何気なく見送っていたわたしの耳元で、薛美人が言った。
「中宮様……ちょっと小耳にはさんだのですけれど」
「なあに?」
薛美人が黒い瞳でじっとわたしを見る、その視線に妙な必死さがあった。
「今回の、高昭容へのお渡り、中宮様に障りがあったせいだとか」
「……さあ。障りがあったのは確かですが、もともとその予定だったかもしれませんし、わたしは何とも」
「次の障りの時には推薦していただけませんか?」
「え?」
何を言うのかと、思わず薛美人をまじまじと見た。
「……昔から、障りのために身近なものをお薦めするのはよくあることなんです。わたし、中宮様にはよく仕えていると思いません?」
何を言い出すのかとギョッとして、わたしは息を飲んだ。
――薛美人は三度ほどお召に与ったが、その後は途絶えてもう、一年になるとか――
「その……そんなこと言われても……」
動揺するわたしに、薛美人が畳みかける。
「けして、中宮様と寵を競おうなんて、大それたことは考えておりません。ですが……わたし……」
薛美人が睫毛を伏せる。
「陛下をお慕いしておりますの……中宮様もお分かりになりますでしょ? 陛下との夜が忘れられませんの。……たとえ、中宮様の身代わりでも構いません。せめてもう一度だけでも、お情けをいただきたい」
真剣な目で見つめられて、わたしはゴクリと唾を飲み込んだ。
もしやこの人は最初からそのつもりで、わたしに取り入ったの――?
驚愕して声も出せないわたしに、薛美人は切々と真情を吐露する。
「……三度、お情けをいただいて……陛下は冷たい方と聞いておりましたが、わたしは優しい方と思いました。とにかく夢のような時間で、わたしは陛下のことが――」
そんな話をされて、ズキリと胸が痛む。
――どうして? 趙淑妃にも、高昭容にも、こんな気持ちになったことはないのに。わたしは――
わたしは大きく息を吸いこむと、気を落ち着かせるようにお茶をもう一口飲み、言った。
「……約束は、できません。陛下はその……少し気難しいところがあって。お渡り先に口を出すと、お怒りを買うかもしれません」
「でも、もし機会があったら、お願いします!」
薛美人の必死の形相に、わたしはもう、それ以上何も言えなかった。
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