虐げられた出戻り姫は、こじらせ騎士の執愛に甘く捕らわれる

無憂

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1巻

1-1

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   プロローグ


 四本柱の巨大な寝台は、赤い天鵞絨ビロードの天蓋布で覆われていた。
 蝋燭がいくつも灯され、灯影に黒い影がうごめく。

『う……うあ……ひ……』

 天蓋の下に響くのは、聞くに堪えない淫らな自分の声。大きな節くれだった手がジュスティーヌの肌をまさぐり、秘密の場所を探る。
 恐怖で身体は強張り、ジュスティーヌの目じりからは絶え間なく涙が零れ落ちていく。
 心は凍りつき、涙も涸れ果てたと思ったのに、終わりのない凌辱に自然と身体は反応するようになった。
 身体は感じているのかもしれない。でも、心と身体が乖離して、快感を受け止めることはできない。ただ、心のない身体が意志によらずに発する、びるような喘ぎ声をまるで他人事のように聞いていた。
 心がすり潰されていくような、絶望だけが支配する時間。感じているのは自分であって、自分ではない。だが反応して、淫らな声を上げるのは必要なことだと、ジュスティーヌはこの六年で学んだ。
 身体が反応しなければ、淫らな責めが本格的な暴力に代わるだけと、嫌と言うほど知らされたから――

『う、ああっ……』

 身体が細かく痙攣する。身体が絶頂すれば、男の責めは、いったん止む。ここから終わりのない罵倒が朝まで続くかもしれないが、それでも達することなく責められ続けるよりは、はるかにまし――。そんな風に思ったその時。ジュスティーヌをさいなんでいた男が、突如、歓喜の声を上げた。

『見ろ、勃ったぞ!』

 朦朧とした頭で目線だけを動かせば、でっぷり太った腹の肉の下あたり、何かが天を向いてそびえ立っていた。何が起きたのかとっさに理解できないでいたジュスティーヌをよそに、男は下卑た笑顔を歪ませて、彼女の上にのしかかってきた。

『ようやくだ――この時を待っていたぞ、わが姫よ――』

 ――重い。潰される。
 いつもと違う男の動きに戸惑いと恐怖を覚え、反射的に両の目を固く瞑る。ジュスティーヌの耳をつんざく獣のような咆哮が響き、次の瞬間、ズシッと何かに体が押し潰された。
 そしてそのまま、重みで息もできない。
 あまりの重みに耐えかねて、おそるおそる目を開ければ――
 真上にのしかかる男は白目を剥き、口から泡を吹いていた。
 すさまじい形相を目にして、ジュスティーヌが渾身の力で男を突き飛ばす。ゴロンと転がった男は、すでに息絶えて――


「い、いやああああぁ!」

 自分の悲鳴で目を醒まし、寝台の上に起き上がる。全身、びっしょりと汗をかいていた。
 また、あの夢――
 ジュスティーヌは荒い息を吐いて額の汗をぬぐい、蝋燭の灯る部屋を見まわして、そこが郊外の離宮だと思い出した。
 あの恐怖の夜は、過去のこと。あの男は死んだ。なのに、いまだに夢は彼女をさいなむ。
 ジュスティーヌは上掛けをめくり、寝台から足を下ろすと、素足のまま窓に近寄った。
 直接、庭へ降りられるようになっているガラス窓からは月の光が煌々と射し込み、ジュスティーヌの影が室内へと長く伸びる。
 窓から見える月は青白く輝き、ほぼ満月だった。
 ――あの湖には、月が映るだろう。
 そう思うと、ジュスティーヌは衝動を抑えられなくなる。
 ――空の月は、遠すぎる。水に映る月を見たい。
 そんなくだらない理由での外出のために、夜中に護衛を起こすのは気が咎めた。
 少しだけ。すぐに、戻ってくれば――
 ジュスティーヌは部屋の隅の長櫃ながびつを開け、綺麗に畳まれたフード付きのマントを取り出し、羽織る。布靴に足を入れ、そっと、音を立てぬように窓を開け、夜の庭に踏みだした。
 初夏の夜の空気は湿気を含んで心地いい。夜の闇も、なぜか怖くなかった。
 離宮のほとりにある湖に続く道は満月に照らされ、迷う恐れはない。
 遠くの森でフクロウが鳴いている。松林を抜ければ月の光にきらめく湖が広がっていた。暗い湖面に映る金色の月に吸い寄せられるように、ジュスティーヌは足を早めた。
 宵闇の空にはまばゆく輝く銀の月。月の光を浴びながら、ジュスティーヌは桟橋に降り、フードを外した。湖面をわたる風が、結わないままの長い髪を巻き上げる。
 さざ波の揺れる湖面に浮かぶもう一つの月を、ジュスティーヌは時間を忘れて見つめていた。



   第一章 出戻り姫


 長い紛争に終止符を打つために、ノール王国は末の王女ジュスティーヌを隣国の大公に嫁がせた。大公は四十も年上で、祖父と孫のような年齢差であった。
 その婚姻により両国の間には和平が築かれたが、六年後、大公は急死する。
 ――死因は、腹上死。
 王女ジュスティーヌは夫に死なれて帰国し、六年ぶりに故国の土を踏んだ。
 黒い喪服に身を包んだ王女の姿を目にして、誰もがその変貌ぶりに息を呑んだ。
 かつてのジュスティーヌは末姫として甘やかされて育ち、歩くだけで光を振りまくような明るく天真爛漫な少女であった。だが、未亡人となった彼女からその輝きは消え、全身から憂いと悲しみと、今にも消えてしまいそうな儚さを滲ませていた。
 きらめくハニー・ブロンドは黒いヴェールのうちに隠されていた。黒いレースの手袋をはめた手が極細の黒糸で編まれたレースのヴェールをのけ、ようやく青空を映した澄んだ湖の色をした大きな青い瞳が現れた。
 瞳の色は以前と同じ。だが、金色の睫毛に縁どられた青い瞳は不安げで、どこか虚ろであった。
 亡き大公は孫のような年齢のジュスティーヌに偏執的に執着し、離宮に閉じ込めて外界との接触を絶たせ、夜ごと責めさいなんでいたという。挙句の果てに、ジュスティーヌとの閨事の最中に死亡した。
 大公の死の直後、離宮から救い出された彼女は満身創痍で、虐待の痕跡がありありと残っていたという。極秘の報告を受けた王も、そして王太子マルスランも激怒した。
 実を言えば、ジュスティーヌをそのまま国内に留め、虐待の事実を隠そうとした隣国との間で、両国の緊張はあわや開戦一歩手前まで高まった。
 ただ、ジュスティーヌの犠牲がもたらした平和を、ジュスティーヌを理由に壊すべきでないと、王と王太子マルスランはギリギリで怒りを抑え込んだのである。
 この六年で、隣国との力関係は逆転していた。
 大公の晩年、隣国の政治は乱脈を極め、浪費と不正で国力が低下した。その一方で、和平によって抑えた戦費を産業の復興に充てた王国は、上り調子であった。
 王国の平和と繁栄は、ジュスティーヌの不幸な結婚によって支えられていた。
 王も王太子マルスランもそのことを強く意識し、出戻ってきた末の王女には今度こそ幸せな結婚をと、願ってやまないのであった。


   ***


「そなたをジュスティーヌ王女の護衛騎士隊長に任命する。他に配下を数名、近衛隊と協議の上で選び、候補者の名簿を提出せよ。選出の条件については近衛とマルスランに尋ねるように」

 王の執務室で、玉座の横に立つ王太子マルスランに告げられて、近衛騎士のラファエルは片膝をつき、騎士の礼を執った。
 きらめく銀色の髪に、濃紺に銀糸の装飾付きの豪華な制服がよく似合っている。すらりとした均整の取れた体つきに、冷たいほどの美貌の持ち主だ。まっすぐに王とマルスランを見上げる紫色の瞳には真摯な忠誠が込められ、率直で生真面目な人柄が表れている。
 王女の護衛となる正式な任命書を渡し、王は人払いしてラファエルに言った。

「そなたをジュスティーヌの護衛の責任者に任命するのは、人柄や騎士としての技量ももちろんだが、先だってのヴィトレ砦での功績に、まだ報いていないためでもある。いずれは然るべき爵位と領地をと思うが、知ってのとおり、いろいろとうるさく言う者たちがおるからな」

 言い訳がましい王の言葉にも、ラファエルは端麗な表情を崩さず、頭を下げた。

「何事も陛下のお考えのままでございますゆえ、臣下として言うことはございません。さらなる精進に励むのみでございます」
「うむ、その……隣国の大公とジュスティーヌの結婚は不幸であった。心に傷を負って戻ってきている。修道院に入りたいなぞと言い出しておって……」

 その言葉に、ラファエルが初めてハッと表情を変えた。

「なんと……! あのお若さとお美しさでもったいないことでございます」
「うむ。自ら修道院に駆け込むようなことはしまい。だが、けして目を離さぬよう、心してくれ」

 ラファエルは青ざめた顔で大きく頷いた。

「は! 身命に替えましても、姫の御身を守ると誓います!」

 任命書を手にしてラファエルが執務室を出て行くと、周囲に人のいなくなった機会に、マルスランが言った。

「父上……ラファエルにはまだ、届け出た婚約者もおりません。彼はいずれ私の右腕となるべき有望株です。ジュスティーヌと結婚させ、先の功績と合わせ、王都に近い領地に封爵したいのですが」

 ラファエルへの封爵がとどこおっているのは、封地とするべき土地が十分に確保できないせいだ。
 ジュスティーヌは帰国にあたり、持参金として持っていった国境地帯の封地を、迷惑料代わりに持ち帰っていた。
 ジュスティーヌの持ち帰った国境地帯の領地を中央の王領と領地替えし、王都に近い土地をジュスティーヌと婚姻した者の封地に与え、国境地帯の封地は新たな封爵地とする。
 マルスランの提案は、とどこおった褒賞とジュスティーヌの結婚問題を同時に解決できる一石二鳥の妙案だ。しかし王は懸念を示した。

「封爵の件はそれでよい。だが、ジュスティーヌの様子から言っても、結婚を急がせるべきではない。そもそもジュスティーヌは――」

 王は言葉を濁す。王として、そして父親として、ジュスティーヌの結婚を押し切れない理由があった。
 マルスランは、そんな王に非難のまなざしを向ける。

「父上、ジュスティーヌは仮にも王女です。独り身のまま置いておくことはできません。どこかに縁付けるなら、条件的にもラファエルが最適と私は考えます。彼の父親であるジロンド伯爵は王党派で、廷臣としての信頼も厚い。本人の性格も篤実で信頼がおけます。父上さえ賛同してくださるのなら――」
「あの容姿と家柄で、今まで婚約者もいないのは、何か理由があるのではないか?」

 マルスランが肩を竦めてみせた。

「彼は次男で、継ぐべき爵位がありません。――これは王宮内の噂ですが、どうもアギヨン侯爵の令嬢に求婚して、断られたようです」
「アギヨン侯爵……?」

 王が、眉をひそめた。ヴィトレ峠で功績を上げたラファエルらに対しての叙爵を、強硬に反対した貴族派の筆頭こそ、アギヨン侯爵であったからだ。

「ラファエルの実家ジロンド伯爵は王党派の最右翼、対してアギヨン侯爵は地方諸侯の雄、対立する陣営にあります。どうやらアギヨン侯爵は、爵位も領地もない男に娘はやれぬと、求婚を突っぱねたようです」

 王はしばし沈黙し、ゆっくりと口を開いた。

「……つまりアギヨン侯爵は、ラファエルに対しては爵位領地のないことを理由に求婚を断っておきながら、いざラファエルが功績を上げて封爵のチャンスがめぐってきたらそれを潰した、ということか?」
「そうなりますね。ラファエルは彼女のために、他からの縁談をすべて断っているとか」

 マルスランの言葉に、王は顎に手を当てて唸る。

「……それは、ジロンド家としては複雑であろうな」

 考え込んでしまった王に対し、マルスランが言う。

「ラファエルは王家に対する忠誠心が篤く、何より次男で、家を継がせる必要がありません。ジュスティーヌの婿として、これ以上の条件の男はいないかと……」

 マルスランの言葉に、王がハッとして息子を見た。

「医師からの報告書はご覧になりましたよね? 後継ぎが必要な家に、ジュスティーヌはやれません。次男以下で爵位のない男では、国法として王女を降嫁させることができない。また、すでに後継ぎのいる家は後妻となってしまう。若く見目の良い、次男以下で封爵可能な功績持ちの男が、ラファエル以外にいると思いますか?」

 王はじっとマルスランを見つめ、言った。

「なるほど。余からジロンド伯爵に話をしてみよう。王家からの申し出を、伯爵は断るまい」



   第二章 湖に映る月


 故国に戻ったジュスティーヌは、王宮の片隅の独立した棟を与えられた。
 まだ幼い頃に嫁いだジュスティーヌは、大公にとって妻というよりは無知で無垢な人形であり、淫らな欲を満たすための玩具でしかなかった。大公は彼女を離宮に閉じ込め、外界との接触を禁じていた。
 そのため、十八歳になったジュスティーヌは身体つきこそ成長したものの、ダンスや楽器など、淑女としての教養もすべて中途半端。王妃や兄マルスランが手配して教師を捜し、中断していた勉強のやり直しが始まった。
 子供の頃は勉強なんて大嫌いだったけれど、今は学ぶことが楽しい。
 帰ってきたのだ、とジュスティーヌは六年ぶりに祖国の歴史書をひもといて思う。
 でも――
 六年前と同じ王宮でも、何かが決定的に違っている。
 隣国で夫から虐待を受けていたせいで、ジュスティーヌは男性を恐れるようになっていた。
 とりわけ、大公と年齢や体格の似た男性に恐怖を覚えるため、教師や側仕えも女性が揃えられたが、護衛騎士となるとそうはいかない。
 以前は未成年の王族だったので専属の護衛騎士はおらず、外出時に近衛から適当に選抜していた。だが、帰国後は十人の近衛騎士が専属として護衛に当たることになった。ジュスティーヌが恐怖心を抱かぬよう、若く細身の者を選び、かつジュスティーヌの目にあまり触れぬような配慮がなされている。
 隊長のラファエルは、年齢二十二歳。王都近郊に領地を持つジロンド伯爵の次男だという。
 輝く銀髪に紫色の瞳をして、彫刻のような美貌は硬質で冷たい印象すらあるが、生真面目な物堅さがそれを補っている。近衛騎士は儀式の儀仗を務めることもあり、見かけ重視で選ばれることが多い。その美男揃いの近衛の中でも、ラファエルの美貌は群を抜いていた。
 彼が近衛に配属になったのはジュスティーヌが隣国に嫁ぐ直前であったが、乳母はその時のことを憶えていた。

『ええ、大変な美少年でしたから、印象に残っていますよ。あの頃は王太子殿下付きでしたが、侍女たちが騒然となりましたからね』

 乳母が言い、帰国後に付けられた侍女が話を引き継ぐ。

『見かけに反して生真面目な性格で、器量自慢の女たちが何人も言い寄ったそうですが、彼は眉一つ動かさず、すげなく追い払ってしまったって。女性に興味がないのかしらね。氷の騎士だなんて言う人もいるわ』
『マルスラン殿下が姫君の護衛騎士に抜擢するくらいですから、女性には潔癖なのでしょう』

 侍女たちの噂話を聞きながら、ジュスティーヌはなんとなく、自らの護衛騎士を目で追う。
 交代の打ち合わせらしく、配下の騎士と小声でやり取りする何気ない動作も洗練されている。
 夜空のような濃紺のマントに銀の髪が映えて、きらめいていた。
 ――氷というよりは、銀色の月のような騎士ね。
 性格が堅いだけでなく、その際立った美貌はどこか現実離れしている。それがジュスティーヌに恐怖心を抱かせない要因となっているのだろう。
 護衛の分を守り、必要以上にジュスティーヌに近づくこともなく、彼の方から話しかけることも滅多にない。
 男性を恐れるジュスティーヌの目に触れぬよう、ひっそりと、だが何かあればいつでも駆けつけられる距離を保って立っている。問題は、本人は目立たぬようにしているつもりでも、どうしても周囲の視線を集めてしまうほど、彼が美しいということだ。
 ――美しいけれど、空の月のように遠い。見上げればいつもそこにある……
 ジュスティーヌもまた、その美しさに惹きつけられるように、ついついラファエルを見つめてしまう。しかしそれは単純に美しいものを愛でるような、そんな心持ちからであった。


 臣下に降嫁した姉たちから、さまざまな誘いがあるけれど、ジュスティーヌは極力断っていた。国王の強い希望もあって喪服は脱いだが、年齢相応の華やかなドレスを着ることには抵抗があって、未亡人らしく装飾の少ない抑えた色味のドレスばかりを身にまとっている。
 ひっそり、静かに――
 帰国して嬉しい気持ちと、このまま消えてしまいたいような気持ちが、ジュスティーヌの中でせめぎ合っていた。
 そんなジュスティーヌの楽しみは、天気のよい日に庭園を散策することだった。
 庭園の池の周りを歩いて、生垣で作られた緑の迷路を通り抜ける。薔薇園で香りを楽しみ、小さな森の小道に入っていく。この森は王宮の中にありながら、いくつもの巨木を残して野生の森のような風情があった。
 侍女二人と護衛騎士のラファエル、少し離れてラファエルの部下数人が、いつでも駆けつけられる位置で伴としてついてくる。
 森の中に入るとジュスティーヌはほっと息をついて、白いヴェールを外して蜂蜜色の頭を露出させた。サイドで編み込んで上半分だけ結い、真珠をあしらった金糸のネットで覆い、下半分は背中に垂らしている。装飾らしい装飾はそれだけだった。
 高い梢から降り注ぐ木漏れ日を浴びて、ジュスティーヌの金色の髪が光を弾く。梢を見上げる横顔のほっそりした顎から首筋のラインと、小さな耳、少し開いた花の蕾のような唇。隣国から戻ってきた日の痛々しさはないものの、なんとも言えない不安げな、儚い雰囲気はそのままだ。

「姫様、リスが……」

 侍女の一人が指差す枝の上を、茶色い小さな生き物が走っていく。
 ジュスティーヌは目を見開いて、微笑んだ。

「久しぶりに見たわ! 昔は毎日のように来て、いつか捕まえてやろうと追いかけたものよ」
「ほんに、あのころの姫様はお転婆で……」
「木登りは毎日、噴水の池に落ちたこともありましたわね」

 懐かしそうに言う侍女の言葉に、背後にいたラファエルがおずおずと尋ねる。

「その、すみません、姫が、池に落ちたのですか? いったいどういった状況で?」

 普段、ひっそりと気配を消しているラファエルから話しかけられて、ジュスティーヌは少しばかり驚いた。とっさに、どう答えてよいかわからずどぎまぎしてしまう。ジュスティーヌの困惑した様子を見たラファエルが、慌てて言い訳のように言葉を継いだ。

「いえ、姫が水に落ちるようなことは、普通はあり得ませんので、いったいどういった状況から発生した事件なのか、その時に護衛はどうしていたのか、気になりまして……」

 彼の、生真面目さと仕事熱心さの表れだと気づいたが、ジュスティーヌは昔の失敗を暴露した侍女を軽く睨んだ。

「やめてよ、ラファエルの前でそんなことを言うのは。彼は昔のわたくしの姿は知らないのに」
「だからこそ、教えて差し上げているのでございますよ。今後の対策に」
「そうですとも」

 侍女たちがコロコロと笑いながら言い返すのに、ジュスティーヌが頬を膨らます。このままでは、無様に池に落ちたみっともない王女だと思われかねないと、ジュスティーヌがツンとすまし顔で言った。

「落ちたのではなくて、泳ぐつもりで自分から池に飛び込んだのよ」
「は? ご自分から? 泳ぐ? え?」

 ラファエルが紫色の目を見開くのを見て、ジュスティーヌはむしろ状況を悪化させたことにようやく気づいた。

「ほらご覧なさいな、昔の姫様のお転婆ぶりときたら、本当に命知らずでしょう?」
「そうですわよ、噴水の池で泳ごうとした王女なんて、姫様ぐらいですわ。あの時はドレスが水を吸って重くなって、脚にまとわりついて身動きも取れなくなってしまって……」

 こもごも言う侍女たちの言葉に、ラファエルが顔色を変える。

「ぶ、無事だったのですかっ!」

 詰め寄られ、ジュスティーヌは慌てて言った。

「今生きているんだもの、無事に決まっているでしょう? あの池、子供の膝くらいの深さなのよ? 溺れる方が難しいわよ」

 その言葉に侍女たちもクスクスと笑い合い、ラファエルもまた、ホッとしたように表情を緩める。普段の無機質な美貌とは違う人間味を感じて、ジュスティーヌの心に昔のような悪戯心がきざす。急に、しかつめらしく後をついてくるラファエルをからかってみたくなったのだ。
 新調したブルーグレーのドレスの裾を持ち上げ、森の小道を走り出す。

「姫様! どうなさったのです!」
「姫様!」
「ちょっと走りたくなっただけ」

 突然のことに動揺する侍女たちをしり目に、ラファエルは素早くジュスティーヌを追いかける。追いつかれないよう、ジュスティーヌもスピードを上げ、小道を一目散に走り抜け、森の奥の巨樹に突進して、その幹に抱き着いた。
 昔はこれくらい走ったってなんともなかったのに、心臓はバクバクと激しく脈打ち、呼吸は乱れ、肩で大きく息をしていた。振り返れば、ラファエルは全く呼吸を乱すことなく背後に立っていた。

「姫様、侍女殿たちは走るのに慣れていませんので……」

 ラファエルに苦言をていされて、ジュスティーヌは悪戯を咎められた子供のように肩を竦めてみせる。
 無茶をしても、危険があっても、彼ならば何があっても自分を守ってくれるだろう、そんな安心感にジュスティーヌの胸が少し熱くなる。
 遅れて、侍女たちが息を乱して追いつき、ラファエルの配下の騎士達も剣帯を鳴らしながら走ってきた。――そうだ、昔から、この国では守られていた。周りの人々すべてに。
 ジュスティーヌの胸に、幼い日々の懐かしい思い出が甦ってくる。
 この国で、ジュスティーヌはすべての人に愛されていた。少なくとも自身はそう、信じていた。
 やんちゃやお転婆の限りを尽くしても、叱られこそすれ、誰も自分を傷つけず、守るべきものとして大切に扱ってくれていた。
 ――それを、当然のことと甘受していた。愚かな子供として守られた、かけがえのない幸せな時間だった。そしてそれはもう、戻らない……

「ごめんなさい。つい……どこもかしこも昔と同じだから、自分も昔に戻ったような気分になってしまったの。もうしないわ」

 ジュスティーヌは抱き着いている大樹の梢を見上げ、誰に言うともなく呟く。大きく広がった枝の緑の葉の隙間から青い空が覗き、木漏れ日が降り注いでいる。
 この風景は、昔と同じ。
 ジュスティーヌは大樹から離れ、周囲を回る。

「この樹は、森のヌシなのよ。……変わってないわ。昔と同じ。森も、庭も、お城も……わたくしだけが、変わってしまった」

 六年で一番大きく変わったもの。それはほかならぬジュスティーヌ自身。
 梢を見上げていた視界が潤み、涙で歪む。熱い涙が、目じりから零れ落ちた。

「姫……?」

 ジュスティーヌの涙を見て、ラファエルが動揺したのか、声をかけてくる。
 ジュスティーヌは涙を振り払うように首を振った。

「あの頃は、世界に辛いことがあるなんて、想像もできなかった。毎日が楽しくて、それが永遠に続くと思っていたわ。隣国と戦争が続いて――それで、亡くなったり苦しんでいる人がいると知って、わたくしが嫁ぐことで戦争が終わるなら……そんな力がわたくしにあるならって、迷うことすらしなかった……」

 ジュスティーヌの独白を、ラファエルが無言で聞いている。

「お父様もお兄様も辛そうなお顔をして、何度も詫びてくださった。お母様は泣いて、おばあ様は怒っていらした。でも、わたくしは自分が役に立てるのが嬉しかったの。たとえ相手がお年を召した方でも、自分から誠意を尽くせば仲良くできるって思ったわ。幸せになれると信じて、疑ってもいなかった……」

 ジュスティーヌはもう一度大樹に抱き着き、目を閉じてその幹に額を預ける。樹上から降り注ぐ木漏れ日が、ジュスティーヌの金色の髪と頬に流れる涙に反射してきらめいた。
 王女の責務として、平和のために身を捧げたつもりだった。
 しかし、隣国で待っていたのは、ジュスティーヌには予想もできない仕打ちだった。
 王女としての矜持も打ち砕かれ、人としての尊厳まで踏みにじられた。
 ただ、あの醜い男の欲望のために――

「もう、二度と帰れないかもしれないと思っていたけれど、わたくしは帰ってこられた。でも、帰ってきたからって、全部元通りになるわけじゃないのね。……時間が、戻るわけじゃないから」

 変わってしまった自分は元に戻らない。
 傷痕も、傷つけられた辛い記憶も消えない。
 王宮ですれ違う誰も彼もが、ジュスティーヌがかつての彼女ではないことを知っている。

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 幼い頃に、セレフィアはシルヴァードと出会った。お互いがまだ世間を知らない中、二人は王城のパーティーで時折顔を合わせ、交流を深める。そしてある日、シルヴァードから「大きくなったら結婚しよう」と言われ、セレフィアはそれを喜んで受け入れた。  その後、十年以上彼と再会することはなかった。  三年間続いていた戦争が終わり、シルヴァードが王国を勝利に導いた英雄として帰ってきた。彼の隣には、聖女の姿が。彼は自分との約束をとっくに忘れているだろうと、セレフィアはその場を離れた。  しかし治療師として働いているセレフィアは、彼の後遺症治療のために彼と対面することになる。余計なことは言わず、ただ彼の治療をすることだけを考えていた。が、やけに彼との距離が近い。  それどころか、シルヴァードはセレフィアに甘く迫ってくる。これは治療者に対する依存に違いないのだが……。 「シルフィード様。全てをおひとりで抱え込もうとなさらないでください。わたしが、傍にいます」 「お願い、セレフィア。……君が傍にいてくれたら、僕はまともでいられる」 ※糖度高め、勘違いが激しめ、主人公は鈍感です。ヒーローがとにかく拗れています。苦手な方はご注意ください。 ※『小説家になろう』様『カクヨム』様にも投稿しています。

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