虐げられた出戻り姫は、こじらせ騎士の執愛に甘く捕らわれる

無憂

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   第四章 揺らぎ


 湖上祭で小舟に乗りたいという姫君の無邪気な願いを叶えるために、ラファエルは王太子の許可を取りつけ、舟や船頭の手配など、さまざまな根回しに奔走した。
 湖上祭は満月の夜。湖には丸い金色の月が映るはず。
 姫君が水に映る月を眺める時は、どんな時でも連れていくと約束した。
 これはただの、護衛の任務だ――
 だが同時に、ラファエルは恋人でもない姫君と小舟に乗ることに対して、かすかな罪悪感も覚えていた。
 ラファエルには三年越しで求婚している相手がいる。アギヨン侯爵の娘、ミレイユ。
 茶色い髪に、ジュスティーヌより少し暗い青い瞳をして、物静かでおとなしい性格の女性だ。
 騎士養成所で同期だったフィリップの異母妹で、幼少期は母と二人、市井しせいで育ったと聞いている。庶腹のせいで侯爵家では冷遇され、庭のにれの木の下で青い瞳に涙を溜めて泣いていた。
 ラファエルは彼女の涙にほだされ、彼女を救い出すために求婚したのだが――
 爵位のない男に娘を嫁がせるつもりはないと、侯爵に門前払いをくらってしまう。
 ミレイユとの交際は禁じられ、アギヨン邸への訪問も差し止められている。フィリップの協力で密かに手紙のやり取りを続け、人目を忍ぶ逢瀬を重ねてきた。
 ヌイイ公爵家の仮面舞踏会にはラファエルの家にも招待状が来るので、ここ数年はそこで逢うことが恒例になっていた。
 ラファエルが、人気ひとけがなく景色のよいバルコニーを知っているのは、毎年、そこでミレイユと会っていたからである。
 今年も、ミレイユからは当然のように誘いがあった。
 だが今年は姫君が夜会に出席するため、その護衛で片時も離れることができない。ゆえに、ミレイユには仕事だからと、断りの手紙を出していた。
 ところが、夜会で姫をエスコートする姿を、ミレイユは目にしたらしいのだ。
 その結果、舞踏会の数日後に届いたミレイユからの手紙には、恨み言がびっちりと書かれていた。

『仮面をつけているからわからないと思ったのかもしれませんが、一目であなただとわかりました。別の女性と腕を組んで現れたあなたを見た時、わたくしの胸がどれほど痛んだか――』

 ジュスティーヌ王女の護衛騎士に抜擢され、十人の護衛チームの指揮を任されたことはミレイユにも伝えているし、あの夜会に出ていたなら、ミレイユだって王女がおしのびで来ていると、わかっていたはずだ。
 しかし手紙には、ラファエルが近衛騎士の制服ではなく、私服で姫君をエスコートしていたのがショックだったと書きつらねられていて、ラファエルは頭を抱えた。
 ――私服でエスコート役をしたのは王太子殿下の指示なんだが……
 世事に疎いラファエルはミレイユからの手紙を読んで初めて、自分とジュスティーヌの噂の存在を知った。一部ではまことしやかに、王家はジュスティーヌ王女をラファエルに降嫁させるつもりだ、などと囁かれているらしい。
 ラファエルはガシガシと銀色の髪を掻きむしった。
 ――姫君が俺に降嫁するだって? そんなバカな! 
 ラファエルはため息をついて、とにかく誤解を解こうとミレイユに手紙をしたためた。


 姫君の降嫁などありえない。国法で、王女の降嫁先は伯爵以上の有爵者もしくはその嫡男と決まっている。
 ヌイイ公爵家の夜会で、私服でエスコート役を果たしたのは、姫君が非公式の出席だったからで、実際はただの護衛だ。
 姫君との間にやましいことは何もない。


 ラファエルは長い手紙を書くことができないたちで、どうしても冷たく見えるほど文が簡潔になってしまう。それでも最後になんとか愛の言葉を書き入れ、蝋を垂らして紋章の入った指輪を押しつけて封蝋する。
 従僕を呼び出して手紙をことづけ、ラファエルはもう一度、深いため息をついた。
 たしかに、ジュスティーヌの護衛騎士を拝命して以来、ラファエルはミレイユに会っていない。初めての責任ある仕事にいっぱいいっぱいで、手紙も間遠まどおになっていた。これについては、ラファエルも申し訳なく思っている。
 しかし、姫君をエスコートしたのはあくまで護衛の仕事の一環であり、そのことでミレイユに責められるのは納得がいかなかった。
 ましてジュスティーヌと恋仲であるとか、降嫁するとか、事実無根の噂は勘弁してほしい、と椅子の背もたれに寄りかかり、ラファエルは天を仰ぐ。
 浮かぶのは、ミレイユの顔ではなくジュスティーヌの顔だ。
 ――ただでさえ彼女は隣国で深く傷つけられたのに。こんな噂が耳に入ったら、きっとさらに傷ついてしまうだろう。
 噂に傷ついたであろう恋人よりも、傷つくかもしれないジュスティーヌを心配していることが、すでに自身の心が揺らいでいるせいだと、ラファエルは気づいていなかった。


   ***


 湖上祭も近づく夏の盛り、ラファエルは父親に呼び出され、王都のジロンド伯爵邸に戻った。
 王女の護衛騎士を拝命してから、ラファエルは城内の詰め所に泊まり込むことが増えていた。湖上祭の小舟やら警備の手配で忙しく、ここ数日、家に帰らずにいたら、話があるから是が非でも帰宅せよと、従僕が使いに来たのだった。渋々、屋敷に戻れば父ばかりか兄ガブリエルまでが彼を待っていた。

「何事ですか? 父上、兄上」

 ジロンド邸の父の執務室で、ラファエルが尋ねる。

「ラファエル、先日王宮に呼び出されて、陛下から内々にだが結婚の打診があった」
「結婚? まさか俺の?」

 父の言葉に、ラファエルが驚いて目をみはる。

「名誉なお話ゆえ、その場で承諾の返事をしておいた」
「承諾って、え? どういうことです?」

 とっさに意味がわからず目をぱちぱちするラファエルに、父親が苦笑する。

「ジュスティーヌ姫の降嫁先だ。もう王都じゅうの噂になっているだろう?」

 ラファエルは呆然として言った。

「そんなバカな。王女の降嫁先は伯爵以上の当主もしくは嫡男と、国法で決まっているはずです!」
「だから、先日のヴィトレ峠の件の褒賞と合わせ、お前を伯爵以上に賜爵ししゃくし、その上でジュスティーヌ王女を降嫁させるとのご意向を示されたのだ。滅多にないご厚情だと、もちろんありがたくお受けしたぞ! よかったな、ラファエル」

 満面の笑みで父親に言われて、ラファエルは困惑を隠せない。
 数か月前、隣国の大公が死んでジュスティーヌへの虐待が明らかになり、王太子マルスランはジュスティーヌ奪還には武力行使も辞さないと決意した。直属の近衛騎士の精鋭を派遣し、国境近くのヴィトレ砦では小規模ながら軍事衝突もあった。
 その折に、ラファエルは功績を上げ、間違いなく褒賞も得られると自分でも確信していた。
 ラファエルはその時、封爵を得たら、ミレイユに求婚するつもりだった。
 しかし、封地の不足その他の理由をつけられ、ラファエルの封爵はならなかった。
 ここにきて、王はヴィトレ峠での功績に対し、ジュスティーヌの降嫁と抱き合わせで褒賞するつもりだというのだ。しかし、もともと封爵を求めていたのはミレイユとの結婚のためだから、ラファエルとしては返答に窮してしまう。

「どうした、ラファエル。王女の降嫁は我が家としても誉れだ。さ、乾杯だ!」

 グラスを掲げてみせる父と兄とに、ラファエルは首を横に振った。

「待ってください、俺は――俺はすでにミレイユと結婚の約束が……」
「アギヨン侯爵の娘? まだ続いていたのか? 王女との縁ができたのだ。どちらを選ぶか明らかじゃないか」

 兄が呆れたように言う。
 ラファエルは慌てて言う。

「ミレイユとの約束を違えるわけにはいきません」

 ラファエルの生真面目な言葉を、父と兄が窘める。

「ラファエル、陛下が言うには、以前にもお前を叙爵するつもりだったのに、横槍が入ったそうだ。反対したのは、アギヨン侯爵だそうだ」

 その言葉に、ラファエルがハッとして顔を上げた。

「……まさかっ……」
「そのまさかだよ。三年前、爵位のないことを理由に求婚を退け、いざ、お前の叙爵が叶いそうになれば叩き潰す。アギヨン侯爵は、お前を娘婿に迎える気などさらさらないのだ」

 父親の言葉に、ラファエルが両膝を握り締める。

「ラファエル、陛下はジュスティーヌ姫を降嫁させるにあたり、ボーモン伯爵の封爵を下賜すると約束してくださった。念願の叙爵、それも伯爵だぞ?」

 父が言い、兄ガブリエルも同調する。

「我が家は代々、王家に忠誠を誓う王党派。一方、アギヨン侯爵は貴族の同盟を強化して王家に対抗する貴族派の領袖だ。もともと対立する派閥に属していることくらい、承知していよう」

 ラファエルが首を振る。

「そのような政治の派閥の話は、俺はよくわからない……」
「派閥の話は避けては通れぬ。真実、ミレイユ嬢を愛していたかもしれん。だが、その恋は報われぬ。そんな不毛の恋など忘れ、ジュスティーヌ姫を選び、王女の婿という栄誉と、領地と爵位を得た方がうんといい。我が家の栄誉でもある」

 父の言葉に、ラファエルは端麗な顔を歪めた。

「派閥、爵位、領地……俺はそんなもののために騎士になったわけでもないし、まして王女の降嫁を理由に封爵を受ければ、人からなんて言われるか……」

 ミレイユから降嫁の噂について聞いていても、そんなことあるはずがないと思っていた。
 自分はただの護衛騎士であり、王女の降嫁先の条件にも合わない。そもそも姫君だって、結婚は望んでいないはずだ。
 ――いったい、この話はどこから? 姫君は、ご存じなのか? 
 姫君は結婚を恐れている。こんな話が裏で進んでいると知ったら、どうお思いになるか――
 ラファエルの胸の内を不安が覆っていく。

「このお話、姫君はご存じなのですか?」

 ジロンド伯はラファエルをじっと見つめた。

「さあ、どうであろうな。姫のご意向がどうであるか、一臣下にはわからぬ」
「そんな……姫君が、俺ごときの妻になるなんて……」

 ラファエルが言えば、ジロンド伯が首を傾げる。

「ずいぶん、噂になっておるぞ? ジロンド家の騎士と姫君は恋仲だと」
「事実無根です! 俺はただの護衛で、俺と姫は何もない!」

 唾を飛ばして力説するラファエルに、父も兄も納得の表情で頷いた。

「さもあろう。お前のような堅物が、護衛対象の姫君と深い仲になるなど、ありえないとは思っていた」
「そうそう、中身は朴念仁だし」

 うんうんと頷く二人に、ラファエルは身を乗り出した。

「姫だって、護衛に軽々しくほだされるような方ではありません。そんな噂は姫君に失礼です!」
「噂の真偽はさておき、お前は姫と結婚するのは気に入らぬのか?」

 その言葉に、ラファエルは慌てて首を振る。

「と、とんでもない! 俺などにはもったいない方で……」

 すこし頬を赤らめたその様子に、父親と兄はそっと目配せしあう。
 睫毛を伏せたラファエルに、ジロンド伯がなおも続けた。

「ジュスティーヌ姫が嫌いでないなら、なおのこと断るべきではない」
「でも、そんな仲ではないのです。結婚なんて畏れ多い……」

 言いかけたラファエルを手で制し、父が言った。

「姫君が隣国で受けた仕打ちを聞いているか?」

 ラファエルは曖昧に頷いた。

「……多少は。離宮に閉じ込められて、外界との接触を禁じられていたとか、それくらい……」

 中庭の四角い池に映った月ばかりを見ていたというジュスティーヌの言葉を思い出し、ラファエルが言えば、父は深刻な表情になる。

「ラファエル、ここだけの話なのだが……」

 ジロンド伯が身を乗り出し、声を潜めた。

「陛下がおっしゃるには、本来ならば、とても嫁に出せるような身体ではない、と」

 ラファエルは紫色の瞳を見開く。

「……どういう、ことです?」

 大公の歪んだ執着を向けられていたとは聞いていた。だが――
 ジロンド伯が低い声で続ける。

「嫁に出せないと言っても、子供が産めないと決まったわけではないそうだ。大公は性癖が歪んだ男で、離宮から救い出された時は身体中、傷だらけだったとか。中には永久に消えないものもあると」

 ラファエルは衝撃を受ける。

「そんな暴力まで……」

 ラファエルは自身の認識の甘さにうろたえた。脳裏にはジュスティーヌの儚げな姿がよぎる。
 実のところ、嫁ぐ前の彼女がお転婆だったという話を、ラファエルはどこか信じられないでいた。リスを追いかけたり、噴水の池で泳ごうとしたり、およそ今の、常に憂いをまとったようなジュスティーヌからは想像もできない。だが――
 自分が嫁ぐことで戦争が終わるなら、祖父のような年齢の男に嫁ぐことも迷わなかったと、ジュスティーヌは言っていた。
 国を背負う王女として、幼いながらも王族の矜持を抱いて嫁いだのだ。だがその先で待っていたのは、離宮に閉じ込められ、大公の愛玩人形として肉欲を向けられるだけの日々だった。
 その上、身体に傷の残るような虐待まで受け、誇りと尊厳を傷つけられ、かつての明るさを失ったのだとしたら――
 ラファエルは自身の身を切られるような辛さに、奥歯を噛み締める。国のため、平和のために我が身と人生を差し出した少女を暴力的にさいなんだ大公が許せない。そして、姫の苦しみをまるでわかっていなかった、己のことも。
 黙り込んだラファエルを横目に、父が静かに語る。

「虐待の具体的な内容については、陛下も口にされなかった。だが、姫は男性を恐れている。あるいはねやのことを受け入れられないかもしれないと。そうなると跡継ぎの問題が発生するから、嫡男には嫁にやれぬ。特に壮年以上の男性への恐怖心が強いので、後妻も無理だ」

 もともと出戻りであるため、帰国直後からジュスティーヌ姫を後妻にと願い出る老貴族は後を絶たないが、すべて断っているという。
 横から兄のガブリエルも口を挟んだ。

「貴族家の継承問題を考慮すれば、姫君を無理に嫁がせるべきでないことも、陛下はわかっておられる」

 ラファエルは呆然として紫色の瞳をパチパチと瞬いた。

「姫は……修道院に入りたいと……そうか、それで……」

 幸せは水に映った月のよう――
 ジュスティーヌの言葉の意味が、初めて心に沁みとおった。
 彼女にとって結婚は恐怖でしかないのだ。嫁いでから六年間も、幽閉され暴力を振るわれ、愛も歓びも希望もない日々が続いたのだ。未来の見えぬ闇の中に囚われ、心身ともに疲れ、涙も涸れ果てて――

「出戻りとはいえ、姫君はまだお若い。再婚を望む声は止まないだろうし、修道院というのも外聞が悪い。何より……」

 ジロンド伯がまっすぐにラファエルを見た。

「陛下は姫君には今度こそ、穏やかな結婚をしてほしいと望んでおられるのだ」
「穏やかな結婚を?」
「そうだ。だから陛下はお前に、この話を持ち掛けてこられたのだ。これが臣下として、そして父親として栄誉でなくてなんだ? 陛下はお前ならば、国のため犠牲になった姫君を支え、生涯変わらぬ忠誠と愛を捧げるはずと信じて、お前を選ばれたのだ」

 父の紫色の瞳に慈愛の色が浮かぶ。
 王も王太子も、ジュスティーヌを心から愛おしみ、彼女の幸せを願っている。
 だから、あえてラファエルに白羽の矢を立てた。ラファエルならば、ジュスティーヌをしいたげまい。たとえジュスティーヌが閨事を拒んでも、誠心誠意、彼女にかしずくに違いないと。
 王女の降嫁先に選ばれたことよりも、息子の為人ひととなりが王と王太子の眼鏡に適ったことを、ジロンド伯が栄誉に感じていると伝わってきて、ラファエルは理解した。
 ――つまりこの結婚は、護衛騎士の仕事の延長のようなものだと。
 ラファエルは父の目をまっすぐに見て、言った。

「……そういうことでしたら、わかりました。俺は姫に生涯の忠誠を誓っております」

 国のために犠牲になり、心にも身体にも傷を負ったジュスティーヌを守るために、自分の人生を差し出すことに迷いはなかった。

「陛下がおっしゃるには、白い結婚になるかもしれないがと……」

 兄が言うが、ラファエルは微笑んだ。

「そんなことは構いません。もともと、姫は俺なんかにはもったいない高貴な方です。結婚が名目的なものであっても、俺は一向に気にしません」

 だが、ラファエルには一つだけ気がかりがあった。
 王女の降嫁を受け入れるからには、ミレイユとの結婚は諦めざるを得ない。

「……姫君がミレイユのことを知ったら、俺を軽蔑なさるのでは……」

 封爵と王女という餌につられて、ミレイユを捨てたと勘違いされるのではないか。
 ラファエルの心配をジロンド伯は鼻でわらった。

「まさか。お前とミレイユ嬢との話は、三年前に求婚を断られた時点で終わっている。誰が咎めるというのだ」
「それはそうですが……」

 だが、ラファエルとミレイユの交際は密かにまだ続いてはいる。
 ジロンド伯がラファエルを見て、続ける。

「だがよかった。お前がこの結婚を拒んだら、大ごとになるところだった。ジュスティーヌ姫を選ばぬ限り、王家の股肱ここうとしてのお前の将来も消える。もちろん、ジロンド家の栄達も」
「……父上、俺が結婚を断ったくらいで、そんなことは……」

 ジロンド伯が首を振り、ガブリエルが肩を竦める。

「いいや、これは重大事だ。姫を取るか、アギヨン侯爵の娘を取るか、王家に試されたと思え。お前も覚悟を決めよ」
「そうだ、あくまでミレイユ嬢を取ると言い出した日には、我が家としても勘当するしかなかった」
「兄上……」

 二人の言葉にラファエルは目を伏せ、深いため息をついた。

「……遠からずミレイユは他の男に嫁ぐでしょう。年齢的にも、そろそろ躱し切れないと本人も言っていました。そこでお願いがございます。ミレイユがどこかに嫁ぐまでは、姫君との婚姻に関して公にしないで待ってもらいたい」

 ラファエルからミレイユに別れを切り出さず、ミレイユに振られてからにしたい。
 ――それなら、姫君を選んでミレイユを捨てたことにはならない。
 ラファエルの言い分に、ジロンド伯爵は腕を組んで考える。しばしの時が経ち、ジロンド伯爵は頷いた。

「まあいいだろう。どのみち、こういった話はゆっくり進むものだ。王家も急ぐつもりはないだろう」

 ミレイユが先に嫁いでしまえば裏切りにならないというラファエルの欺瞞に、ラファエル本人だけが気づいていなかった。


   ***


 王宮内の、ジュスティーヌ王女の住む棟の端にある、騎士の詰所。仮眠用の寝台二つの上に座って、ジュスティーヌの護衛騎士二人がブランデーを舐めながら硬いチーズを齧っている。
 一人は護衛隊長であるラファエルで、もう一人は副長を務めるセルジュだ。彼は黒い髪をかきあげて、灰色の瞳でラファエルをちらりと見て言った。

「ラファエル、湖上祭では姫君と小舟に乗ると聞いたが、お前、恋人がいただろう? フィリップの妹のミレイユ嬢。もしかして別れたのか?」

 セルジュはラファエルよりも二歳上で、ラファエルの騎士養成所時代の先輩である。男爵家の庶子であるセルジュは騎士叙任後、地方の砦を転々とさせられ、最前線にも送られた。長く冷や飯を食わされていたが、ラファエルが自身の副長にと推挙し、王女の護衛に抜擢されてようやく王都に戻ってこられた。役職上はラファエルの方が上になるので、公の場ではラファエルに対して敬語で話しているが、プライベートでは昔通りの口調にもどる。
 もともと、ラファエルはセルジュを騎士としても尊敬しており、彼には頭が上がらない。そんなセルジュから非難がましい口調で言われて、ラファエルは気まずそうに眉をひそめた。

「まだ別れてはいません。……小舟は、ただの護衛ですから」

 淡々と答えるラファエルに、セルジュが語気を荒らげる。

「湖上祭の舟がどういうものか、みんな知っている。あれは恋人同士で乗るものだ」

 王太子の許可も取りつけ、ラファエルは湖上祭で、ジュスティーヌを舟に乗せることになった。
 小舟の周囲には、恋人同士に偽装した護衛騎士と侍女を配置することになり、セルジュもその一人に選ばれている。大がかりな配備をしてまで王女が舟に乗ることに対し、セルジュは当初、反対した。彼は王太子の許可が下りないだろうと考えていたのだ。
 セルジュの予想に反してマルスランが許可を出したのは、ジュスティーヌの降嫁先としてラファエルが内定しているからだ。だが、降嫁の件はたとえ信頼するセルジュであっても、まだ秘密だ。

「湖上祭で、俺と姫君が舟に乗るのは極秘です」
「恋人に知られると困るからか?」
「違います。安全上の観点からです。恋人は関係ありません。もともと、毎年騎士団の仕事で、湖上祭をミレイユと過ごしたこともないし……」

 ラファエルの返答に、今度はセルジュがため息をつく。

「仕事だからと諦めているだけで、恋人と湖上祭の舟に乗りたいと思うのは、若い女なら当たり前のことだ。実は別の女と舟に乗るなんて、裏切り行為だ」
「裏切りではありません。ただの護衛の仕事です」

 ラファエルは、なぜセルジュがミレイユのことを気にかけているのか、不可解に思う。
 セルジュはラファエルと同期のフィリップの教育係で、そしてミレイユはフィリップの異母妹。接点がないわけではないが、気にするほど親しくもないはずだ。
 ラファエルがわずかに目をすがめると、セルジュはグラスに残ったブランデーを一気に空けた。
 それから手酌で杯を満たし、ラファエルにも注いでくる。そして灰色の目を向けて言った。

「……この前の、ヌイイ公爵家の夜会に、彼女来ていただろ?」
「そのようですね」

 セルジュがミレイユの顔を知っているらしいことに、ラファエルは内心驚いていた。養成所時代にアギヨン侯爵邸に遊びに行った時、セルジュも一緒だっただろうか? それにしたって、ヌイイ公爵家の夜会は仮面舞踏会で、誰が誰だかさっぱりわからない会なのに――
 いろいろ納得いかない気分で、ラファエルは首を傾げてしまう。

「お前、気づかなかったのかよ」

 少々呆れ気味のセルジュの声に、ラファエルが少しだけ、端正な眉を寄せる。

「至近距離ですれ違ったらしいのですが、俺には記憶がない。気づいたところで話などできないので、事前に知らせなかったのですが、それも不愉快だったようです」

 本気で理解できないという表情のラファエルを見て、セルジュは無意識にこめかみを押さえる。

「ラファエル、お前、いくらなんでも女心に疎すぎるぞ。恋人が他の女をエスコートしていたら、ショックを受けるに決まっているだろう。せめて事前に知らせておけよ」
「エスコート役を務めただけで、要するにただの護衛です。事前に知らせると言っても、王女のおしのびを漏らすわけにいきませんし。姫君と噂になっていると手紙でなじられましたが……」

 疲れたように吐き捨てるラファエルの端麗な額を、セルジュは指さして言った。

「あの夜会でのエスコートのせいで、お前と姫君の噂、すごいことになっているぞ?」

 噂、と聞いて、ラファエルはため息をつく。ついでにブランデーの入ったグラスを持ち上げ、酒を口に含んだ。

「護衛騎士が私服でエスコートしたくらいで大げさな。姫君のお耳に入ればお気の毒なことになりますね」
「お前さっきから姫君姫君で、姫君のことしか考えてないが、この件で本当に気の毒なのは、ミレイユ嬢だろうが」

 セルジュに窘められ、ラファエルは眉間に皺を寄せる。

「俺と姫君はなんでもないのに、事実無根の噂に振り回されて文句を言われても……」
「だから! お前、綺麗な顔して本当に卑怯な奴だな!」

 セルジュの声が少し高くなり、ラファエルが紫色の瞳を一瞬だけ見開いた。

「……卑怯、ですか? 俺が?」
「事実無根だと言いながら、ちゃっかり姫君と小舟に乗るんだろ? 立派な裏切りだ」

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 幼い頃に、セレフィアはシルヴァードと出会った。お互いがまだ世間を知らない中、二人は王城のパーティーで時折顔を合わせ、交流を深める。そしてある日、シルヴァードから「大きくなったら結婚しよう」と言われ、セレフィアはそれを喜んで受け入れた。  その後、十年以上彼と再会することはなかった。  三年間続いていた戦争が終わり、シルヴァードが王国を勝利に導いた英雄として帰ってきた。彼の隣には、聖女の姿が。彼は自分との約束をとっくに忘れているだろうと、セレフィアはその場を離れた。  しかし治療師として働いているセレフィアは、彼の後遺症治療のために彼と対面することになる。余計なことは言わず、ただ彼の治療をすることだけを考えていた。が、やけに彼との距離が近い。  それどころか、シルヴァードはセレフィアに甘く迫ってくる。これは治療者に対する依存に違いないのだが……。 「シルフィード様。全てをおひとりで抱え込もうとなさらないでください。わたしが、傍にいます」 「お願い、セレフィア。……君が傍にいてくれたら、僕はまともでいられる」 ※糖度高め、勘違いが激しめ、主人公は鈍感です。ヒーローがとにかく拗れています。苦手な方はご注意ください。 ※『小説家になろう』様『カクヨム』様にも投稿しています。

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