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弐、破鏡不照
五、
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帰りの馬車の中、なんとなく考え込んでいる様子の伯祥に、紫玲が尋ねる。
「どうかなさいましたか?」
「いや……」
伯祥が少しためらってから言った。
「お前の美しさに、皆がざわついていたのが気になって……くだらない嫉妬だ」
「そんなこと……」
目を丸くする紫玲に、伯祥が照れ隠しに笑う。
「美しい妻を誇りたい気持ちと、隠しておきたい気持ちがまじりあって……」
「伯祥さま……」
だが、伯祥の懸念は杞憂ではすまなかった。
清明節が終わり、季節が夏に向かうころ。
紫玲は自身の身体の変化に気づいた。
吐き気と食欲不振があり、月のものも遅れている。
――もしかしたら、赤ちゃん?
紫玲はそっと、自分の平らな腹を両手で覆う。
医者に診せるべきか、それともまずは伯祥に告げるべきか。あるいは実家の母に――
初めての妊娠に戸惑いつつ、紫玲は夫の部屋に向かう。
「伯祥様……あの……」
だが、伯祥は滅多に着ない紫の袍に腕を通し、童僕に手伝わせて身支度の最中だった。
「あ、ああ……紫玲。父上から呼び出しがあって、これから参内しなければならない」
「参内……」
「滅多にないことなんだが……」
妻に向かい、ちょっとだけおどけるように顔を顰めて見せる伯祥に、紫玲がくすりと笑う。
「何か、話が?」
「いえ、でしたら、お帰りになってから……」
「そうか?」
伯祥が鏡をのぞき込み、冠のゆがみを直す。
「夕餉は先に済ませておいてくれ」
「はい、行ってらっしゃいませ」
紫玲はそう言って、夫を送り出した。
夜、坊門が閉まるギリギリの時刻に帰宅した伯祥の、顔色は蒼白であった。
ただならぬ表情を見て、紫玲は夫に駆け寄り、取りすがるようにして尋ねた。
「どうかなさったのですか?」
「父上が……」
伯祥はそれだけ言うと紫玲を抱きしめ、口を閉ざした。
「いや、なんでもない……」
明らかに何かあったに違いないのだが、伯祥は首を振るばかりだ。
「もう、済んだことだ」
「伯祥さま……?」
皇帝から、何やら理不尽な命令でも受けたのだろうか?
だが、それ以上尋ねることもできず、紫玲は口をつぐむ。
――どうしよう。妊娠したかもしれないと、いつ、告げたらいいのか。
今夜の伯祥はとてもではないが、そんな雰囲気ではない。
「お食事は?」
「私はもう、済ませた。お前はまだか?」
「いえ、わたしもいただきました。では、お部屋に御酒をお持ちしましょうか?」
「そうだな……そう、してくれ」
紫玲は伯祥を部屋に送り、その後で厨房に取って返し、酒の支度をさせる。熱燗と杯、そして焙った肉醤を肴に、塗りの脚付き盆に載せ、自ら寝室に運ぶ。
「伯祥さま、お酒を……」
見れば、伯祥は着替えもそこそこに、薄い衫子と袴のみの姿で紫玲の化粧台の前に立ち尽くしていた。
「伯祥さま?」
ハッとして紫玲を振り向いた彼は、幽鬼のように蒼褪めていた。
「伯祥さま、そんな格好ではお風邪を召します」
初夏に差し掛かろうとはいえ、内陸のこの街は、朝晩は冷える。
紫玲は盆を臥床の上に置くと、衣文かけにかけてある綿入れの長袍を取り、夫の肩に着せかける。
伯祥は着せかけられた長袍に袖を通すこともせず、じっと、ギラギラした目で紫玲を見つめた。
「紫玲、……私を、愛しているか?」
腹の底から搾り出すような声に、紫玲は一瞬、息を呑む。
「は、はい。……心より、お慕いしております」
「以前、この、鏡に誓った……」
伯祥は化粧台の上に置かれた鏡匣から銀色に輝く鏡を取り出す。背面には双龍が絡み合う彫刻。中央の紐には赤い綬が通って、同心結という結び目が作られている。
紫玲はそっと、夫の背中に縋る。
「伯祥さま……たとえ何があっても、わたしの心は変わりません。信じてください」
「紫玲……」
伯祥の手が紫玲の手を掴み、そうして向きを変えてきつく抱きしめられ、唇を唇で塞がれる。
存在を確かめるように、伯祥の手が紫玲の背に這わされ、もう片方の手が紫玲の襦裙の腰紐に伸び、もどかしく解かれる。裙が、足元に落ちでわだかまり、伯祥が紫玲の膝に手をかけて抱き上げる。伯祥の肩から長袍が滑り落ちた。
唇を深く貪られたまま、紫玲は臥床に運ばれ、褥に沈めらる。
今までにないほど激しく求められて、紫玲の黒髪が褥に散り乱れ――それは、空が白むまで続いた。
「どうかなさいましたか?」
「いや……」
伯祥が少しためらってから言った。
「お前の美しさに、皆がざわついていたのが気になって……くだらない嫉妬だ」
「そんなこと……」
目を丸くする紫玲に、伯祥が照れ隠しに笑う。
「美しい妻を誇りたい気持ちと、隠しておきたい気持ちがまじりあって……」
「伯祥さま……」
だが、伯祥の懸念は杞憂ではすまなかった。
清明節が終わり、季節が夏に向かうころ。
紫玲は自身の身体の変化に気づいた。
吐き気と食欲不振があり、月のものも遅れている。
――もしかしたら、赤ちゃん?
紫玲はそっと、自分の平らな腹を両手で覆う。
医者に診せるべきか、それともまずは伯祥に告げるべきか。あるいは実家の母に――
初めての妊娠に戸惑いつつ、紫玲は夫の部屋に向かう。
「伯祥様……あの……」
だが、伯祥は滅多に着ない紫の袍に腕を通し、童僕に手伝わせて身支度の最中だった。
「あ、ああ……紫玲。父上から呼び出しがあって、これから参内しなければならない」
「参内……」
「滅多にないことなんだが……」
妻に向かい、ちょっとだけおどけるように顔を顰めて見せる伯祥に、紫玲がくすりと笑う。
「何か、話が?」
「いえ、でしたら、お帰りになってから……」
「そうか?」
伯祥が鏡をのぞき込み、冠のゆがみを直す。
「夕餉は先に済ませておいてくれ」
「はい、行ってらっしゃいませ」
紫玲はそう言って、夫を送り出した。
夜、坊門が閉まるギリギリの時刻に帰宅した伯祥の、顔色は蒼白であった。
ただならぬ表情を見て、紫玲は夫に駆け寄り、取りすがるようにして尋ねた。
「どうかなさったのですか?」
「父上が……」
伯祥はそれだけ言うと紫玲を抱きしめ、口を閉ざした。
「いや、なんでもない……」
明らかに何かあったに違いないのだが、伯祥は首を振るばかりだ。
「もう、済んだことだ」
「伯祥さま……?」
皇帝から、何やら理不尽な命令でも受けたのだろうか?
だが、それ以上尋ねることもできず、紫玲は口をつぐむ。
――どうしよう。妊娠したかもしれないと、いつ、告げたらいいのか。
今夜の伯祥はとてもではないが、そんな雰囲気ではない。
「お食事は?」
「私はもう、済ませた。お前はまだか?」
「いえ、わたしもいただきました。では、お部屋に御酒をお持ちしましょうか?」
「そうだな……そう、してくれ」
紫玲は伯祥を部屋に送り、その後で厨房に取って返し、酒の支度をさせる。熱燗と杯、そして焙った肉醤を肴に、塗りの脚付き盆に載せ、自ら寝室に運ぶ。
「伯祥さま、お酒を……」
見れば、伯祥は着替えもそこそこに、薄い衫子と袴のみの姿で紫玲の化粧台の前に立ち尽くしていた。
「伯祥さま?」
ハッとして紫玲を振り向いた彼は、幽鬼のように蒼褪めていた。
「伯祥さま、そんな格好ではお風邪を召します」
初夏に差し掛かろうとはいえ、内陸のこの街は、朝晩は冷える。
紫玲は盆を臥床の上に置くと、衣文かけにかけてある綿入れの長袍を取り、夫の肩に着せかける。
伯祥は着せかけられた長袍に袖を通すこともせず、じっと、ギラギラした目で紫玲を見つめた。
「紫玲、……私を、愛しているか?」
腹の底から搾り出すような声に、紫玲は一瞬、息を呑む。
「は、はい。……心より、お慕いしております」
「以前、この、鏡に誓った……」
伯祥は化粧台の上に置かれた鏡匣から銀色に輝く鏡を取り出す。背面には双龍が絡み合う彫刻。中央の紐には赤い綬が通って、同心結という結び目が作られている。
紫玲はそっと、夫の背中に縋る。
「伯祥さま……たとえ何があっても、わたしの心は変わりません。信じてください」
「紫玲……」
伯祥の手が紫玲の手を掴み、そうして向きを変えてきつく抱きしめられ、唇を唇で塞がれる。
存在を確かめるように、伯祥の手が紫玲の背に這わされ、もう片方の手が紫玲の襦裙の腰紐に伸び、もどかしく解かれる。裙が、足元に落ちでわだかまり、伯祥が紫玲の膝に手をかけて抱き上げる。伯祥の肩から長袍が滑り落ちた。
唇を深く貪られたまま、紫玲は臥床に運ばれ、褥に沈めらる。
今までにないほど激しく求められて、紫玲の黒髪が褥に散り乱れ――それは、空が白むまで続いた。
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