破鏡悲歌~傾国の寵姫は復讐の棘を孕む

無憂

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弐、破鏡不照

六、

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 いつもと違う気配を感じて紫玲が目を覚ました時、隣に、伯祥の姿はなかった。

「伯祥さま……?」

 静かな夜明け――だが、空気が尖り、不安が渦巻いていた。
 剥きだしの素肌に夜明けの寒さが突き刺さり、紫玲はぶるっと身震いする。白絹の長衫を慌てて纏い、衣紋を掻き合わせる。
 ふと、奇妙な物音を耳が捉えた。耳をすませば、大勢が地面を踏みしめる足音のように聞こえる。

 ――こんな時間に、人が?

 紫玲は夫の姿を探す。払暁の、ほんのりと物の形が浮き上がる薄明りの中で、彼は紫玲の化粧台の前に佇んでいた。  

 白い長衫を羽織っただけの後ろ姿に、普段の頼もしさは欠片もない。このまま消えてしまうのでは、と紫玲は不安に駆られて、帳台を飛び出し、素足で夫に駆け寄った。

「伯祥さま……」
「紫玲……起きたのか」

 気づいて紫玲に向けた彼の、整った顔に微かな光が差す。白く光る反面と、昏い陰りを帯びた半面は、歪んで、唇がわななないていた。

「昨夜から、普通ではありません。何があったのです? それに、外が妙に騒がしい気が……」
「たぶん、私を捕らえに来たのだ。……私が、断ったから」
「え? 捕らえる? ……断った……?」

 伯祥の手が紫玲の頬に伸びる。夜明け前の空気に冷やされたそれは冷たく、だが抱き寄せられて紫玲を包み込んだ身体は火のように熱かった。

 何を断ったのか。――不安が足元の磚から湧き上がってくるようだ。

「父上の差し出した条件は破格だった。でも、私は――お前を手放すことなどできないと――」

 紫玲は夫の言葉を呆然と聞く。

 つまり、それは――

「生まれて初めて、父上に逆らった。子の妻を奪うなど、不徳の至り。天が許さないと」
「伯祥さま……」

 紫玲にはまるで、理解できない。
 あの日、清明節の宴でちらりと見ただけの、黄色の龍袍――紫玲にとって、皇帝とはそれだけの存在だ。
 それが、どうして――?

「伯祥様、わたしも伯祥さまだけです。生涯、貴方だけ……」
「ああ……紫玲……愛している……」

 伯祥の口づけが落とされ、紫玲もそれを受け入れる。長い口づけの後で、伯祥が紫玲の身体を離す。

「紫玲……父上は万乗の天子。逆らって、ただでは済むわけはないのだ」

 紫玲も、ゴクリと息を呑む。その時――

 何かを破壊する音が響き、ワッと人声が屋敷の内から聞こえた。
 悲鳴と怒号がしだいに近づいてくる。

「来た……」

 伯祥は長衫を着つけると、薄明りの中で例の双龍の鏡を取り出した。絡み合う二つの龍をそっとなぞり、それから裏に返し、互いの顔を映す。
 と、それを化粧台に叩きつけた。

 ガン!

「!」      

 突然の暴挙に紫玲が声にならない悲鳴を上げる。
 伯祥の手の中で、鏡は二つに割れていた。伯祥は震える手で、その一つを紫玲に差し出す。

「紫玲……もう一度、誓ってくれないか?」
「伯祥さま?」

 紫玲も震える手でそれを受け取り、尋ねる。

「何度でも、誓います。わたしは、伯祥さまただ一人です。生涯……貴方だけ」

 伯祥もまた鏡の片割れを手にし、血を吐くような声で言った。

「私も……生涯、お前ひとりだ。紫玲……互いに離れ離れになっても、この鏡の片割れを持っていてくれ。いつか、再会できた時のために――」
「伯祥、さま……?」 

 伯祥は鏡の片割れを紫玲の手に押し付けると、素早く長衫を羽織って半分の片割れを懐に入れる。

「紫玲はこれを着ていろ」

 伯祥が、床に落ちていた自分の長袍を拾い紫玲に着せかけ、そのままギュッと抱きしめた。

「愛している。お前だけだ。約束する。――紫玲」

 口づけられる間も、ドタドタと複数の足音が近づき、ガシャン、ドガンと物の壊れる音、怒号と悲鳴が反響する。 
 何が、起きているのか。恐怖で身体が強張る。寒い。どうして――
 紫玲がはすすべもなく伯祥の背中に両腕を回して縋りついた。

 次の瞬間、荒々しい音とともに木扉が蹴破られ、武装した兵士たちが室内に踏み込んできた。
 手に手に提灯を持っていて、そのために部屋が一気に明るくなる。提灯には「禁」の文字が大きく染め抜かれていた。

 皇帝直属の繍衣御史――不法取り締まりを司る、秘密警察である。

「魏王伯祥! 謀反の疑いで逮捕する。おとなしく縛に着け!」

 隊長らしい髭を蓄えた男。一際目を引く金糸刺繍の衣装を着た男が皇帝の詔勅を示し、紫玲は伯祥の腕の中で息を呑む。

「罪状に覚えはない。私は陛下の庶長子。なにゆえに謀叛をたくらむ必要がある」
「申し開きは獄にて聞く。ひっ捕らえろ!」

 数人の捕り手たちが近づき、伯祥を捕えようとする。

「何かの間違いです! 伯祥さまはそんなことはしません!」

 紫玲が悲鳴のような叫び声を上げ、伯祥がなだめる。

「落ち着け、紫玲。――妻に乱暴はするな」

 隊長は伯祥の腕の中の紫玲を見て、ほう、というように目を見開く。

「これはまた……なかなかの美形……謀叛人の家族は宮中に没収される、こいつは勿体ない話……」
「紫玲に触るな!」

 紫玲を背中に庇った伯祥を、捕り手が無理に引き剥がして取り押さえる。伯祥から引き離された紫玲の細い手首を隊長が掴み、乱暴に引き寄せる。

「いや、離して! 伯祥様!」
「おとなしくしろ。……うん、悪くない」

 歯茎を剥きだしにし、いやらしくニタリと笑う隊長に、紫玲がゾッとする。顎を掴まれ、髭だらけの顔を近づけられて、紫玲が身を捩る。肩に羽織っていた長袍が滑り落ち、身体の線が露わになる薄い長衫一枚の姿を晒してしまう。

「やめろ! 紫玲に触るな! 紫玲は――」 
「イッヒヒヒヒ! イヒヒ……」

 下卑た笑いを浮かべていた隊長の表情が凍る。部屋に、新たな人物が登場したからだ。

「おやめなさいまし。妃殿下への狼藉、万一、皇上に知られたら大変な処罰を受けますよ!」

 男とも女ともつかぬ声が響き、隊長の蛮行を咎める。

「徐公公……」

 現れた背の高い偉丈夫は、徐公公だった。
 身に纏う紺色の袍には豪華な龍の刺繍。皇帝の親近に仕える太監である証だ。
 徐公公は腰に下げた金牌を隊長に示す。

奴才やつがれは今上帝にお仕えする者。皇上の命で妃殿下をお迎えに参ったのです」
「陛下の……」

 隊長が慌てて紫玲から手を離し、紫玲が床に膝をつき、長袍で体を覆う。

「徐公公、お前が来るということは……」  

 伯祥がギロリと徐公公を睨みつけるが、徐公公は伯祥の拘束自体は止めなかった。

「宮中の、御史の獄に。……場合によっては皇上のお慈悲があるかもしれません」

 隊長が伯祥を後ろ手に縛り、部下に命じて引っ立てる。

「伯祥さま! ……そんな……!」
「紫玲……大丈夫だ。約束を忘れるな」  

 紫玲は懐に入れた割れた鏡を長衫の上から押さえる。 

「こんなのは何かの間違いです! 必ず、疑いは晴れます!」

 夫婦互いに呼びかけ合うのを無理に引き剝がされ、伯祥は隊長や御史配下の捕り手たちにより、引きずられるよう部屋を出て行く。追いかけようとした紫玲を、徐公公が止めた。

「いけません。……それに、そんな姿を他に晒すのですか?」
「でも……伯祥さま!」

 捕り手たちの肩越しに、伯祥が振りかえり叫ぶ。  

「紫玲!」

 ――それが、紫玲が伯祥の姿を見た、最後だった。


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