大罪の後継者

灯乃

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旅立ち

変貌

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 リヒトが反射的に短銃型魔導具を構えるのと同時に、アリーシャが狙撃銃型魔導具を上空に向ける。かなりの距離があるというのに、蝙蝠のような翼と蛇の尾を持つ巨大な猿の姿をした蟲を先頭に、空を舞うさまざまな異形がはっきりと見て取れる。

 数は、百近くもいるだろうか。キメラタイプの蟲を、これほど一度に見るのは、はじめてだ。
 深々と息を吐いたスバルトゥルが、リヒトを見る。

「詳しいことは、あとで説明する。――いいか、リヒト。あの蟲たちを喚び寄せているのは、十中八九、水の王を支配していたこの砦の将軍だ。ここは俺たちで引き受けるから、おまえはアリーシャと行って、元凶をどうにかしてこい。どうにもならなかったら、俺の名を呼べ。すぐに、迎えに行く」
「どうにかって……」

 唐突な無茶ぶりに唖然とする間に、スバルトゥルは人型のまま飛び立った。イシュケルが、ちらりとリヒトを見て言う。

「いくら雪の王の愛し子でも、さすがに本来の姿になったオレたち二体ぶんの戦闘モードを支えるのは、まだ無理だろう。……この場にいる人間どもを守りたいのであれば、急ぐことだ」

 そして、スバルトゥルと同じように彼が空へ向かった直後、先ほどより強烈に魔力を食われる感覚が来た。

「リヒト! 大丈夫かい!?」

 一瞬で平衡感覚を失うほどの、目眩と脱力感。アリーシャに支えられ、どうにか倒れずに済んだものの、咄嗟に吐かなかった自分を褒めてやりたいところだ。かなりキツいが、そんなことを言っている場合ではない。

「……全然、大丈夫じゃない、が……。今は、大丈夫だと、いうことに……しておく」

 ぐっと奥歯を噛みしめ、暴力的なまでの魔力の乱れを無理矢理ねじ伏せる。両耳の制御ピアスが、チリチリと火花を散らしているようだ。
 ほんのわずかでも気を抜けば、あっという間に意識が混濁しそうな中、リヒトは掠れた声で低く言う。

「アリーシャ。ここの、将軍を……探す。援護を、頼む」
「……了解」

 精霊である召喚獣は、嘘を吐かない。スバルトゥルがああ言ったということは、今の状況の元凶となっているのがこの砦の将軍であるのは、きっと間違いないのだろう。

 ノーヒントで『どうにかしろ』と言われても困ってしまうが、彼らはリヒトが未熟なせいで本来の力も出せないというのに、大量のキメラタイプの蟲たちを相手取ってくれているのだ。何より、この砦の将軍はイシュケルを支配していた張本人。将軍を断罪していいのは、被害者であるイシュケルだけだが――リヒトは、彼に聞きたいことがある。

 幸いなことに、先ほどまで自分たちに武器を向けていた魔術師部隊は、新たな脅威である上空のキメラタイプの蟲たちを、最優先討伐対象に変更したようだ。イシュケルの威圧から復活した彼らは、部隊長の指揮の下、上空に向けて弾幕を張りながら、周囲にいた人々を砦の中に避難するよう誘導している。

 つまり、砦の入り口が『いらっしゃいませー!』と言わんばかりに開きっぱなしになっている。
 その様子を確認したリヒトとアリーシャは、ひとつうなずき合うと同時に地面を蹴った。こちらに警戒の目を向けていた者もいたようだが、ふたりの足のほうが速い。

 半ばパニック状態になっている人々の頭上を跳び越え、一気に砦の中に侵入したリヒトとアリーシャは、揃って顔をしかめた。

「なんだ? この、気色悪い魔力は」
「空のキメラタイプが、もう侵入した……ってわけでもなさそうだけど」

 外にいるときにはわからなかった、重苦しく歪んだ魔力。キメラタイプの蟲のものによく似ているけれど、今上空を飛んでいる蟲たちの魔力よりも、遙かに不快で気持ちが悪い。
 どうやら、砦の上層部が発生源だ。ふたりは、咎めようとしてくる魔術師や一般兵を無視して、石造りの階段を駆け上がる。

 アリーシャが、襲いかかってきた一般兵を殴り飛ばしながらリヒトに言う。

「こんなおかしな魔力、感じたことがないよ。ねえ、リヒト。もしこの魔力が、空の蟲たちを引き寄せているのなら……」

 口ごもった彼女が、何を言いたいのかはよくわかる。
 もしも、ではない。因果関係はわからないけれど、これほどの異常事態の原因が、ほかにあるとは考えにくい。

 何より、魔力を持って生まれた者は、総じて勘がいいものだ。リヒトも、そしておそらくアリーシャも、この気持ちの悪い魔力がすべての元凶なのだと、本能的に理解していた。

「水の王が、言っていただろう。……たぶん、この砦の将軍は、人の理から外れたんだ」

 水竜であるイシュケルを本来の契約者から引き離し、彼の自由意志を縛って支配する。それは、人の身に許された領域を遙かに凌駕する大罪だ。そんなことを可能とする禁呪を使えば、その代償はまず人の身で払い切れるものではない。

 二体の召喚獣が、戦いながらどんどんリヒトの魔力を食らっていく。魔力の乱れによる頭痛を堪えながら、散漫になりがちな思考をどうにかまとめて口にする。

「師匠が、昔話してくれた。蟲たちが大地の魔力を歪めているのは、彼らにとってそれが必然だからだと。どんな異形に見えようと、生き物である限りその最たる目的は決まっている」
「……どういう意味だい?」

 困惑した様子のアリーシャに、リヒトは低く告げた。

「繁殖だ。蟲たちの繁殖に、歪んだ魔力が必要なのだとしたら――それが大量に渦巻いている今のこの場所は、連中にとって最高の餌場だってことになるんじゃないか」

 アリーシャが、絶句する。彼女も、その可能性に気がついたようだ。

「水の王を支配していた禁呪。それを発動していた呪具が破壊され、その反動が一気に使用者に跳ね返った結果が、おそらくこの歪んだ魔力の渦だ。……水の王の言いようからして、壊れる前からある程度は歪んだ魔力が漏れ出ていたんだろうがな」

 ――まったく、愚かにもほどがあるな。この国でやたらと厄介なキメラタイプが増えているのは、連中の自業自得というものだろうに。

 イシュケルは、たしかにそう言っていた。
 五体の召喚獣を、おぞましい禁呪により本来の契約者から奪い、不当に支配したこの帝国は、それゆえに自ら滅びの道を辿っているのだと。

「とにかく、現状確認が最優先だ。おれたちがこの騒ぎの元凶をどうにかしなければ、いずれバル兄貴はおれたちだけを連れてここから離脱する」

 それは、砦ひとつぶんの人間が犠牲になるということだ。
 了解、と呟いたアリーシャが、軽く首を傾げてリヒトを見る。

「ひとつ、確認しておくよ。――きみにとって、この歪んだ魔力の持ち主は、人間なのかな?」

 咄嗟に、答えられなかった。
 階段を駆け上がるにつれ、どんどん濃くなっていく魔力の歪みようは、少なくともリヒトが知る『人間』の枠組みから、完全に逸脱している。少なくとも、なんの前情報もなくこの魔力を感じていたなら、即座に未知の強大な蟲のそれだと判断していただろう。

 蟲ならば、今までにいくらでも殺してきた。彼らは、人間の営みを破壊するものだから。それが、仕事だったから。
 けれど、人間は殺せない。殺せば、必ず誰かが泣くから。人の命も、人の涙も、リヒトが背負うにはあまりに重すぎる。

「……わからない」

 考えているうちに、最上階に着いていた。階段を上りきったところには、驚いた顔をしている見張りの兵士がふたり。リヒトは拳の、アリーシャは踵の一撃をそれぞれの顎に決め、即座に相手の意識を刈り取る。

 ――すぐそばに、重厚な樫材の扉があった。その向こうで、不快極まりない魔力がうねり猛っている。いずれにしろ、ここに目的の何者かがいるのだ。
 リヒトは、鍵の掛かっていた扉の蝶番を、短銃型魔導具で破壊した。そのまま、迷わず蹴り倒す。重い音とともに、扉が倒れた。

「自分の目で見て、決める」

 ここにいるのが、人間なのかそうではないのか。
 砦に集う人々を守るために殺すべき存在なのか、それとも同じ人として救うべき命なのか。

 いずれにしろ、リヒトは彼に尋ねたいことがあった。

 ……開かれた扉から、息が詰まるほどの歪んだ魔力が溢れ出る。やけに薄暗く感じる室内の床に、何かがうずくまっていた。そのそばで、砕けた魔導石の欠片がきらめいている。そこからわずかに漂う術の残滓は、スバルトゥルを支配していた第一皇女が装備していた呪具のそれと、そっくり同じだ。おそらく、壊れた呪具の残骸だろう。

 両手に短銃型魔導具を構えたまま、リヒトは慎重に室内へ足を踏み入れた。アリーシャも、少し後ろで狙撃銃型魔導具の銃口を対象に向けている。

「……アンタが、そこの壊れた呪具で水の王を支配していた、この砦の将軍か?」

 答えがあるかどうかは、わからなかった。それでもそう声を掛けたのは、豪奢な勲章で飾った軍服をまとった『彼』が、ひどく苦しげに荒い呼吸を繰り返しながらも、こちらに敵意を向けてこなかったからだ。
 やがて、のろのろと顔を上げた『彼』が、口を開いた。

「そう、だ。きみは……第一皇女の、召喚獣を……奪った、少年か」
「違う。スバルトゥルが、あの女の召喚獣であったことなんて、一度もない」

 鋭く応じたリヒトに、将軍はそうか、とうなずく。脂汗のびっしりと浮かんだその顔は、想像していたよりもずっと若い。多く見積もっても、三十代の半ばというところだろう。謹厳実直を絵に描いたような容貌が、今は苦しげに歪んでいる。
 将軍は、床についていた手指をぐっと握りしめ、リヒトを見上げた。

「召喚獣を、従える……少年よ。きみならば……ぐぅうっ」

 切れ切れに何か言いかけた瞬間、うずくまっていた将軍の背中から軍服を突き破って飛び出してきたもの。長く鋭利な棘を先端に持つ、巨大な骨のように見えたそこから、瞬きひとつの間に蝙蝠のような皮膜が広がった。
 寸前までごく普通の人間の目だったものが、縦長の瞳孔を持つ爬虫類のそれに変容し、耐えがたい苦痛に染まったうめき声を漏らす口元からは、巨大な牙がのぞいている。歪んだ魔力がますます濃くなり、勢いよく渦を巻いて溢れ出す。

 あまりのことに立ち尽くす子どもたちに、人ではない生き物に変貌した将軍が、ひび割れた声で言う。

「きみ、ならば……私を、殺せるか……? 頼む……私が、私でなくなる前に……っ」

 ――どうか、殺してくれ。

 そう希う将軍に、リヒトは告げた。

「アンタは、人間だ」

 将軍の、爬虫類の目が大きく見開かれる。

「だから、アンタは殺さない。……絶対、助ける」
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