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スウィングラーの後継者

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 教育というものは、子どもの人格を決定づける上で、大変重要なファクターである。どれほど素晴らしい才を持って生まれようと、正しく教え導く大人が身近にいなければ、無垢な子どもがそれを正しく花開かせることは叶わない。

 その点、ランヒルド王国の東の国境を守護するスウィングラー辺境伯の孫娘、アレクシアは幼い頃から非常に高度な教育を施されてきた。彼女は、緩やかに波打つ淡い金髪とマリンブルーの瞳を持つ、愛らしくも可憐な少女だ。弱冠十四歳ながら、王宮で大きな発言権を持つスウィングラー辺境伯の掌中の珠として、国内外の社交界ですでに知られた存在になっている。

 だが、彼女の名が人々の間で広まったことの最たる理由は、決して誉れ高いものではなかった。というのも、アレクシアの父ーー当代スウィングラー辺境伯デズモンドの嫡男エイドリアンは、まさに放蕩息子と評するに相応しい人物なのだ。

 東西南北の国境の要を守護する辺境伯たちが、他の貴族に比べて強大な権力と広大な領地を有しているのは、それだけ重い責任を背負っているからである。しかし、エイドリアンは若い頃から王都の華やかな暮らしに染まり、社交や遊興に耽るばかり。滅多に領地に帰ることもなく、政略結婚で迎えた妻との間にひとり娘をもうけたのちは、王都の別邸で愛人たちと退廃的な日々を過ごしている。

 己の責務と、親としての情愛の間で苦悩したスウィングラー辺境伯は、最終的に嫡男を後継者として育てることを断念した。そして、家名を汚すばかりの息子の代わりに、アレクシアを完璧な後継者とするべく育ててきたのだ。
 淑女としての洗練されたマナーと教養。何より、スウィングラーの名を受け継ぐ誇りを。

 その結果、公の場で挨拶を交わした者すべてが、こぞって賞賛の言葉を口にするほど魅力的な淑女の卵となった彼女はーー

「ーー三時方向、敵影二十三。全員、中長距離対応型の魔導武器を装備しているが、所属を示すものは身につけていない。どこの国の先遣部隊かは知らんが……。ウィル。丁重におもてなしをして、さっさとお引き取りいただけ」
「了解いたしました。アレクシアさま」

 ここは、スウィングラー辺境伯領と隣国との境界となっているヘレーネ山脈から、ほど近い場所に広がるリベラ平原。その外縁に位置する森の奥である。まだ雪深い季節のため、一面の銀世界が眩くも美しい。

 リベラ平原は、古くからランヒルド王国最大の穀倉地帯として知られており、常に隣国をはじめとする列強から虎視眈々と狙われる土地だ。そのため、他国からの侵略者が大挙して現れ、この土地に住む者たちの生活を乱そうとすることは珍しくなかった。
 宣戦布告なしに他国の領土を侵犯し、支配する。それをもって、国境の変更を一方的に宣言するという無法を行う国が、この大陸にはまだ数多く存在するのだ。

 アレクシアは二年ほど前から、そういった面倒ごとが起こりそうになるたび、リベラ平原の平穏を維持すべく戦場に立っている。東の国境を守護するスウィングラー辺境伯の地位を継ぐというのは、自らその手に武器を持つことと同義だ。そのため彼女は物心つく前から、淑女の嗜みと同時に、兵士の心得も叩き込まれてきた。

(お祖父さまも、こうしてわたしに現場を任せるくらいなら、スウィングラーの実権もさっさと譲って隠居していただきたいものだ。……まぁ、わたしが未成年の間は仕方がないか)

 小さく息をついたアレクシアは、眼下の戦場に意識を集中させる。
 彼女は現在、飛行魔術で地上からは目視が不可能な上空にいた。その命令を受け、たったひとりで敵部隊と対峙しているのは、アレクシアより一歳年上の少年だ。ただ、すらりと背が高く立ち姿にもまるで隙がないため、こうして戦闘服に身を包んでいると、とても十五歳の子どもには見えない。

 短く整えたくせのない黒髪と、深いフォレストグリーンの瞳を持つその少年の名は、ウィルフレッド・オブライエン。自分のことを愛称で呼ぶアレクシアに向けて一度目礼した彼は、そのまま両手に持った短銃型の魔導武器を敵陣に向け、すさまじい勢いで連射した。

 通常、距離のある敵に対して効果的な攻撃が可能なのは、散弾銃型か機関銃型の魔導武器だ。一般的な短銃型の魔導武器は、射撃精度も破壊力も、それらに比べて格段に劣る。だが今、ウィルフレッドが放った攻撃は、一発一発が大砲型の魔導武器並みの破壊力を持って敵陣に襲いかかった。

 とどろく轟音と、辺りを席巻する衝撃波。彼の持つ魔導武器の外見から、その性能を完全に見誤っていたらしい敵たちが、慌てた様子で散開する。
 上空から彼らの動きを眺めながら、アレクシアは小さくつぶやく。

「愚か者どもが。さっさと逃げればいいものを」

 魔導武器は、大地の魔力が結晶化した魔導鉱石を核として作られており、特殊な訓練を受けた魔術師のみが扱うことができる。ウィルフレッドが持っているものはすべて、アレクシアが魔導武器職人に特注したワンオフの魔導武器だ。

 あれほどの攻撃性能を持たせた以上、防御性能は相当削られているだろうという彼らの判断は、妥当といえる。どんなに純度の高い魔導鉱石であろうと、短銃型の魔導武器の核とできるサイズのものに、組み込める魔導式の数は限られるからだ。

 しかし、次の瞬間一斉に放たれた散弾銃型の魔導武器による攻撃は、少年の髪を揺らすことすらなかった。きらきらと太陽光を弾いて輝く雪煙の中、一度右手の指先で己の魔導武器を回して魔力の微調整をしたウィルフレッドが、再びそれを構えて敵に言う。

「失せろ。我が主、アレクシア・スウィングラーの名にかけて、おまえたちがこの土地を蹂躙することは許さない。ーーこれは、最終警告だ。次は、本気で撃つ」

 その宣言に、アレクシアはわずかに目を細めた。スウィングラーの名を出せば、相手はすぐに増援がやってくると思うだろう。ただのハッタリだが、単騎でこれほどの実力を見せつけた彼が口にすれば、それなりの信憑性がある。
 敵陣の中に動揺を見て取ったアレクシアは、自嘲のため息をつく。

(主、か。……おまえが、わたしを選んだわけではないのにな。ウィル)

 彼女がウィルフレッドとはじめて出会ったのは、十歳のときのことだ。
 誕生日を迎えた翌日、アレクシアは祖父の命令で屋敷のエントランスホールに赴いた。そこにずらりと居並ぶ子どもたちを示した祖父は、彼女に対し『この中から選んだ者を、己の側近として育てあげろ』と言い放ったのだ。

 アレクシアは驚き、そして困惑したのち、恐怖に震えた。
 彼女の前に居並ぶ子どもたちは、みな高い魔術の才を秘めた者たちだという。身分に関係なく、スウィングラー辺境伯領の子どもたちの中から、彼女に年齢が近く、かつ強い魔力を持った、将来を期待できる者を選抜してきたのだと。

 きれいな服を着た子どもたちの中には、両親から何か言い聞かされてきたのか、きらきらと期待に満ちた目をしている者もいた。だが、それ以外のほとんどの子どもたちは、みな不安そうな様子をしている。
 当然だ。幼い子どもが、訳もわからず『お館さま』の屋敷へ連れてこられて、平気でいられるほうがおかしい。彼らの中から側近候補を選ぶというのは、その子どもを今まで過ごしてきた環境から、問答無用で引き離すということだ。

 アレクシアの側近として立つに相応しい技能を身につけるのは、並大抵のことではないだろう。自分自身が、毎日のように頭がおかしくなりそうな教育を受けているからこそ、彼女はその苦痛を誰よりも理解できる。
 最高の淑女教育と、最強の兵士教育。
 終わることのない、幼子の身には拷問にも等しい時間だ。

 ずっとそれに耐え続けてきた彼女は、スウィングラー家の義務と無関係な子どもたちに、自分と同じ思いなどさせたくなかった。彼らには、自分自身の意思で未来を選ぶ権利があるはずだ。
 なのに、そんなひどいことをしろと自分に命じる祖父に、アレクシアはそのときはじめて不信感を抱いた。

 彼女の祖父ーースウィングラー辺境伯デズモンドは、領民たちから崇拝ともいえるほどの敬愛を受けている。幼いアレクシアにとって、祖父は神にも等しい存在だった。彼の言葉は、常に絶対のものとして彼女に届き、そこに疑いを抱くことなど想像すらできなかったのだ。

 けれどそのとき、彼女は『違う』と強く思った。
 アレクシアは、スウィングラー辺境伯家の後継者として、生まれたときから飢えることも、着るものや住むところに困ることもない生活を享受している。その対価として、彼女がこの土地に生きる者を守る義務を負うのは理解できた。

 彼女の側近となるべく集められた子どもたちは、みな本来守られるべき存在だ。しかし、これからアレクシアが選ぶ子どもは、その瞬間から彼女と同じ、守る側の人間になる。そして、自分自身の楽しみなど何ひとつない人生を、無理矢理歩かされることになるのだ。
 それは、絶対にいやだった。

 彼らの人生をアレクシアが決めるのは、無力な子どもを、逃れようのない地獄に引きずり込むということだ。そんな悪魔のごとき所業など、絶対にしたくなかった。泣きわめいてこの場から逃げ出したいと思うのに、骨の髄まで叩き込まれた後継者教育が、祖父の命令に抗うことを許さない。

 目の前が暗く歪んで吐き気を覚えたとき、彼女はエントランスホールの隅でぼんやりと立っている、やせっぽちの小さな少年に気がついた。集められた子どもたちの中で最も小柄で、その体に合わないぶかぶかの粗末な衣服を着ている。

 そばにいた教育係に尋ねると、孤児院で発見された子どもながら、祖父すら驚くほどの膨大な魔力を持っている少年だという。貧しい地区の孤児院で暮らしていたため、体の成長は少々遅れているようだが、まともな食事を摂るようになれば、すぐに大きくなるだろうと。

 ーー両親がおらず、食事も満足に与えられずに生きている、哀れな子ども。大人たちに命じられ、のろのろとアレクシアを見た彼の目には、なんの感情も浮かんでいなかった。
 絶望、という言葉の本当の意味を、彼女は知らない。けれど、彼はきっとそれを知っているのだろうと思った。

 この少年ならば、アレクシアを憎まずにいてくれるだろうか。彼女とともに生きろと命じても、絶望の種類が変わるだけのことだと、すべてをあきらめてはくれないだろうか。
 まるできちんと働いてくれない頭で、そんな浅ましいにもほどがあることを考える。

 けれど、すぐにそんな望みは断ち切った。アレクシアはスウィングラー辺境伯家の後継者として、彼の人生をめちゃくちゃにする。ならば、この少年には彼女を憎む権利がある。
 いつか、アレクシアが己の義務をまっとうし終えたとき、この命をかけて彼に詫びよう。それまでは、何があろうと彼のことを守ってみせる。

 そうして、十歳になったばかりのアレクシアは、ウィルフレッドを生け贄に選んだ。彼に自らの血を与えて魔術による主従契約を交わし、衣食住の確保された生活を保障する代わりに、己の意思で未来を選び取る自由を奪ったのである。

 それから、四年。
 ウィルフレッドは、本当に優秀な子どもだった。乾いた大地が水を得て、あっという間に芽吹いていくように、学んだことをすべて余さず自らの力に変えていく。アレクシアの側近として、たまに少々無茶なことをする彼女を問題なくサポートできるよう、彼はありとあらゆる知識と技術を身につけていった。

 彼の警告を受けた敵部隊が、じりじりと下がっていく。その様子を眺めながら、アレクシアは口を開いた。

「ウィル。お客さまの置き土産がくる。ーーその場で待機」

 彼女の声が聞こえているのは、主従契約の魔術でつながっているウィルフレッドだけだ。敵部隊に銃口を向けたままうなずいた彼を目がけ、投擲型の魔導武器が飛んでくる。一瞬、ぴくりとウィルフレッドの持つ魔導武器が反応したが、彼は一歩もそこから動かなかった。

 直後、彼の周囲ですさまじい光と音が炸裂する。ランヒルド王国軍で正式採用されている防御型魔導武器でも、完全には防ぎきれないほどの破壊力だ。
 しかし、その衝撃が去ったとき、ウィルフレッドは以前と変わらぬ様子で静かに立っていた。そんな彼の姿を見た敵部隊が、今度こそ全速で撤退していく。
 彼らの存在を感知できなくなるまで待って、アレクシアは地上へ降り立った。

「よくやった。屋敷へ戻る」
「はい」

 短いやり取りののち、ふたりは揃って飛行魔術を展開する。今のスウィングラー辺境伯領に、彼女たちと同じ速度で空を飛べる者はいない。そのため、アレクシアは侵入者の排除をする際には、ウィルフレッド以外の兵を伴わないことにしている。彼女の対応が少しでも遅れれば、リベラ平原に住む領民に被害が出る可能性があるのだ。

 忌憚のない言い方をするなら、役立たず扱いされることについて、不満を覚える兵たちがいるのは知っている。けれど、兵の機嫌取りのために本来の義務を果たさないなど、本末転倒も甚だしい。

(大隊規模以上の侵入者排除をひとりでこなすのは、さすがに無理があるからな。ウィルが優秀な兵士に育ってくれて、本当によかった)

 ウィルフレッドが大人になったとき、ひとりでも問題なく生きていけるよう、アレクシアはずっと心を砕いて彼を育ててきた。
 これなら、いずれ彼が自由を得てスウィングラー家を出るときが来ても、身の振り方に困ることはないだろう。

(……すまない、ウィル。あと少しだけ、我慢してほしい。わたしが成人して辺境伯家の実権を握った暁には、必ずおまえを自由にする)

 アレクシアのことを、スウィングラー辺境伯家の後継者としか見ていない祖父。そして、親子らしい会話など一度も交わしたことのない父母。ほんの幼い頃には、彼らの愛情を求める気持ちが、アレクシアの中にもあったように思う。

 だがそんな甘ったるい幻想は、とうの昔に消え失せた。
 アレクシアに対して、たとえ魔術による主従契約によるものだとしても、年相応の子どもに対する気遣いを見せてくれたのは、ウィルフレッドだけだった。それはほんの数えるほどのことだし、ひどくぎこちないものではあったけれどーーアレクシアの体が厳しすぎる訓練に悲鳴を上げたとき、高熱に苦しむ彼女の手を握ってくれたのは、いつも彼だけだったのだ。

 彼の自由を奪っているのは、アレクシア自身だ。魔術による主従契約は、主となった者が自らの意思で解除するか、死ぬまではその効力が失われることはない。

 ーー主従契約を解除しなければ、ウィルフレッドはアレクシアが死ぬまでそばにいてくれる。そばにいて、必ず守ってくれる。

 その誘惑に、何度負けそうになっただろう。ウィルフレッドが、自分のそばからいなくなってしまうのは、怖い。想像するだけで、心臓が凍りつきそうになる。
 けれどそれは、彼自身の意思ではない。なのに、彼が最期までそばにいてくれる未来を望む自分の浅ましさに、自嘲するしかなかった。

 そんなことを考えているうちに、針葉樹の森の中、きらめく湖の畔に立つ屋敷が見えてきた。非常時には領民たちの避難所にもなるそこは、要塞ともいえる威容を誇っている。巨大で複雑極まりない内部構造をすべて把握しているのは、スウィングラー家の血を引く者だけだ。
 その東翼が、アレクシアの居住区である。雪に覆われた中庭に、ウィルフレッドとともに舞い降りると、すぐさま東翼を取り仕切る家令が現れた。

「お戻りなさいませ、アレクシアさま。御前さまがお呼びでございます」

 御前さま、と彼が言うのは、この屋敷の主であるスウィングラー辺境伯デズモンドのことだ。アレクシアは、予定にない祖父からの呼び出しを不思議に思いながらうなずき、ウィルフレッドを振り返る。

「お祖父さまが? わかった。ーーウィル、おまえはここでいい。部屋に戻って休んでいろ」
「はい」

 質実剛健を旨とするデズモンドは、面会のたびに身なりを整えてこいと言う人間ではない。アレクシアが戦闘服のまま彼の元へ赴くのは、いつものことだ。空を飛んでいる間に乱れた髪を、手櫛でざっと整える。

 そうして、主翼最上階にある祖父の部屋へ向かったアレクシアは、ふと違和感に気づく。屋敷の雰囲気が、どことなく浮き足だっているのだ。彼女が外へ出ている間に、一体何があったのだろう。

 そんなアレクシアの疑問に答えたのは、デズモンドだった。自室の執務机の向こうで、戦場から戻ったばかりの孫娘に彼は言う。

「エイドリアンが、離縁することになった」
「……は?」
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