鎌倉青春シンフォニー:笑顔の鎧を脱ぎ捨てて、私たちは波を乗りこなす

乾為天女

文字の大きさ
11 / 97

第6章「笑顔と電話の間で」(00)

しおりを挟む
 講義棟のホールには、朝の光が大きなガラス越しに差し込んでいた。
 大学の時計が午前八時を回ると、通学路から続々と学生たちが流れ込み、受付用テーブルの前に列ができ始めていた。新歓イベントのパンフレット配布日——学生自治会が気合を入れて用意した、晴れ舞台のはずだった。
「……やばい。これ、全部誤植じゃん」
 印刷されたパンフレットの山を見つめながら、直輝が静かに言った。鋭い目がページを数度めくる。イベントの日時がすべて「5月13日(月)」と記載されている。
 ——でも、5月13日は“火曜”だ。
「っていうか、日付と曜日、全部ずれてる。修正かけてない……誰だこれ校正担当」
 その横で、望愛が顔を伏せていた。声は小さく、かろうじて聞こえるほど。
「……たぶん、私……」
 直輝は一瞬だけ眉を上げたが、すぐに深く息を吐いた。
「なるほど。じゃ、いま修正する方法を考えよう。イベント自体の日時は正しい。誤ってるのは“曜日の表記”だけだ」
「でも、もう印刷済み……千部以上……」
 望愛の声が沈む。
 「こういうとき、責めても意味ないよ」とは言わない。ただ、直輝はすぐにスマホを取り出し、どこかに電話をかけ始めた。
 その姿を見ながら、恭平が静かに動き出した。
 彼は誤植のパンフを1部手に取り、学生の列に向かって軽く手を上げた。
「ごめんなさい、配布ちょっとだけ待ってもらえますか? 内容に一部訂正がありまして」
 その言い方は穏やかで、どこか頼もしさを含んでいた。声に怒気も焦りもない。ただ、丁寧で落ち着いた響き。
「どういうこと?」と不安そうにする学生にも、「確認中です、すぐにお渡しできるようにしますね」と笑顔で返す。
 その背中に、望愛は黙っていた。声も、表情も、どこかに置き忘れてきたようだった。
 直輝が電話を切って戻ってくる。
「学内印刷室、空きがある。10時から1時間だけ使えるって。訂正用の一枚紙を挟み込む方法でいける」
「じゃあ、それまで配布ストップ?」
「いや、先に配っていい。訂正用紙は後から別途配布。“訂正あり”のシールだけ、封筒に貼っておこう」
「了解!」
 恭平が走り出した。配布済みのテーブルを巡り、「訂正あり」と印字された丸シールをペタペタと貼っていく。言い訳せず、言い方も変えず、ただ丁寧に笑いながら。
 望愛は——立ち尽くしていた。
(ミスしたの、私なのに)
 そう、誰も責めなかった。それが逆に、心に刺さる。
 なぜなら、そうされると「ちゃんとしなきゃ」という気持ちが湧いてくるから。自分はいつも、誰かに任せて途中で放棄するクセがある。それが“いつもの自分”だったはずなのに。
(でも……今日の恭平、なんであんなに普通に笑えるの)
 「責められない」という優しさが、「もう逃げられない」という不安に変わっていく。
 ポケットの中で、スマホが震えた。
 叔母からの電話。
 着信画面を見つめながら、望愛は思わずその場を離れた。
 ——また、逃げた。そう自分でも思った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

鬼隊長は元お隣女子には敵わない~猪はひよこを愛でる~

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「ひなちゃん。 俺と結婚、しよ?」 兄の結婚式で昔、お隣に住んでいた憧れのお兄ちゃん・猪狩に再会した雛乃。 昔話をしているうちに結婚を迫られ、冗談だと思ったものの。 それから猪狩の猛追撃が!? 相変わらず格好いい猪狩に次第に惹かれていく雛乃。 でも、彼のとある事情で結婚には踏み切れない。 そんな折り、雛乃の勤めている銀行で事件が……。 愛川雛乃 あいかわひなの 26 ごく普通の地方銀行員 某着せ替え人形のような見た目で可愛い おかげで女性からは恨みを買いがちなのが悩み 真面目で努力家なのに、 なぜかよくない噂を立てられる苦労人 × 岡藤猪狩 おかふじいかり 36 警察官でSIT所属のエリート 泣く子も黙る突入部隊の鬼隊長 でも、雛乃には……?

処理中です...