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 あれから五日が経った。エルランドはあれ以降眠ったままだし、何よりも獣化が解けない。
 さらに王宮内は混乱をしているし、ベロテニアの『調薬師』からリヴァスの国王となったオスモは、内部を統制することに忙しそうである。それでも、隣の工場で『調薬』や『調茶』をさせ、民に仕事を与えるとも言っていた。
「エルさんは、まだ目を覚まさないのか?」
 ハンネスもまた、混乱する王宮内をまとめるために忙しそうであった。そのため、この別邸から王宮に通っていた。泊まり込みではなく、わざわざ別邸に戻ってきているのは、ファンヌのことを心配しているからだろう。
 別邸にはまだ、充分な使用人が戻ってきていないため、ファンヌがハンネスの上着を預かった。
「はい……。ところで、お兄様。お食事にしますか? それとも先にお風呂にしますか?」
「ファンヌ。それは、エルさんにかけてあげるべき言葉だな。最後に『それとも私ですか?』も加えておけ」
 ファンヌはハンネスの言葉の意味がわからず、首を傾げた。
「まあ、いい。先に風呂だ」
「着替えは、浴室に準備してあります」
「ありがとう。近々、向こうにいる使用人をこちらに呼び寄せるつもりだから」
「わかりました」
「そうだ、ファンヌ」
 浴室に向かおうとしたハンネスは、足を止め振り返る。彼が今までにもなく真面目な表情を浮かべている。
「君は、エルさんと結婚をする気はまだあるのか? あのような姿になっていたとしても。もしかしたら、一生、あの姿のままかもしれないと、陛下はおっしゃっていたぞ?」
 ハンネスの言葉に、ファンヌは目頭が熱くなった。それは何度も自分自身に問いかけていた内容でもある。
 大きく息を吐き、力強く頷いた。
「はい。あの人が隣にいてくれるのなら、どんな姿でも。あの人の本心は変わっていないはずですから」
「そうか。それを聞いて安心した」
 ふっとハンネスの顔が綻んだ。
「一つだけいいことを教えてやる」
 ファンヌはその言葉に期待を寄せる。
「私の眠りの魔法はとっくに解けている。いくら私でも、何日も眠りの魔法を維持することはできない。彼が目を覚まさないのは、彼の意志によるもの。もしかしたら、あの姿をファンヌに見られたという負い目があるのかもしれない。だから、ファンヌ。君がどんな彼でも受け入れることができるということを、彼に伝えればいいのではないか。私はそう思っている」
「どうやって?」
「呪われた王子様は、真実の愛によって目覚めるんだよ」
 そう口にしたのは、ハンネスなりの冗談のつもりだろうか。だが、そんなおとぎ話があったような気がする。
「陛下が言うには、思い出の香りなんかも効果があるらしい」
 ハンネスはくるりとファンヌに背を向けると、浴室へと向かっていった。
 ファンヌは、調理場にいた使用人たちにハンネスが風呂からあがったら食事の準備をするようにと伝え、エルランドが眠る部屋、すなわち二人の部屋へと向かった。
 今も彼は眠ったままだ。
 完全なる獣化とは、てっきり動物と同じような姿になるものだと思っていた。だが、彼にはどことなく人間らしさが残っている。
「エルさん。そろそろ『種蒔きを告げる鳥』は見ることができますか? エルバーハの花が咲く頃ですか? 一緒に見る約束をしましたよね」
 こうやってファンヌが話しかけても、彼はピクリとも動かない。鼻の下にある可愛らしい髭も、ピクリとも動かない。
 ファンヌはハンネスに言われた言葉を、頭の中で反芻していた。そしてそれをオスモが言っていたのであれば、試してみる価値はありそうだ。
 さて、エルランドとの思い出の香りは何だろう。
『調茶師』であるファンヌにとってはお茶しか思い浮かばない。
 エルランドがファンヌのお茶に興味を示し、薬草と掛け合わせることを提案してくれたあの日。初めて『調茶』したお茶は苦かった。二人で顔をしかめて「でも、体には良さそうだな」と笑い合った。
 ファンヌは込み上げてくる涙をなんとかこらえながら、あのときと同じ『調茶』を行う。
「エルさん。お茶を淹れました」
 銀のトレイの上にお茶の入ったカップを置き、寝台の隣にある小さなテーブルの上に乗せた。仄かにお茶の香りが部屋に漂う。
 不思議なことに、ファンヌには彼の髭がヒクリと動いたように見えた。だが、それも一瞬。
 ――どんな姿になっても愛している。
 口ではいくらでも言える。例えそれが本心でなくても。だから、行動で示さなければ疑われてしまう。
『呪われた王子様は、真実の愛によって目覚めるんだよ』
 ハンネスの言葉が頭の中で木霊する。
(たったそれだけのことで、この人が目覚めてくれるのなら。私は何度でも……)
 眠っているエルランドは獅子の顔を保ったまま。それでもファンヌは眠る彼の唇に自分の唇を重ね、目を閉じた。
 髭が頬にふれ、ちょっとだけくすぐったい。思わず、ふふっとファンヌから笑みがこぼれてしまった。
「ファンヌ……。笑いながら、口づけをする奴がいるか?」
 驚いて顔を離すと、目の前には碧眼を細く開けているエルランドの顔があった。
 いつの間にか獣化が解けている。ほんのわずかな時間であったはずなのに。ファンヌが目を閉じていた、わずかな時間。
「えっ。えぇえええっ」
「そんなに驚くな。それよりも喉が渇いた。先ほどからお茶の香りがする」
 もぞもぞと身体を起こしたエルランドに、ファンヌは先ほど淹れたお茶を手渡した。
 少し冷めてしまったお茶を、エルランドは一気に飲み干した。
「体には良さそうな味だな」
 そう言って、エルランドは笑った。
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