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第三章 不在

42 闇に飲まれる

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「最悪だ!」

 走って逃げられると思ったのは誰だ。真知子だ。浅はかだった。後ろの誰かも真知子が走り出したのと同時に駆けだした。
 後ろの誰かは猛スピードで真知子を追ってくる。距離はぐんぐん詰められ、相手の息づかいと共に真知子は腕を掴まれた。

 振り返る。
 最悪だ。
 上等なスーツにすえた臭い。間違いない。博だ。

「捕まえたぞ! もう逃がさないからな!」

 博はそう言って真知子の腕を引っ張ると、そのまま山沿いの草むらに真知子を引きずり込んだ。立っていられなかった真知子はよろめき膝をついたが、博はお構いなしに引っ張り続ける。強引に引きずられた真知子の両足が、擦り傷だらけでヒリヒリと痛む。

「痛いではないか!」

 叫ぶ真知子の口を博が手で押し込むように覆いふさぐ。その勢いのまま、真知子は後ろへと押し倒された。

「あぐっ」

 そのまま真知子は草むらの大きな石の上に後頭部を強打し、意識が一瞬飛ぶ。

 最悪だ。

 真知子も子供ではないので、これから先、自分の身に起こる事は容易に想像できた。おぞましい。苦しい。吐きそう。

「大人しくしろ。騒がなければ優しくしてやる」

 博が鼻息を荒くして言う。あの気持ち悪いねっとりとした髪が、真知子の頬に触れた。

「ふ、ふざけるな!」
「騒ぐなと言っただろ!」

 真知子の頬に博のげんこつが突き刺さる。一度ではない。博は真知子の身体の上に覆いかぶさり、頬を右、左と交互に何度も殴った。
 真知子の首が左右に揺さぶられるたび、後頭部の傷が幾度となく石の上をこする。痛い。熱い。苦しい。流れ出る血で髪が染まる。

「や、やめ」

 言葉で抵抗するのが精一杯だった。痛みと恐怖で意識が飛びそうになるのを、せめて貞操を守りたいという気持ちだけが支えている。

 博の手が真知子の身体を這う。
 降りてきた手がスカートをまくる。博が真知子の下着に手をかけ、乱暴にそれを引きずり下ろした。獣みたいな鼻息がフー、フーと闇に響く。

 真知子はもう意識が保てなかった。最後の力を振り絞り閉じていた太ももを、博の手が無残にも持ち上げる。大きく広げられた足の内側に、博の体が触れる。

 やめて。
 やめて。

 そんな感情さえも、もう維持できなかった。
 真知子の意識は暗闇に溶けていく。
 博が硬くなった身体の一部を、意識のない真知子の身体の中に無理矢理押し込んだ。

 真っ暗闇の中に、獣のような息づかいと、小刻みに身体を打ち付ける音が響く。
 血の匂いと汗の臭いが交じり合う。
 生と死が躍動する。

 真知子の命がいつ尽きたのか、それは誰にも判らない。
 ただ、博が快楽の絶頂から覚めた時にはもう、真知子はただの亡骸になっていた。

 真知子は人知れず、どす黒い地獄に堕ちたのだ。

 ◇

「殺したって、どういう……」

 桜木不動産の応接間。俺は伽羅奢のお母さんに問いかけた。
『殺した』
 その物騒な言葉は、何かを誇張した表現なのだろうと俺は推測した。俺も不動産屋の桜木さんも、神妙な面持ちでお母さんの話の続きを待っている。
 お母さんは両手で口元を押さえて、伏し目がちに言う。

「言葉通りよ。お母様は帯金に犯され、殺された。道路脇に捨てられて、二度と帰って来なかったの」
「へっ……?」

 その言葉に絶句する。
 殺されたというだけでも衝撃なのに、犯された、捨てられただなんて、想像を絶する言葉が並ぶ。とんでもない。大事件じゃないか。
 お母さんは姿勢を正し、深く息を吸ってからゆっくり吐き出した。

「さっき愛音くんは、どうしてお父様が沢山の不動産を子や孫に与えているのか、不思議そうにしていたわよね。実はね、それもこの出来事が原因なの」
「……どういうことっすか」

 もう聞きたくないような気持ちと、伽羅奢たちが抱えている物を知らなきゃいけないような気持ちで、胸の中が苦しくなる。
 でも、お母さんの方がもっと苦しそうだ。

「お父様はね、元は普通のサラリーマンだったの。だけどこの事件がきっかけで、不動産を手にしてね。それに抵抗しているうちに、資産家になっちゃった」
「えっ、なんで……?」
「じゃあ、お父様の話をしましょうか」

 お母さんが当時の事を語り始める。

 ◇

 啓次郎は信じられなかった。
 講師の仕事から帰ってこない真知子について、警察に相談して数時間。やっと戻ってきた返事が「真知子の遺体が見つかった」というものだったからだ。

「嘘だ。嘘だ。嘘だ」

 遺体を見せられてもなお、啓次郎は信じられなかった。
 確認させられた遺体の顔は、確かに真知子に似ているような気もした。だが、あんなに気持ち悪い物が真知子であるはずがなかった。ありえない。違う。真知子ではない。そう訴えたが、その遺体は結局真知子として、啓次郎の家へとやってきてしまった。

 警察に聞かされた話は、耳をふさぎたくなる程おぞましいものだった。
 真知子は暗闇の中、暴漢に犯され、殺された。
 押し倒された時に頭を石に強く打ち付け、それが致命傷になったそうだ。「夜に女が一人で出歩くから悪い」と警察官の誰かが言って、啓次郎は反射的に殴り掛かりそうになった。周りの警察官に止められたが、納得いかなかった。
 何もかもがおかしい。この世は狂っている。

 犯人の目星はついている。
 帯金の人間だ。状況的に、そうとしか考えられない。帯金の家へ行った帰りに襲われた真知子。帯金の息子、博が気持ち悪いと、以前から真知子は訴えていたじゃないか。

 確信と共に、啓次郎は心底絶望した。
 なぜ啓次郎は今まで真知子の話をきちんと聞いてやらなかったのだろう。真知子はずっと、帯金の家がおかしい事、息子がおかしい事を、啓次郎に相談していたというのに。
 真知子は講師を辞めたいと言っていた。言っていたじゃないか! 思い起こすほど絶望する。
 何故、真知子の話をまじめに取り合ってやらなかったのか。真知子の命がけの訴えさえも、社会を舐めた発言だと思ってしまった。そんな自分自身こそ、世界を舐めきっていた大馬鹿者ではないのか――。
 この事件は自分が招いたものなのかもしれない。そう思うと、啓次郎はもう生きていける気がしなかった。

 だが、犯人が捕まるまでは死んではいけないのだ。このままでは真知子がうかばれない。真知子の恨みを晴らすのは、夫である啓次郎の使命だ。
 必ず仇をうつ。啓次郎は真知子の遺影にそう誓った。

 真知子。真知子。真知子。
 彼女を辱め、命を奪った人間を絶対に許さない。
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