ネグレクト少年の拾い食いとヤンデレ少女の餌付け

小鳥遊愚香

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人をバカにする鍵

兄弟

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 僕は、扉の中に足を踏み入れることができなかった。

 ただ立ち尽くしたまま、視線だけが勝手に動いて、収納スペースを上から下へ、右から左へと、順番に中身をなぞっていく。


 畳まれた衣類。

 衣装ケースに納められた、絵画や工作の類。
 ハンガーに掛けられた制服は、中学生時代のものだけじゃなく、幼稚園の頃のものやランドセルまで揃っている。


 部活で使っていたであろうユニフォームと、使い古されたバッグ。

 使っていた教科書、ノート。


 どれも、見覚えがあった。
 
 ――全部、兄ちゃんのものだ。

 それから、中身は見えないが、とにかくたくさんのダンボールが積まれている。

 新品みたいに整えられているわけでもないのに、埃を被ることもなく、無駄な隙間もなく、まるで最初からこうなると決まっていたみたいに、きちんと収まっている。

 僕のものはなかった。

 ノートも。
服も。
ランドセルも。

 兄ちゃんと一緒に生きていたはずの、その時間の名残すら。

 喉の奥が、きゅっと縮む。

 泣きそうだからじゃない。


 叫びたいからでもない。

 ただ、息の仕方が、また分からなくなった。

「……ぺこ」

 わたらいさんの声がした。

 さっき振り払った手が、今度は触れてこない。


 距離を測るみたいに、少しだけ離れた場所から、僕を呼んでいる。

 僕は、答えなかった。

「……私だけ中に入って、よく見てもいい?」

 僕はほんの一瞬だけ迷ってから、頷いた。

 それだけの動作なのに、頭がやけにくらくらする。

 膝が笑って、床が近いのか遠いのかはっきりしない。

 わたらいさんが、そのまま僕に背を向けて、一歩踏み出した。

「や、やっぱり……!」

 咄嗟に大声が出た。

 わたらいさんが僕の方を振り返る気配がするけれど、僕はそちらを向くことができない。

 気を抜いたらその場にうずくまってしまいそうで、必死に踏ん張る。

 告白する時みたいに、俯いたまま片手を、僕は恐る恐るわたらいさんに差し出す。

 彼女は何も言わずにその手を握り、中へと導いてくれた。

「全部、お兄ちゃんのものみたいだね」

 わたらいさんが、無感情に呟く。

「僕なんかいらないって。そう言われてるみたいだって。そう考えているんでしょう?」

 僕は彼女と繋いでいた手を離し、一番近くにあった陸上部時代のユニフォームにしがみついた。

 足元で、何かを蹴ってしまう。

 見ると、紙袋の中身が散乱していた。

 ラブレターらしい。ファンシーな封筒が見えた。

 それに、ママに取り上げられたであろうエッチな漫画雑誌。

 それから、小数点以下の数字がデカデカとデザインされた紙箱。

 そこから溢れた中身が透ける、安っぽい銀色。

 ――ああ。
 これは、兄ちゃんの恥部なんだ。

 僕は、そこへ一歩だけ近づいた。

「ぺこのお兄ちゃんが、わざわざここの鍵を残したのはさ」

 わたらいさんの声で、現実に引き戻される。

「忘れて欲しいから、じゃないかな。それ以上、縛られないように」

 彼女の言葉は分かるのに、意味が頭の中まで届かない。

「きっと、お兄ちゃんはぺこのママに、ずっと縛られてたんだね。お兄ちゃんの気持ちは分からないけど……ぺこには、自由でいて欲しかったんじゃない?」

 だって……と、わたらいさんが続ける。

「だって、『仲良し』だったんでしょう?ぺこはお兄ちゃんの嫌なところも、恥ずかしいところも知っているんでしょう?」

 喉の奥が、急に熱くなる。

 しがみついているユニフォームを、さらに強く皺になるほど、僕は握りしめていた。

「本当は、ちゃんとお別れできていないんじゃないの?」

 返事をしないまま、僕は一歩だけ横へ移動した。

 靴底が擦れて、きゅっと、小さく鳴る。


 それだけの音なのに、身体がびくりと跳ねた。

 ハンガーに掛けられたユニフォームの隣の、見慣れた制服に、指先が触れた。


 思ったよりも、軽い。


 でも、布は硬くて、少しごわついていて、洗剤の匂いがした。

 兄ちゃんの匂いじゃない。


 ママの選んだ洗剤の匂いだ。

「お兄ちゃんが、ぺこのことを本当にいないものだと思ってたならさ、一緒にケーキなんか食べないよ」

 わたらいさんの不意打ちに、僕はそのまま制服を掴んでしまった。

「お誕生日だったんでしょう?それって、本当は、誰よりもぺこのことを――」


 耳鳴りがして、続きが聞こえなかった。

 引き寄せるつもりはなかったのに、僕の身体の方が勝手に前に倒れて、膝が床につく。

 立てなかった。

 顔が、制服に埋まり、視界が布で塞がれる。

 息を吸おうとして、失敗した。


 吐こうとしても、うまくできない。

 喉の奥からは、変な音が漏れていた。


 声なのか、ただの空気なのか、自分でも分からない。

 ――兄ちゃん。

 名前を呼んだつもりはなかった。


 でも、胸の中で、確かにそう呼んでいた。

 ごめん、とも、ありがとう、とも言えない。


 何を後悔しているのかも、何を失ったのかも、いまだに整理できていない。

 それでも、僕と兄ちゃんは――ただ、仲が良かった。


 くだらないことで笑って、同じ景色を見て、同じ匂いの家で暮らして、眠っていた。

 神様でも、呪いでもなかった。

 僕の、たった1人の、大切な兄ちゃんだった。

 それだけの事実が、今さらになって、重く胸に落ちてくる。

 制服の布地が、少しずつ湿っていく。


 それに気づいた瞬間、息が詰まって、肩が小刻みに震えた。

 あれ、泣いている、と思った。

 でも、止めようとも思わなかった。

 背後で、わたらいさんが何かを動かす気配がした。


 ダンボールの位置を直すような音で、彼女がこちらを、見ていないことが分かった。

 彼女のその優しさで、僕はようやく、声を殺すのをやめられた。

 兄ちゃんの制服は、何も言わない。


 責めもしないし、許しもしない。

 ただ、ここにある。

 制服の重さ、布の冷たさ――それだけで、よかった。



 どれくらいそうしていたのか分からない。


 息が、少しずつ整ってきて、視界の滲みも引いていく。

 僕は、制服から顔を離した。


 手を取るように袖を握ったまま、深く、ひとつ息を吐く。

「……兄ちゃん」

 今度は、ちゃんと声に出た。

 それは、祈りでも、謝罪でもなかった。


 ただ、一人の弟としての呼びかけだった。
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