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一部
◇一部終章:淡き少女の恋◆
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「シェラ! シェラ……!」
何度名を呼んでも、もう彼女はぴくりとも動かなかった。
身体はどんどん冷えて、出血もひどい。
「嘘だ、こんなのは……嫌だ、死なないでくれ……ッ」
錯乱していたが、ローレントはすぐに冷静さを取り戻す。
彼は自身が身につけていたナイフを手に取ると、わずかな迷いのあと、腕を切り裂いた。
これが正しいことなのか、間違いであるのか……今は分からない。
ただ、ローレントはこのまま彼女が死んでいくのを認められなかったのだ。
「すまない……シェラ。私は身勝手で……それでも、きみに、死んでほしくないんだ」
薄く開いた彼女の唇に彼の血が零れる。
◇◇◇
――あれから、あの戦いから一年が経った。
黒く長い髪を背に流し、薄紫の瞳を持つ愛らしい少女はその日も林檎や野菜の入った木箱を酒場の倉庫に運んでいた。
細い腕ながら、ヴァンピールの彼女にとっては楽な仕事だ。
ここは魔物の国の中でも王都から遠くにある田舎町。
彼女は一年前にここへ引っ越してきた、それ以前にどこに居たのか、何をしていたのか何も分からないまま、要するに記憶喪失のまま、現在はこの町にある酒場で働いている。
「シェラ! はやくぅー!」
「ジェシカ、いい加減料理くらいまともにできるようになってくださいよ! 私の仕事が増える一方じゃありませんか!」
気の良い店主であるジェシカは、流浪の身であったシェラを快く迎えてくれて、酒場の二階に住まわせてくれている。
「もう、見てられない……。貸してジェシカ、このままじゃ料理じゃなくて謎の物体にしかならない」
調理場に居たジェシカからフライパンを奪い取ったのは、人狼のイスト。
彼はなかなか器用で料理から力仕事までなんでもこなせる貴重な人材だ。
「そろそろお得意さんが来ちゃうのよお! シェラ! はやくこっち来てー!」
「もうっ、エディアナさんだってそう毎日毎日来るはずないじゃないですかっ」
林檎の入った木箱を置いたシェラが店内に戻ってくると、イストが小さくぼやいた。
「一年休まず……来てるけど……」
エディアナというのは同じヴァンピールで、絶世の美女だ。
職業は不明、住居も不明、ほとんどこの酒場に入り浸っているような気もする。
しかも、飽きもせず延々とシェラを指名するのだ。
「私は一人しかいないんですよっ!」
エディアナとよく似ていて、けれど幼さの残るシェラにも熱烈なファンは多い。
あっちこっちに引っ張りだこのシェラとしてはさすがに疲労もたまる。
……一年前まで、人間と魔物は戦争をしていたらしい。
きっとそのときに何かあって、シェラは記憶を失ったのだろうと思っている。
けれど前の王は死に、今の王、ドミニクという人狼になってからは随分平和になっている。
ひとの世界でも王位の継承があったようで、継いだのは三番目の王子だったリヒトという人物らしい。
「こんばんは……」
からんからん、と音を立てて、酒場の扉が開く。
入ってきたのはエディアナで、すぐにシェラを見つけてにこりと微笑む。
薄幸そうながら、いつ見ても美人だ。
シェラは彼女に駆け寄って、いつもの席に案内する。
「こんばんは、エディアナさん。今日は何になさいますか?」
「そうね……今日は……あぁ、そうそう、シェラ、今度この町にも今の陛下がいらっしゃるようだけど、知っていて?」
カウンター席に座り、メニューを眺めていたエディアナが唐突にそう言った。
シェラは氷水の入ったコップを彼女の前に置いて、盆を抱えたまま首を傾げる。
「え? そうなんですか? こんな田舎に?」
「ええ。困ったものよね……あのひとは、いつまでたってもお嫁さんをとらなくて」
なぜか、器用にフライパンを操っていたイストの手元が狂った。
けれど失敗することなく持ち直し、彼は不満そうにエディアナを見やった。
「べつに、ぼくたちの王は血統で決まるわけじゃないから……どちらでもいいんじゃないの」
「あらあらまぁ……もしかしてイストったら……シェラのこと……」
「違う、断じて、違うけど、そうじゃないけど……」
いったい何の話だろうとシェラは首を傾げたままだった。
からかうエディアナは楽しそうで、イストは少し頬が赤い、色白なのでよく分かる。
戸惑っていると、今度はジェシカが腰に手をあてて不満そうに口を開いた。
「あー! いやだいやだ、うちの酒場から売り子を掠め取って行ったりしないでしょうねあの男」
「売り子って……何、言ってるんですかジェシカ」
それに該当するのはシェラしか居ない。
あまりにも突拍子もない言葉にシェラはジェシカを睨み、腰に手をあてて言う。
「馬鹿なことばかり言わないでくださいよ。エディアナさんみたいな美人ならともかく、私のような者をどうして陛下が気にいるっていうんです。さぞ言い寄ってくる美女が多いことでしょうに」
けれどジェシカはあきれたような顔で答える。
なんとなく子供扱いされた気分だ。
「馬鹿ねえ、美人ならなんだっていい男ばっかりじゃないのよ」
「だからって、私はないでしょう」
この話はおしまいだと言うように、シェラは新しく入ってきた客に駆け寄る。
「いらっしゃいませ――」
けれど彼女は、その人物を見て固まった。
銀色の髪に、翡翠の瞳を持つ見知らぬ青年。
初めて出会うひとなのに、なぜか視線が釘付けになって離せない。
「……どうかしましたか?」
青年に声をかけられて、我に返ったシェラは慌てて彼を店内に案内する。
「い、いいえ! すみません、席はこちらへ」
「ありがとう」
カウンター席の近くにあるテーブルに案内すると、なぜかジェシカが嫌そうな顔をして客に言う。
「アンタ、どーいうつもりよ。予定より早いじゃない、ってか、お忍び?」
知りあいなのだろうか?
シェラが疑問に思っていると、青年は困ったような顔をして笑う。
「やっと会えると思ったら、いてもたってもいられなくてね」
「はぁ……やっぱ奪っていくつもりなんじゃない」
ジェシカと青年を交互に見て、シェラはまた首を傾げる。
(知りあいなんでしょうか……というか、なぜでしょう、あのひと……)
知らないひとだ。
今まで一度も会ったことがない。それなのに、胸が締めつけられるような感覚を覚える。
(っ……私ったら、何を考えているんでしょう)
吸血本能が疼く。彼の血が欲しいと。
いつもは薬で補っていて、それに何の問題も無かった。
特別誰かの血が欲しいなんて思ったことはないのに。
吸血種としてはおかしな話だが、シェラはあまりその行為が好きではなかった。
なんだか、気持ちが悪くて。
そのはずなのに、今はどうしてか……彼の血が欲しくてたまらない。
ごくりと喉を鳴らしたシェラと少し離れたところで、ジェシカが大きな声で言う。
「いーやーだーわーっ、意外とファンが多いのよ? これを目当てに来る客も少なくないっていうのに! 売上が減ったらどーしてくれんのよ! どうせエディアナもいなくなっちゃうでしょ!」
「そうしたら、王城兵にでも転職したらどうだい?」
青年は冗談のように言っているが、真面目な提案であるようにも聞こえた。
二人はシェラにはよく分からない会話をしている。
ジェシカには戦う能力があるのだろうか?
それに、エディアナまで居なくなってしまうとは、どういうことだろう?
ジェシカの一方的な口喧嘩を受け流す青年を眺めていると、エディアナが小さく笑ってシェラに声をかけた。
「……シェラ、彼の血が欲しいの?」
「……え、えっ⁉ ま、まさか、そんなはずないでしょうっ」
思いがけない言葉にびくりと肩が震え、その反応にエディアナはなぜか楽しそうに瞳を細めた。
「そうよね、あなたは彼の血しか知らないし、きっと知りたくもないのでしょうね……」
「え?」
彼の血しか知らない、とはどういうことだろうか。
シェラは誰の血も自ら吸ったことはない。
けれど思えば、それも吸血種としてはおかしな話だ。
そうなると、以前に……記憶にない頃に、誰かの血を吸った……?
考え込んでいるシェラに、エディアナは薄く微笑んで言う。
「明日になれば分かるわ。これからもわたくし、あなたの傍で支えるから……頑張りましょうね?」
「えと……はあ……」
今日は分からないことばかりだ。
シェラはもう一度、ジェシカに一方的に怒鳴られている青年を見やる。
鼓動が高鳴るような不思議な感覚に、頬が熱くなる。
思わず視線をそむけそうになると、彼の翡翠の瞳がこちらを見て、また大袈裟に驚いてしまう。
普段ならこんなことはないのに、どうしていいか分からずに固まっていると、彼はふっと優しい笑みをうかべた。
「っ……!」
それにシェラは耳まで赤くなり、一気に顔をそむける。
(これって……私、まさか……っ)
――恋?
一つの可能性に行き当たって、まさかと首を横に振る。
初めて会ったひとに、何も知らない相手に、一目惚れだなんて――。
あのひとはいつまでここに滞在しているのだろう?
もしかして、たった一日だけだろうか?
(で、でも、どこに住んでいるかなんて……初対面では……聞けませんし……)
どうしてか離れがたく感じて、けれど結局、シェラは最後まで彼の素性をたずねる勇気を持てなかった。
そして、眠れぬ夜を過ごした翌日に彼女は、最悪の事実を目の当たりにする。
◇◇◇
「あの……ひと……」
他の住人も町の広場に出てきた朝、そこには昨日の青年も居た、そう……王城の兵士に囲まれて。
彼の立場はつまり、王、なのだ……おそらく。
愕然と立ちつくすシェラの後ろから肩に手を置いて、そっと耳元で囁くのはエディアナだった。
「驚いた? 彼が今の王であるドミニク。でもきっと、あなたにはローレントと呼んでほしいのじゃないかしら? 今はもう、あなたや一部のひとしか知らない名前だものね」
「は……?」
シェラには? 自分とあの王様にいったいなんの関係があるというのだろう。
そもそもローレントというのはなんだろう? 偽名だろうか?
それをどうして、シェラが?
疑問に思い、背後のエディアナを見て唇を開く前に、人影がさして彼女は前に向き直った。
そこには、昨日の青年が……ローレントが立っていた。
何かやらかしたのだろうかと青ざめるシェラと反対に、彼は優しい表情をしている。
「え、あ、の……」
どうしていいのか分からずに固まっていると、ローレントは小さく笑って、シェラの細い身体を抱きしめた。
驚きに悲鳴をあげそうになったが、その腕がかすかに震えていることに気づいて疑問のほうが勝る。
なぜだろう、なつかしささえ感じる不思議な香りとぬくもりだった。
彼はシェラを抱きしめたまま、寂しそうに、つらそうに……呟いた。
「やっぱり……思いだしてはくれない、か」
「……え?」
ゆっくりと身体が離れたかと思えば、今度は膝裏を抱えて抱きあげられる。
あまりのことに思考もついていかない。
薄紫の瞳を見開くシェラに、彼は笑みをうかべて静かに言う。
「私の妃になってほしいと言ったら……今のきみは困るかな」
「……きさ……き……」
彼の言葉を反芻して、シェラの頬が一気に赤くなる。
唇を震わせて、彼女は思いきり彼から離れようとその肩を押したが、びくともしない。
「な、な、な、なにをおっしゃるんですかっ⁉」
ローレントはそのままシェラを抱えて歩きだす。
そのうしろに、なぜかエディアナが続く。
何も分からないまま、シェラは自分を抱える青年を見あげた。
その視線に気づいたのか、彼はシェラに視線を向けると困ったような微笑みをうかべる。
「残念ながら、きみに拒否権はない。このまま一緒に城に来てもらうよ」
今度は別の意味で愕然としているシェラに、隣に並んだエディアナが声をかけた。
赤い唇が優雅に笑みを描き、細く華奢な指先がシェラの頬をつつく。
「まぁ、陛下に見初められるなんて光栄ね……シェラ」
そのうしろではジェシカが額に手をあてて盛大なため息を吐き、イストはどこか落ちこんでいるようだった。
(見初め……られ……って、どういうことですかっ⁉)
波乱の予感しかしない現状。
シェラがもう一度ローレントという青年を見あげると、彼は優しくシェラを見つめていて、視線が絡みあってまた頬が熱くなる。
(恋……? 恋、なんですか? いいえ、それにしたって、私のような田舎娘がつりあうわけないじゃないですかっ!)
手の届かないひとだと、つい先程思った。
同時に、今は彼の腕の中にいる。
それが良いことなのか悪いことなのか、今のシェラには分からなかった。
何度名を呼んでも、もう彼女はぴくりとも動かなかった。
身体はどんどん冷えて、出血もひどい。
「嘘だ、こんなのは……嫌だ、死なないでくれ……ッ」
錯乱していたが、ローレントはすぐに冷静さを取り戻す。
彼は自身が身につけていたナイフを手に取ると、わずかな迷いのあと、腕を切り裂いた。
これが正しいことなのか、間違いであるのか……今は分からない。
ただ、ローレントはこのまま彼女が死んでいくのを認められなかったのだ。
「すまない……シェラ。私は身勝手で……それでも、きみに、死んでほしくないんだ」
薄く開いた彼女の唇に彼の血が零れる。
◇◇◇
――あれから、あの戦いから一年が経った。
黒く長い髪を背に流し、薄紫の瞳を持つ愛らしい少女はその日も林檎や野菜の入った木箱を酒場の倉庫に運んでいた。
細い腕ながら、ヴァンピールの彼女にとっては楽な仕事だ。
ここは魔物の国の中でも王都から遠くにある田舎町。
彼女は一年前にここへ引っ越してきた、それ以前にどこに居たのか、何をしていたのか何も分からないまま、要するに記憶喪失のまま、現在はこの町にある酒場で働いている。
「シェラ! はやくぅー!」
「ジェシカ、いい加減料理くらいまともにできるようになってくださいよ! 私の仕事が増える一方じゃありませんか!」
気の良い店主であるジェシカは、流浪の身であったシェラを快く迎えてくれて、酒場の二階に住まわせてくれている。
「もう、見てられない……。貸してジェシカ、このままじゃ料理じゃなくて謎の物体にしかならない」
調理場に居たジェシカからフライパンを奪い取ったのは、人狼のイスト。
彼はなかなか器用で料理から力仕事までなんでもこなせる貴重な人材だ。
「そろそろお得意さんが来ちゃうのよお! シェラ! はやくこっち来てー!」
「もうっ、エディアナさんだってそう毎日毎日来るはずないじゃないですかっ」
林檎の入った木箱を置いたシェラが店内に戻ってくると、イストが小さくぼやいた。
「一年休まず……来てるけど……」
エディアナというのは同じヴァンピールで、絶世の美女だ。
職業は不明、住居も不明、ほとんどこの酒場に入り浸っているような気もする。
しかも、飽きもせず延々とシェラを指名するのだ。
「私は一人しかいないんですよっ!」
エディアナとよく似ていて、けれど幼さの残るシェラにも熱烈なファンは多い。
あっちこっちに引っ張りだこのシェラとしてはさすがに疲労もたまる。
……一年前まで、人間と魔物は戦争をしていたらしい。
きっとそのときに何かあって、シェラは記憶を失ったのだろうと思っている。
けれど前の王は死に、今の王、ドミニクという人狼になってからは随分平和になっている。
ひとの世界でも王位の継承があったようで、継いだのは三番目の王子だったリヒトという人物らしい。
「こんばんは……」
からんからん、と音を立てて、酒場の扉が開く。
入ってきたのはエディアナで、すぐにシェラを見つけてにこりと微笑む。
薄幸そうながら、いつ見ても美人だ。
シェラは彼女に駆け寄って、いつもの席に案内する。
「こんばんは、エディアナさん。今日は何になさいますか?」
「そうね……今日は……あぁ、そうそう、シェラ、今度この町にも今の陛下がいらっしゃるようだけど、知っていて?」
カウンター席に座り、メニューを眺めていたエディアナが唐突にそう言った。
シェラは氷水の入ったコップを彼女の前に置いて、盆を抱えたまま首を傾げる。
「え? そうなんですか? こんな田舎に?」
「ええ。困ったものよね……あのひとは、いつまでたってもお嫁さんをとらなくて」
なぜか、器用にフライパンを操っていたイストの手元が狂った。
けれど失敗することなく持ち直し、彼は不満そうにエディアナを見やった。
「べつに、ぼくたちの王は血統で決まるわけじゃないから……どちらでもいいんじゃないの」
「あらあらまぁ……もしかしてイストったら……シェラのこと……」
「違う、断じて、違うけど、そうじゃないけど……」
いったい何の話だろうとシェラは首を傾げたままだった。
からかうエディアナは楽しそうで、イストは少し頬が赤い、色白なのでよく分かる。
戸惑っていると、今度はジェシカが腰に手をあてて不満そうに口を開いた。
「あー! いやだいやだ、うちの酒場から売り子を掠め取って行ったりしないでしょうねあの男」
「売り子って……何、言ってるんですかジェシカ」
それに該当するのはシェラしか居ない。
あまりにも突拍子もない言葉にシェラはジェシカを睨み、腰に手をあてて言う。
「馬鹿なことばかり言わないでくださいよ。エディアナさんみたいな美人ならともかく、私のような者をどうして陛下が気にいるっていうんです。さぞ言い寄ってくる美女が多いことでしょうに」
けれどジェシカはあきれたような顔で答える。
なんとなく子供扱いされた気分だ。
「馬鹿ねえ、美人ならなんだっていい男ばっかりじゃないのよ」
「だからって、私はないでしょう」
この話はおしまいだと言うように、シェラは新しく入ってきた客に駆け寄る。
「いらっしゃいませ――」
けれど彼女は、その人物を見て固まった。
銀色の髪に、翡翠の瞳を持つ見知らぬ青年。
初めて出会うひとなのに、なぜか視線が釘付けになって離せない。
「……どうかしましたか?」
青年に声をかけられて、我に返ったシェラは慌てて彼を店内に案内する。
「い、いいえ! すみません、席はこちらへ」
「ありがとう」
カウンター席の近くにあるテーブルに案内すると、なぜかジェシカが嫌そうな顔をして客に言う。
「アンタ、どーいうつもりよ。予定より早いじゃない、ってか、お忍び?」
知りあいなのだろうか?
シェラが疑問に思っていると、青年は困ったような顔をして笑う。
「やっと会えると思ったら、いてもたってもいられなくてね」
「はぁ……やっぱ奪っていくつもりなんじゃない」
ジェシカと青年を交互に見て、シェラはまた首を傾げる。
(知りあいなんでしょうか……というか、なぜでしょう、あのひと……)
知らないひとだ。
今まで一度も会ったことがない。それなのに、胸が締めつけられるような感覚を覚える。
(っ……私ったら、何を考えているんでしょう)
吸血本能が疼く。彼の血が欲しいと。
いつもは薬で補っていて、それに何の問題も無かった。
特別誰かの血が欲しいなんて思ったことはないのに。
吸血種としてはおかしな話だが、シェラはあまりその行為が好きではなかった。
なんだか、気持ちが悪くて。
そのはずなのに、今はどうしてか……彼の血が欲しくてたまらない。
ごくりと喉を鳴らしたシェラと少し離れたところで、ジェシカが大きな声で言う。
「いーやーだーわーっ、意外とファンが多いのよ? これを目当てに来る客も少なくないっていうのに! 売上が減ったらどーしてくれんのよ! どうせエディアナもいなくなっちゃうでしょ!」
「そうしたら、王城兵にでも転職したらどうだい?」
青年は冗談のように言っているが、真面目な提案であるようにも聞こえた。
二人はシェラにはよく分からない会話をしている。
ジェシカには戦う能力があるのだろうか?
それに、エディアナまで居なくなってしまうとは、どういうことだろう?
ジェシカの一方的な口喧嘩を受け流す青年を眺めていると、エディアナが小さく笑ってシェラに声をかけた。
「……シェラ、彼の血が欲しいの?」
「……え、えっ⁉ ま、まさか、そんなはずないでしょうっ」
思いがけない言葉にびくりと肩が震え、その反応にエディアナはなぜか楽しそうに瞳を細めた。
「そうよね、あなたは彼の血しか知らないし、きっと知りたくもないのでしょうね……」
「え?」
彼の血しか知らない、とはどういうことだろうか。
シェラは誰の血も自ら吸ったことはない。
けれど思えば、それも吸血種としてはおかしな話だ。
そうなると、以前に……記憶にない頃に、誰かの血を吸った……?
考え込んでいるシェラに、エディアナは薄く微笑んで言う。
「明日になれば分かるわ。これからもわたくし、あなたの傍で支えるから……頑張りましょうね?」
「えと……はあ……」
今日は分からないことばかりだ。
シェラはもう一度、ジェシカに一方的に怒鳴られている青年を見やる。
鼓動が高鳴るような不思議な感覚に、頬が熱くなる。
思わず視線をそむけそうになると、彼の翡翠の瞳がこちらを見て、また大袈裟に驚いてしまう。
普段ならこんなことはないのに、どうしていいか分からずに固まっていると、彼はふっと優しい笑みをうかべた。
「っ……!」
それにシェラは耳まで赤くなり、一気に顔をそむける。
(これって……私、まさか……っ)
――恋?
一つの可能性に行き当たって、まさかと首を横に振る。
初めて会ったひとに、何も知らない相手に、一目惚れだなんて――。
あのひとはいつまでここに滞在しているのだろう?
もしかして、たった一日だけだろうか?
(で、でも、どこに住んでいるかなんて……初対面では……聞けませんし……)
どうしてか離れがたく感じて、けれど結局、シェラは最後まで彼の素性をたずねる勇気を持てなかった。
そして、眠れぬ夜を過ごした翌日に彼女は、最悪の事実を目の当たりにする。
◇◇◇
「あの……ひと……」
他の住人も町の広場に出てきた朝、そこには昨日の青年も居た、そう……王城の兵士に囲まれて。
彼の立場はつまり、王、なのだ……おそらく。
愕然と立ちつくすシェラの後ろから肩に手を置いて、そっと耳元で囁くのはエディアナだった。
「驚いた? 彼が今の王であるドミニク。でもきっと、あなたにはローレントと呼んでほしいのじゃないかしら? 今はもう、あなたや一部のひとしか知らない名前だものね」
「は……?」
シェラには? 自分とあの王様にいったいなんの関係があるというのだろう。
そもそもローレントというのはなんだろう? 偽名だろうか?
それをどうして、シェラが?
疑問に思い、背後のエディアナを見て唇を開く前に、人影がさして彼女は前に向き直った。
そこには、昨日の青年が……ローレントが立っていた。
何かやらかしたのだろうかと青ざめるシェラと反対に、彼は優しい表情をしている。
「え、あ、の……」
どうしていいのか分からずに固まっていると、ローレントは小さく笑って、シェラの細い身体を抱きしめた。
驚きに悲鳴をあげそうになったが、その腕がかすかに震えていることに気づいて疑問のほうが勝る。
なぜだろう、なつかしささえ感じる不思議な香りとぬくもりだった。
彼はシェラを抱きしめたまま、寂しそうに、つらそうに……呟いた。
「やっぱり……思いだしてはくれない、か」
「……え?」
ゆっくりと身体が離れたかと思えば、今度は膝裏を抱えて抱きあげられる。
あまりのことに思考もついていかない。
薄紫の瞳を見開くシェラに、彼は笑みをうかべて静かに言う。
「私の妃になってほしいと言ったら……今のきみは困るかな」
「……きさ……き……」
彼の言葉を反芻して、シェラの頬が一気に赤くなる。
唇を震わせて、彼女は思いきり彼から離れようとその肩を押したが、びくともしない。
「な、な、な、なにをおっしゃるんですかっ⁉」
ローレントはそのままシェラを抱えて歩きだす。
そのうしろに、なぜかエディアナが続く。
何も分からないまま、シェラは自分を抱える青年を見あげた。
その視線に気づいたのか、彼はシェラに視線を向けると困ったような微笑みをうかべる。
「残念ながら、きみに拒否権はない。このまま一緒に城に来てもらうよ」
今度は別の意味で愕然としているシェラに、隣に並んだエディアナが声をかけた。
赤い唇が優雅に笑みを描き、細く華奢な指先がシェラの頬をつつく。
「まぁ、陛下に見初められるなんて光栄ね……シェラ」
そのうしろではジェシカが額に手をあてて盛大なため息を吐き、イストはどこか落ちこんでいるようだった。
(見初め……られ……って、どういうことですかっ⁉)
波乱の予感しかしない現状。
シェラがもう一度ローレントという青年を見あげると、彼は優しくシェラを見つめていて、視線が絡みあってまた頬が熱くなる。
(恋……? 恋、なんですか? いいえ、それにしたって、私のような田舎娘がつりあうわけないじゃないですかっ!)
手の届かないひとだと、つい先程思った。
同時に、今は彼の腕の中にいる。
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