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20・幸せを願って
しおりを挟む「おはよー」
気だるい挨拶とともに、六年二組の教室に入る。どこの小学生もみんなそうかは分からないけれど、面白いことが次から次へと起こるから、少し前のおかしなことなんてすぐに風化する。だからもう、アヤコに乗っ取られたあの日の出来事を茶化すヤツはいない。
「それで、最近はどんな感じ?」
あの日の出来事をきっかけに変わって、今も続いていることといえば、教室の中でこうしてレイに気軽に話しかけられるようになったことくらい。
「頑張ってるよ。必死になって黙ってる。だけど、ちょっと困ってる」
「困ってる? どんなこと?」
「乗っ取ってしゃべりかけたり、口出ししたりはしないんだけどさ。ひたすらに『幸せになってね、わたしの分まで幸せになってね』って唱え続けててさ。オレの頭が狂いそう」
「うわ……重っ」
レイに引かれるって、なかなかだよ? ばあちゃん。
「おはよーっす!」
「お、おはよー、ミツキ」
「お、朝から成仏会議?」
成仏、という単語をこんなににこやかに発する人を見る日が来るだなんて、少し前の、アヤコに体を乗っ取られる前の自分は思ってもみなかったな、とマコトは思う。
「どんな? 天国行けそう?」
「マコトが地獄に落ちそう」
「……は? なにゆえ?」
「なんかね、おばあちゃんが頭の中で幸せを祈りまくってるんだって。それで、その祈りが重すぎて、頭狂いそうって」
「そりゃあ大変だぁ」
ミツキは全然焦った様子なく、楽しそうに言う。
「まぁ、本物に会ったことないくせに言うのもアレかもしれないけどさ。マコトのばあちゃんにしては頑張ってるんじゃないの?」
「ね。マコトのおばあちゃん、頑張ってるよね。マコトももうひと頑張りだね~」
まったく、ふたりはのん気でいられていいな。
マコトは机にだらんと突っ伏して、はぁ、と大きく息を吐いた。
――あ、あらあらあら!
呪いのような祈りが途切れて、これまでよりも遠く感じられる、小さな悲鳴が響いた。
――マコちゃん、マコちゃん。
帰りの準備をしているとき、アヤコに声をかけられた。
――なに? ばあちゃん。
いつも通りに返事をしたつもりだけれど、いつも通りの返事が返ってこない。
マコトは次の言葉を待ちながら、アヤコの姿が見えたなら、きっと両手の人差し指をつんつんとぶつけあっていることだろうと考えた。
――わたし、リエちゃんに会いたいの。ほら、保健室の。
――ああ……でも、特に用とかないんだよなぁ。
――じゃあ、マコちゃん。その辺で転んで!
バチン!
「マコト?」
レイが、変なものを見るときにするような冷たい目でマコトを見ながら言った。
「……蚊がいた」
「え……」
「……気がした」
「はぁ……」
「先生、心が痛いです!」
そう叫びながら、マコトは保健室に駆けこんだ。先生はこっそりと食べようとしていたらしい最中を強引に口の中に詰め込んで、お茶でそれを流し込みながら、
「どうしたの? 何があったの?」と叫び返した。
「ばあちゃんが、先生に会いたいから転べって言うんです!」
「……はぁ」
「ひどくないですか? 孫に転んで怪我しろだなんて」
「ま、まぁ、転んで怪我はしてないんでしょ? 心は怪我しているみたいだけど」
「はい。心以外は無事です」
「それなら、まぁいいんじゃない? ほら、会えたし?」
リエの思考回路の半分以上は、自分のやけどしかけたらしい舌や喉の心配に割かれているようだ。餌にありついた魚のようにパクパクと口を動かして痛みをごまかそうとする様を、マコトは少し呆れながらただ見ていた。
「……はっ! ごほん、ごほん」
痛みはだんだんと恥ずかしさに変わったらしい。リエは咳ばらいをすると、鼻歌をうたいながら新しいお茶を淹れ始めた。急須に茶葉を、いち、にい、さん。それからお湯をジャー、ジャー、ジャー。お盆の上には、湯呑を三つ。
「さて、それじゃあ、お茶会をしましょうか。ね、アヤちゃん」
リエが微笑む。マコトは胸がじゅわ、と熱くなるのを感じた。抵抗しようだなんて、少しも思えなかった。だから、体をすっと譲った。
『リエちゃん、覚えていてくれたの?』
「もちろん。忘れるもんですか! さぁ、お茶をどうぞ。あと、最中も。これ、おいしいんですよ。口の中にはりついたり、喉に詰まらせたりしないように気をつけてくださいね」
マコト――いや、アヤコは微笑み、うんうんと頷くと、最中に小さくかじりついた。
『おいしいぃ』
「でしょー?」
するとアヤコは最中を置き、ぐすんと鼻をすすった。そして、ずびぃとお茶をすすって、
『リエちゃん。わたし、先に進むことにしようって、決めたのよ』と言った。
「先に進む?」
『最近ね、マコちゃんと、マコちゃんのお友だちに言われてね、娘に口出しするのをぐっとこらえて、ひたすらに〝幸せになってね〟ってお祈りしているの。〝わたしよりも幸せになってね〟って、頭がおかしくなりそうなくらい、お祈りしているのよ』
なんだ。ばあちゃんも頭がおかしくなりそうだったのか。
『それで、わたしより幸せになるだなんてずるいって思ったりもしてきてね』
なんだそれ。
『ずっと祈っていたら、幸せを祈ってばかりの自分が可哀そうになってきてね』
……はい?
『やっぱり、わたしのほうが幸せになろうと思って』
……あれ?
『そのためには、この世にしがみついていちゃいけない気がしてきたの。だから、ぼちぼち成仏しようかなって』
「……はぁ」
ばあちゃん。優しいリエちゃんですら、ちょっと呆れているよ?
『娘とは、いつかまた、あの世か来世で会えたらなって。それで、その時は――もっと普通の親子みたいにしゃべれたらいいなって思っているの』
「そうですか。そうなることを祈っています」
オレも祈っているよ。
『ありがとう、リエちゃん。お別れのあいさつに来られたから、もう心残りはないわ』
「寂しくなりますね」
オレは清々するけどね。
『ありがとう。そう言ってもらえて、わたし、うれしいわ』
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