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第1章「夏」
3.積乱雲キューピッド(4)
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しばらく見つめ合った後、沈黙に耐えかねた私は「箱が欲しかったら、そう言ってくれれば良かったのに……」とぼやいた。
「ねえ、先生。私……気球で〈宇宙の渚〉目指してみようかな、って思った」
まっすぐ前を見て、はっきりと伝えた。
「そう。でも、俺に気を遣う必要んてないからね」
「ううん、大丈夫。私……自分のためにやろうって決めたんです」
確かに絶対の自信があるわけじゃない。でも、もしかしたら上手くいくかも、そんな小さな希望が私の背中を押していた。
「お姉ちゃんと先生がまだしてないことが、してみたいの」
亡くなったお姉ちゃんとの思い出に縛られ、身動きの取れない先生。自分は姉ほど愛される資格がないと考え込む私。お姉ちゃんの重力にとらわれた私たち二人を新しい世界へ連れ出すのに、気球ほどふさわしいものはない。そう直感したのだった。
「……わかった。だったらさ、霜連。ひとつだけ約束して」
「何でしょう?」
「もし俺がまた綾のことで、君を不安にさせるようなことがあったら……容赦なく叩いてくれ」
真剣な面持ちで言う先生に、私は思わず吹き出した。
「ぷっ……何それ先生! あはは!」
「ショック療法さ。これくらいじゃないと、俺の病気は治りそうにないからね」
「あはは、たしかに! でもその発想、ちょっと子供っぽくないですか?」
「合理的ライフスタイルと言ってもらおうか」
「はいはい、またでた」
普段のリズムに戻ってホッとしたのもつかの間のこと。
「とにかく、今日の分はこれで」
そう言って先生は身体を屈め、右の頬を突き出して目を閉じた。
「で、できるわけないじゃないですかっ」
「ひと思いにやってくれよ」
押し問答が続く。
「無理ですってば」と強く言い返しても、「練習のつもりで」「お願いだから」「霜連にしか頼めないんだ」と先生は一歩も退こうとしない。雨に打たれて冷えきった私の手は、迷ったままポケットの中にいた。
「ーーもう、わかりました。じゃあ軽ーく、ですからね」
私が根負けして言うと、先生はいよいよ強く目を瞑った。微動だにせず、ただその時を待つばかり。
「いいぞ、頼む……!」
そっと差し出された頬に、恐る恐る手を添える。覚悟を決めて、深く息を吐いた。
長くて美しいまつげ。そう感嘆しながら、思う存分先生の顔を見つめる。こんな機会はめったにない。だからここぞとばかりに、その切れ長の瞳や凛々しい眉を、心ゆくまで目に焼き付けた。すると不思議と、勇気が湧いてくるのを感じた。
「……練習、ですからね」
言い聞かせるように呟き、先生の顔を引き寄せる。ゆっくりと頬に唇を押し当てた。
(す、すばるくん……)
「え……?」
まるで電流が走ったかのように、先生と視線がぱっと合う。こんな大胆なことをしてしまうなんて、我ながら信じられない。この先の展開なんて何も考えていなかったのだ。いつも通りの、無計画で場当たり的な行動。
「あ、あっ、あの、その……」
せっかく自分から仕掛けておきながら、私の顔はめちゃくちゃ暑くなっていく。「ほっぺだからノーカン」なんて何度も自分に言い聞かせるが、頬の熱はどうしても冷めてくれない。
「霜連……」
先生が優しい表情で、そっと私の肩に手を置いた。
「ほら、雨が上がったよ。見て」
先生に促され、顔を上げる。夕焼けとは反対の空に、見事な虹が悠然とかかっていた。
夕暮れ時の帰り道、私は助手席から一言も発することなく、ただひたすら車窓の景色を眺めてばかりいた。先生の顔を直視する勇気が、まだ私にはなかった。
「ねえ、先生。私……気球で〈宇宙の渚〉目指してみようかな、って思った」
まっすぐ前を見て、はっきりと伝えた。
「そう。でも、俺に気を遣う必要んてないからね」
「ううん、大丈夫。私……自分のためにやろうって決めたんです」
確かに絶対の自信があるわけじゃない。でも、もしかしたら上手くいくかも、そんな小さな希望が私の背中を押していた。
「お姉ちゃんと先生がまだしてないことが、してみたいの」
亡くなったお姉ちゃんとの思い出に縛られ、身動きの取れない先生。自分は姉ほど愛される資格がないと考え込む私。お姉ちゃんの重力にとらわれた私たち二人を新しい世界へ連れ出すのに、気球ほどふさわしいものはない。そう直感したのだった。
「……わかった。だったらさ、霜連。ひとつだけ約束して」
「何でしょう?」
「もし俺がまた綾のことで、君を不安にさせるようなことがあったら……容赦なく叩いてくれ」
真剣な面持ちで言う先生に、私は思わず吹き出した。
「ぷっ……何それ先生! あはは!」
「ショック療法さ。これくらいじゃないと、俺の病気は治りそうにないからね」
「あはは、たしかに! でもその発想、ちょっと子供っぽくないですか?」
「合理的ライフスタイルと言ってもらおうか」
「はいはい、またでた」
普段のリズムに戻ってホッとしたのもつかの間のこと。
「とにかく、今日の分はこれで」
そう言って先生は身体を屈め、右の頬を突き出して目を閉じた。
「で、できるわけないじゃないですかっ」
「ひと思いにやってくれよ」
押し問答が続く。
「無理ですってば」と強く言い返しても、「練習のつもりで」「お願いだから」「霜連にしか頼めないんだ」と先生は一歩も退こうとしない。雨に打たれて冷えきった私の手は、迷ったままポケットの中にいた。
「ーーもう、わかりました。じゃあ軽ーく、ですからね」
私が根負けして言うと、先生はいよいよ強く目を瞑った。微動だにせず、ただその時を待つばかり。
「いいぞ、頼む……!」
そっと差し出された頬に、恐る恐る手を添える。覚悟を決めて、深く息を吐いた。
長くて美しいまつげ。そう感嘆しながら、思う存分先生の顔を見つめる。こんな機会はめったにない。だからここぞとばかりに、その切れ長の瞳や凛々しい眉を、心ゆくまで目に焼き付けた。すると不思議と、勇気が湧いてくるのを感じた。
「……練習、ですからね」
言い聞かせるように呟き、先生の顔を引き寄せる。ゆっくりと頬に唇を押し当てた。
(す、すばるくん……)
「え……?」
まるで電流が走ったかのように、先生と視線がぱっと合う。こんな大胆なことをしてしまうなんて、我ながら信じられない。この先の展開なんて何も考えていなかったのだ。いつも通りの、無計画で場当たり的な行動。
「あ、あっ、あの、その……」
せっかく自分から仕掛けておきながら、私の顔はめちゃくちゃ暑くなっていく。「ほっぺだからノーカン」なんて何度も自分に言い聞かせるが、頬の熱はどうしても冷めてくれない。
「霜連……」
先生が優しい表情で、そっと私の肩に手を置いた。
「ほら、雨が上がったよ。見て」
先生に促され、顔を上げる。夕焼けとは反対の空に、見事な虹が悠然とかかっていた。
夕暮れ時の帰り道、私は助手席から一言も発することなく、ただひたすら車窓の景色を眺めてばかりいた。先生の顔を直視する勇気が、まだ私にはなかった。
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