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第1章「夏」

3.積乱雲キューピッド(5)

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 日が沈み、夜の帳が下りた。
 カレーの香ばしい匂いが、コテージ中に漂っていた。鼻の奥をくすぐられる感覚に、私は思わず深呼吸。流星観測の前にまずは腹ごしらえだ。
 今夜のメニューは、天文部秘伝のレシピで作ったカレーと、シャキシャキのレタスサラダ。デザートには、大地が差し入れてくれたスイカも用意されている。

「いっただきまぁーす」

 明るい声がコテージに響き、4人で一斉にカレーを頬張った。
 ルウの辛みと玉ねぎの甘みがせめぎ合い、時々出会うトマトの酸味が爽やかな夏野菜カレー。夕食が一段落つくと、陽菜による事情聴取が始まった。

「それで、二人はなんでケンカしてたの?」
「ーーチョコレート」

 と私は小さな声で答えた。

「はい? チョコレート?」

 陽菜が眉をひそめる。

「カレーにチョコレートを入れるの。天文部の秘伝レシピ……。でも私、うっかり買い忘れちゃって。それで、羽合先生がたくさん買ってたのを知ってたから、ひとつ分けてくださいってお願いしたんだよ。そしたらさ――」

 私が言葉を濁したのを見計らったかのように、羽合先生が口を挟んだ。

「あ、ああ。雨宮。ちょっといいかな。続きは俺から説明しよう。実は俺は応募券を集めてたんだ。それで、どうしても欲しい商品が当たるキャンペーンがあってね。でも、霜連には知られたくなかったから…………」
「はぁ……呆れた。つまり、チョコレートの中身が欲しい澪と、箱だけ欲しい羽合先生が、お互いの事情を知らずに、チョコレートを取り合ったってこと?」
「「…………はい」」

 私と先生は同時に答え、うなだれた。陽菜は腰に手を当て、やれやれと頬を緩めた。

「まぁ、『雨降って地固まる』ってことで良しとしましょう。何があったか知りませんが、ふたり仲直りして帰ってきたみたいですしね」

 陽菜はクスクス笑いながら言った。

「ちょっと、やめてよ陽菜!」

 私は慌てて言い返すと、麦茶を一気に飲み干した。隣の羽合先生も、照れくさそうに目を逸らしている。
 私は大地と陽菜をコテージに残し「望遠鏡の準備、してくるね」と外に出た。

 * * *

「シーイング、良さそうですね」

 私が夜空を見上げると、後ろから続いてきた羽合先生も深呼吸して空を見上げた。辺りには虫の合唱が響き渡り、夕立で洗われた空気は澄み切っていた。

「大地と陽菜には、何を見せましょうかね?」
「うーん、木星なんかどうかな?」
「あ、いいかもしれませんね」

 羽合先生が手に持った懐中電灯の赤い光に照らされながら、私はいそいそと望遠鏡のセッティングを始めた。先輩に教わった手順を思い出しながら、念入りに三脚を固定し、赤道儀と鏡筒をセットする。

「でも私、土星の輪も好きなんです。あと、星雲めぐりとか、したいですね」「ああ、霜連の好きなようにすればいいよ」

 慎重に鏡筒の向きを微調整し、重りを増減させてバランスを取る。

「よし、これでOKかな」

 念押しするようにクランプを強く締め、続いてファインダーをのぞいて北極星を捉えた。10分ほどでセッティングを終えると、羽合先生が感心したように言った。

「さすが、手慣れたもんだね」
「えへへ……。まぁ、部員はいないけど、私、部長ですから。しっかりしないと」

 そう言って腰に手を当て、満天の星空を見上げる。夏の大三角形の真ん中に、天の川の淡い光が流れる。

「先生のおすすめは?」
「うーん、強いて言うなら、こと座のイプシロン星かな」
「うわ、なにそれ? マニアックぅ」
「二重の二重星。通称、ダブル・ダブルスター。2つの星がペアになってて、そのペアがまたペアになって、合計4つの星が並んでる。まるで、星たちが仲良く手をつないでいるみたいにね」

 久しぶりの天文トークに、先生も嬉しそうだ。

「わぁ、素敵…………。なんだか私たちみたい? みんな仲良しで、一緒に星を見上げてる」
「ふふっ。じゃあ、早速コテージにいるもう一組の星たちを呼んで」

 羽合先生からスマホを借り、陽菜にメッセージを送信。「望遠鏡の準備はバッチリよ!」と報告すると、ゆっくりとレジャーシートに腰掛けた。
 満点の星空を見上げていると、不意に羽合先生が口を開いた。

「チョコレート、カレー用だったんだね。すまん、気づかなくて」

 申し訳なさそうに、先生は深々と頭を下げる。

「気にしないでください。私も、先生が懸賞に応募するためにチョコを集めてたなんて知らなかったし。おあいこ」
「本当に申し訳なかった。君を怪我させてしまうなんて……」

 羽合先生の目には、深い後悔の色が浮かんでいる。

「ううん、大丈夫です。それより…………私、実は先生に嘘ついちゃった」
「えっ?」

 横になっていた羽合先生が、飛び起きるように上半身を起こした。

「あのカレーのチョコレート、実は天文部の秘伝レシピなんかじゃないんです」
「どういうこと?」
「実は、私の家の秘伝の隠し味なんです。カレーにチョコを入れるのは。えへへ」

 私は膝を抱えながら、うつむきがちに先生を見上げた。

「だって先生、前に私の家のカレーが好きだって言ってくれたじゃないですか。ねぇ、最後に食べたのっていつだったか、覚えてます?」

 私がクスッと微笑むと、先生は何かに気がついたようにぽんっと膝を打った。

「ああ……そうか。そうだったのか。ほんとすまん。気づかなくて」

 羽合先生は申し訳なさそうに頭を掻きながら、穏やかな口調で謝った。

「私が卒業して、天文部も無くなって、先生も異動して。そしたら先生は、この天文部のことも、私のことも、すぐ忘れちゃうのかなぁって」
「霜連……」
「あのね、先生。知ってる? 味やにおいには、記憶を呼び覚ます力があるんだって。だから私、先生が大好きな私の家のカレー。その思い出に、今日を重ねられたらいいなって……。ずるいですよね、私」
「ーーそんなことないよ。ありがとう」

 羽合先生の瞳は潤み、まるで満天の星を映し込んだように輝いていた。
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