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8、魔法は奇跡
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下校のチャイムが鳴って、割り当てられた掃除当番をこなし、少しだけクラスメイトの女の子と雑談を交わして、アリサは学校を出た。
昼休みに図書室で少しだけ眠ってしまったせいか、頭はいつもよりも二割増しくらいで覚醒しているような気がする。夢を少しだけ見ていたように思うけれども、どんな夢だったかはうまく思い出せない。けれどもまあ、悪い夢ではなかったと思うので、それはそれでいいだろう。
学校のすぐそばにあるコンビニで紙パックのレモンティーを買って、それを飲みながら、校舎の裏側を流れる宇う穂ほ馬ま川の河川敷をゆっくりと歩く。宇穂馬川は秋馬市の中心を流れる一級河川で、この地方では最も大きな川だ。長く伸びた草がなびいて、風の流れがよくわかる。水面に西日が反射して、それが眩しくて少し目を細める。陽が傾き、金色の草原が広がるこの光景が好きで、アリサは放課後によくこの河川敷に訪れる。
校舎のどこかから、恐らくは音楽室から流れてくる吹奏楽部のホルンとクラリネットの音がこの河川敷まで届いてくる。
水彩絵の具の絵画のように、淡く軽やかな景色。
少し、この空気を感じていたくて、楽しみたくて、アリサは河川敷の階段に座り込む。日が沈み切るくらいまではこの場所に座っていよう、と。
「やあ、柏木」
けれども、その楽しみはあまりにあっけなく遮られてしまう。
「なによ、桐宮くん」
アリサは振り返る。
「いや、ちょっと話したいことがあったからさ」
そう言って、拓光はアリサの隣に座る。その距離感が気になって、アリサは拳ひとつ分だけ拓光から離れる。
「で、なによ。話したいことって」
「ねえ、キミが俺のことを嫌っているのは知っているけれど、ちょっと辛辣過ぎない? もう少しフレンドリーに、とまでは言わないけれど、せめて普通に……」
「帰るわよ?」
「わかったわかった、わかったから、帰らないで」
と、拓光は慌てるけれども、アリサは別に、拓光のことが嫌いなわけではない。ただ、苦手なだけなのだ。どう接すればいのかわからない。自分のことを魔女だと知った普通の人間は彼が初めてだったから、うまく距離感を測ることができないだけだ。
これまでにアリサのことを魔女だと知っていた人間は、育ての親代わりの元魔女と、その魔女の知り合いで、魔女同盟に所属する二人の魔女。全部で三人だ。もちろん、魔女同盟に所属する魔女にその存在を知られているということは、アリサという魔女は魔女同盟のデータベースに記録されているはずだ。きっと、この三人以外にもアリサのことを魔女と認識している魔女も、魔女同盟の内部にはいるのだろう。けれども、実際に面識があり、交流があったことのある人でアリサのことを魔女だと知っているのはこの三人だけだ。彼女たちは魔女だけれども、拓光は当然、魔女ではない。彼に対しては、どこまで踏み込んで話していいのかが、まだわからない。
彼が魔女の世界を知り、踏み込んでしまうことで、危険にさらされるリスクはあるのかどうか。きっと、何も知らないよりは、知っている方がリスクはあるに違いない。魔女の中には、その存在を知られたというだけの理由で一般人を殺してしまうような人たちの方が圧倒的に多いのだから。
ああ、いや、でも今やもうそんなことを気にする必要もないのか。
アリサは一度持ち上げかけたお尻をもう一度下ろす。
「で、なに?」
「ロンドンの事件で今、魔女が世界中から注目されているだろう?」
「まあ、そうだね」
ロンドンの事件の報道自体は日に日に少なくなってきている。状況が硬直しつつあることが原因なのだろう。個々の能力では圧倒的な魔女だけれども、数では人間の方が圧倒的に多い。さらに、一週間が経ち、お互いに疲弊しつつあるのも要因にひとつだろう。動きがなければ、報じるものもない。代わりに増えたのが、魔女という存在そのものにフォーカスを当てた報道だった。魔女研究の第一人者と呼ばれる、魔女たちのコミュニティーの中では聞いたこともない名前の、白髭の大学教授がひっきりなしにテレビに出ていたり、自らを魔女と名乗る人が、夕方のワイドショーに多く出演した。彼女たちが本物の魔女である可能性は低いだろうけれども。そのうち、魔女が普通にバラエティ番組に出たり、魔女のアイドルグループが結成される日もそう遠くはないのかもしれない。
今、世界には確実に、そして急速に魔女という存在が認知されつつある。
「昨日もテレビに魔女を名乗る女の子が出ているのを見たよ」
「ああ、アレね。私も見たわよ。まあ、あんまり魔女っぽくなかったけど。テレビ局の仕込みじゃない?」
「そんなのわかるんだ」
「わからないわよ。ただの勘」
「ふうん、魔女の勘って当たるのかな。けっこう当たりそうだな。まあ、とにかく今、徐々に魔女というものは世の中に浸透しつつある。もう、キミが魔女であることを隠し続ける必要性がなくなる日もそう遠くはないんじゃないのかな」
「さあ、どうだろう。確かに、一週間前と今とでは、状況は劇的に変わったかも知れない。それでもやっぱり、魔女であることを晒すのはリスクがあると思う。生活の変化は避けられないだろうし、多少なりとも好奇の目で見られることになるだろう、ってことは想像に難くない。私は、今まで通りの暮らしでいい。変化なんて求めていない。それになにより、今まで普通に接してくれていた普通の友達が、普通に話し掛けてくれなくなってしまうかもしれないということが恐ろしい」
「ああ、なるほど。それはまあ、うん、確かにちょっと怖いかも」
自分を取り巻く環境が変わるということは、当人にとっては世界そのものが変わってしまうのと同じことなのだろう。いわば、異世界に放り込まれるようなもので、それを想像して、拓光も少し、肩を震わせる。
それから少し、沈黙が続く。
拓光は川の向こう岸を眺め、アリサは沈みつつある夕日を観察した。陽の光は徐々に赤みを増して、刺してくる。
「で、話したいことってそれだけなの?」
「いや、話したいことはいくらでもあるさ。キミとはこの春に出会ったばかりで、俺はまだ君のことをよく知らない。好きな映画、嫌いな食べ物、よく行くお店、記憶に残っている旅行先。まだまだ知りたいことはたくさんある」
「なにそれ、まるでストーカーね」
「はは、確かにそうかも。でも、俺が知っているのは、魔女柏木アリサの姿ばっかりなんだよ。普通の女の子としての柏木アリサのことをもっと知りたいんだ」
その二つを知ってこそ、本当の柏木アリサを知れるんだ、と拓光はアリサの瞳を覗き込む。
夕日は完全に沈み、刺すような光は消え、辺りには淡いオレンジが広がる。
「別に、魔法を使わない私なんてただの平凡な高校生よ」
「それでいいんだよ。キミは魔法を使える。けれども、普通の女の子でもある。魔法を使えることは特別なことかもしれないけれども、それが、キミ自身が特別であることの証明にはならない。魔法を使えるけれども、それと同時に普通の女の子である柏木アリサのことを、俺は知りたいんだ。言っただろう? 俺はキミと友達になりたいって」
「貴方が何を言いたいのかよくわからない」
と、切って捨てるようにアリサが言って、拓光は息を吐き出すように笑った。
「うん、俺も自分で言っててよくわからない」
「なによ、それ」
拓光の笑みにつられて、ついアリサも笑ってしまう。
「とにかく、お友達になりましょう、ってこと。そのために、俺はもっとキミのことを知りたいんだ」
その言葉を聞いて、アリサはため息をつく。
拓光のことは苦手だ。けれども、嫌いではない。それに、きっと悪い人ではない。むしろ、短い間だけれども、その言動を見る限りではいい人なのだろう、と思う。嫌いではないのなら、友達になれるのだろうか。
少し、微笑んで首を振りながら、口を開く。
「わかったわよ、私の負け。別に今すぐ友達になる、とはいわないけれども、少しずつ、お話していきましょう。私のことを教えてあげる」
「よかった。ありがとう」
「でも、もちろん条件がある」
そう言って、アリサは人差し指を立てる。
「条件?」
「そう。貴方が目指すのは私との友人関係でしょう?」
「そうだね」
「なら、私ばっかりが話をするのはフェアじゃない。友達なら、お互いに五分と五分じゃないと。だから……」
「わかったよ、俺も、俺のことをキミに話す。それで五分と五分だ」
「そういうこと」
そうしてアリサが頷いたところで、拓光が右手を差し出す。その差し出した手の意図は明瞭で、アリサもそっと右手を出す。お互いに相手の手を掴み、握手をする。
思っていたよりもその手が固く、分厚くて、アリサは少し驚く。
思っていた通り、その手は柔らかく華奢で、拓光は少し微笑む。
もしかしたら、私は彼のような人を待っていたのかもしれない。魔女ではない、普通の人間が、魔女である自分のことを魔女と知りながら、それでもなお、親しくなってくれようとする人を。自らの秘密を打ち明けることの出来る、普通の友達が欲しかったのかもしれない。私が持つ最大の秘密をもうすでに知ってしまっている、平凡な彼とならば、そういった関係を築くことができる可能性があるのかもしれない。と、そう思いながらアリサはその手を放す。
「でもまあ、今日のところはもう帰ろうか。きっとすぐに暗くなる」
「そうね」
と、二人はほぼ同時に立ち上がる。
別に、今すぐに、急に仲良くなる必要はない。これから先も二人は同級生で、明日も明後日も会える。今はまだ友達ではなくても、会話を重ねることによって、少しずつ友達になっていくのかもしれないし、もしかしたら、そんな約束を交わした時点で、もうすでに二人は友達と呼べる関係性になってしまっているのかもしれない。友達というものの定義はよくわからない。
燃えるような赤いの西の空と、金色の月が浮かぶ、濃紺色の東の空。きっと今が、最も夕方と夜の境目の輪郭が曖昧な時間帯だ。
それじゃあまた明日、とアリサが言いかけたところで、拓光が右手を伸ばした。その指の先には、一人の少年。
「アレ、見える?」
少年は俯き、肩を落として泣いているように見える。
「泣いているのかな?」
と、アリサが訊ねた次の瞬間にはもう、拓光は駆け出していた。慌ててアリサもその後を追う。
少年は大きな木の下で泣いていた。声をあまり出さないようにして、それでも悲しくて仕方がない、といったふうに。年は七歳くらい。小学校の低学年くらいの子だ。そんなに小さな子供なのだから、泣くときくらいはもっと声を上げて泣いてもいいのに、とアリサは思ったものの、そもそも自分がこの子くらいのときにはどんなふうに泣いていたか思い出せなかった。
「どうしたの?」
と、拓光は腰を落として目線を少年の目の高さに合わせて訊ねる。
そんなもの、訊ねるまでもなかった。少年の隣には、大きな木。その枝のひとつに、黄色い風船が一つ、引っかかっている。きっと、掴んでいた風船の糸を手放してしまい、木の枝に引っかけてしまったのだ。
「風船……が」
弱々しく少年は呟く。
「そっか、お父さんかお母さんは?」
拓光は明るく少年に問いかける。少年に心配を掛けまいとしている風にも見えるけれども、彼は普段からこんな声のトーンなので、アリサにはその彼の声のトーンが演技なのかどうか、判別がつかなかった。
少年は指を伸ばした。そこには、大きなベビーカーを覗き込んでいる女性がいた。明らかに双子用の大きなベビーカー。きっと、この女性が男の子の母親なのだろう。ベビーカーの中にはこの男の子の弟か妹、もしくはその両方がいるのだろう。母親は必死にベビーカーの中に話し掛けている。赤ちゃんが泣き止まないのだろうか。確かに、双子の相手をするのは大変そうだ。お兄ちゃんが一人離れて、気付かないのも仕方がない。
「お母さんはこの風船のこと知ってるの?」
と、訊ねる拓光に、少年はかぶりを振る。
「わがまま言ってやっと買ってもらった風船なんだ……言ったら怒られる」
「そっか、じゃあ怒られる前に何とかしなきゃね」
そう言って、拓光は両腕を組んで、枝に引っかかった風船を眺める。とはいえ、風船の引っかかっている位置は、やや高く、幹からも離れている。簡単に取ることはできなさそうだ。下手に棒でつついたりしても、枝から外れて空高く逃げていきそう。
拓光の表情はやや厳しくなる。当然、ジャンプをして届くような高さなんかじゃない。男の子も、俯いたまま、目尻を拭い続けている。打つ手はなく、辺りは暗さを増してきている。このままこうしていても埒が明かない。と、アリサはため息を吐き出して決意する。
「ねえ、周りの人は誰もこっちを見てないよね?」
「え? まあ、そうだね。この子のお母さんはベビーカーの赤ん坊から目を離せそうにはいだろうし、他には釣りをしている人くらいで、誰もこっちには目を向けていないと思うけれど……」
と拓光が言い終えるのを待たずに、アリサは風船に向けて手を伸ばす。目を閉じて、静かに息を吐き出す。
風が吹いて、枝葉が揺れる。そして、ゆっくりと風船は降りてくる。まるで、そこにあるのが最も自然であるかのように、風船の糸はアリサの手に納まる。
「ねえ、顔を上げて」
アリサは少年に語りかける。少年は何度も拭っていた目尻を最後にもう一度だけ拭って顔を上げる。
「ほら、風船」
と、風船の糸を少年に持たせる。それを見て、少年は一瞬、驚いたような表情を見せてから、笑みを浮かべる。年相応の、無邪気な笑みを。
やっぱり、これくらいの年頃の子供は笑っているのがいい。
「ありがとう!」
そう言って、少年は母親の下へと走り出す。その後ろ姿を見送りながら、拓光は小さく手を振っている。手を振りながら、拓光は口を開く。
「今の、魔法だね」
「うん、まあね」
少年は母親と一緒にベビーカーの中を覗き込んでいる。風船はベビーカーのほぼ真上に浮かんでいる。
「やっぱり何度見ても凄いな、まったく理屈がわからないよ。魔法ならば本当に何でも出来てしまいそうだよね」
「当然じゃない。私は魔女だよ。誰よりも魔法の力を信じている。魔法は奇跡だよ。奇跡に理論も理屈も理由も必要ない」
そう、少しだけ誇らしげにアリサは言って、茶色いショートブーツのかかとを起点にくるりと振り返り、スカートを翻す。
魔法はこんな風に小さな子供を一人、笑顔にすることができる。ロンドンで起きている事件のように、多くの人を傷つける魔法の使い方は、決して正しい魔法の使い方とは言えないはずだ。一週間前に見た、雨雲を一気に消し去った、見ず知らずの魔女と思しき女性の、魔法らしきもの。あんな風に、たくさんの人たちの心を晴らし、笑顔にすることが、アリサの考える最も正しい魔法の使い方だ。
だって、魔法は奇跡で。
奇跡は、多くの人々を笑顔にするものなのだから。
そしてそれはつまり、魔法は多くの人々を笑顔にさせるために使うべき、ということなのだとアリサは思う。
「それじゃあまた明日ね、桐宮くん」
と、アリサは軽やかに帰路に就く。
うん、また明日、と拓光も返したけれども、その声が彼女の耳にまで届いたのかはわからなかった。
昼休みに図書室で少しだけ眠ってしまったせいか、頭はいつもよりも二割増しくらいで覚醒しているような気がする。夢を少しだけ見ていたように思うけれども、どんな夢だったかはうまく思い出せない。けれどもまあ、悪い夢ではなかったと思うので、それはそれでいいだろう。
学校のすぐそばにあるコンビニで紙パックのレモンティーを買って、それを飲みながら、校舎の裏側を流れる宇う穂ほ馬ま川の河川敷をゆっくりと歩く。宇穂馬川は秋馬市の中心を流れる一級河川で、この地方では最も大きな川だ。長く伸びた草がなびいて、風の流れがよくわかる。水面に西日が反射して、それが眩しくて少し目を細める。陽が傾き、金色の草原が広がるこの光景が好きで、アリサは放課後によくこの河川敷に訪れる。
校舎のどこかから、恐らくは音楽室から流れてくる吹奏楽部のホルンとクラリネットの音がこの河川敷まで届いてくる。
水彩絵の具の絵画のように、淡く軽やかな景色。
少し、この空気を感じていたくて、楽しみたくて、アリサは河川敷の階段に座り込む。日が沈み切るくらいまではこの場所に座っていよう、と。
「やあ、柏木」
けれども、その楽しみはあまりにあっけなく遮られてしまう。
「なによ、桐宮くん」
アリサは振り返る。
「いや、ちょっと話したいことがあったからさ」
そう言って、拓光はアリサの隣に座る。その距離感が気になって、アリサは拳ひとつ分だけ拓光から離れる。
「で、なによ。話したいことって」
「ねえ、キミが俺のことを嫌っているのは知っているけれど、ちょっと辛辣過ぎない? もう少しフレンドリーに、とまでは言わないけれど、せめて普通に……」
「帰るわよ?」
「わかったわかった、わかったから、帰らないで」
と、拓光は慌てるけれども、アリサは別に、拓光のことが嫌いなわけではない。ただ、苦手なだけなのだ。どう接すればいのかわからない。自分のことを魔女だと知った普通の人間は彼が初めてだったから、うまく距離感を測ることができないだけだ。
これまでにアリサのことを魔女だと知っていた人間は、育ての親代わりの元魔女と、その魔女の知り合いで、魔女同盟に所属する二人の魔女。全部で三人だ。もちろん、魔女同盟に所属する魔女にその存在を知られているということは、アリサという魔女は魔女同盟のデータベースに記録されているはずだ。きっと、この三人以外にもアリサのことを魔女と認識している魔女も、魔女同盟の内部にはいるのだろう。けれども、実際に面識があり、交流があったことのある人でアリサのことを魔女だと知っているのはこの三人だけだ。彼女たちは魔女だけれども、拓光は当然、魔女ではない。彼に対しては、どこまで踏み込んで話していいのかが、まだわからない。
彼が魔女の世界を知り、踏み込んでしまうことで、危険にさらされるリスクはあるのかどうか。きっと、何も知らないよりは、知っている方がリスクはあるに違いない。魔女の中には、その存在を知られたというだけの理由で一般人を殺してしまうような人たちの方が圧倒的に多いのだから。
ああ、いや、でも今やもうそんなことを気にする必要もないのか。
アリサは一度持ち上げかけたお尻をもう一度下ろす。
「で、なに?」
「ロンドンの事件で今、魔女が世界中から注目されているだろう?」
「まあ、そうだね」
ロンドンの事件の報道自体は日に日に少なくなってきている。状況が硬直しつつあることが原因なのだろう。個々の能力では圧倒的な魔女だけれども、数では人間の方が圧倒的に多い。さらに、一週間が経ち、お互いに疲弊しつつあるのも要因にひとつだろう。動きがなければ、報じるものもない。代わりに増えたのが、魔女という存在そのものにフォーカスを当てた報道だった。魔女研究の第一人者と呼ばれる、魔女たちのコミュニティーの中では聞いたこともない名前の、白髭の大学教授がひっきりなしにテレビに出ていたり、自らを魔女と名乗る人が、夕方のワイドショーに多く出演した。彼女たちが本物の魔女である可能性は低いだろうけれども。そのうち、魔女が普通にバラエティ番組に出たり、魔女のアイドルグループが結成される日もそう遠くはないのかもしれない。
今、世界には確実に、そして急速に魔女という存在が認知されつつある。
「昨日もテレビに魔女を名乗る女の子が出ているのを見たよ」
「ああ、アレね。私も見たわよ。まあ、あんまり魔女っぽくなかったけど。テレビ局の仕込みじゃない?」
「そんなのわかるんだ」
「わからないわよ。ただの勘」
「ふうん、魔女の勘って当たるのかな。けっこう当たりそうだな。まあ、とにかく今、徐々に魔女というものは世の中に浸透しつつある。もう、キミが魔女であることを隠し続ける必要性がなくなる日もそう遠くはないんじゃないのかな」
「さあ、どうだろう。確かに、一週間前と今とでは、状況は劇的に変わったかも知れない。それでもやっぱり、魔女であることを晒すのはリスクがあると思う。生活の変化は避けられないだろうし、多少なりとも好奇の目で見られることになるだろう、ってことは想像に難くない。私は、今まで通りの暮らしでいい。変化なんて求めていない。それになにより、今まで普通に接してくれていた普通の友達が、普通に話し掛けてくれなくなってしまうかもしれないということが恐ろしい」
「ああ、なるほど。それはまあ、うん、確かにちょっと怖いかも」
自分を取り巻く環境が変わるということは、当人にとっては世界そのものが変わってしまうのと同じことなのだろう。いわば、異世界に放り込まれるようなもので、それを想像して、拓光も少し、肩を震わせる。
それから少し、沈黙が続く。
拓光は川の向こう岸を眺め、アリサは沈みつつある夕日を観察した。陽の光は徐々に赤みを増して、刺してくる。
「で、話したいことってそれだけなの?」
「いや、話したいことはいくらでもあるさ。キミとはこの春に出会ったばかりで、俺はまだ君のことをよく知らない。好きな映画、嫌いな食べ物、よく行くお店、記憶に残っている旅行先。まだまだ知りたいことはたくさんある」
「なにそれ、まるでストーカーね」
「はは、確かにそうかも。でも、俺が知っているのは、魔女柏木アリサの姿ばっかりなんだよ。普通の女の子としての柏木アリサのことをもっと知りたいんだ」
その二つを知ってこそ、本当の柏木アリサを知れるんだ、と拓光はアリサの瞳を覗き込む。
夕日は完全に沈み、刺すような光は消え、辺りには淡いオレンジが広がる。
「別に、魔法を使わない私なんてただの平凡な高校生よ」
「それでいいんだよ。キミは魔法を使える。けれども、普通の女の子でもある。魔法を使えることは特別なことかもしれないけれども、それが、キミ自身が特別であることの証明にはならない。魔法を使えるけれども、それと同時に普通の女の子である柏木アリサのことを、俺は知りたいんだ。言っただろう? 俺はキミと友達になりたいって」
「貴方が何を言いたいのかよくわからない」
と、切って捨てるようにアリサが言って、拓光は息を吐き出すように笑った。
「うん、俺も自分で言っててよくわからない」
「なによ、それ」
拓光の笑みにつられて、ついアリサも笑ってしまう。
「とにかく、お友達になりましょう、ってこと。そのために、俺はもっとキミのことを知りたいんだ」
その言葉を聞いて、アリサはため息をつく。
拓光のことは苦手だ。けれども、嫌いではない。それに、きっと悪い人ではない。むしろ、短い間だけれども、その言動を見る限りではいい人なのだろう、と思う。嫌いではないのなら、友達になれるのだろうか。
少し、微笑んで首を振りながら、口を開く。
「わかったわよ、私の負け。別に今すぐ友達になる、とはいわないけれども、少しずつ、お話していきましょう。私のことを教えてあげる」
「よかった。ありがとう」
「でも、もちろん条件がある」
そう言って、アリサは人差し指を立てる。
「条件?」
「そう。貴方が目指すのは私との友人関係でしょう?」
「そうだね」
「なら、私ばっかりが話をするのはフェアじゃない。友達なら、お互いに五分と五分じゃないと。だから……」
「わかったよ、俺も、俺のことをキミに話す。それで五分と五分だ」
「そういうこと」
そうしてアリサが頷いたところで、拓光が右手を差し出す。その差し出した手の意図は明瞭で、アリサもそっと右手を出す。お互いに相手の手を掴み、握手をする。
思っていたよりもその手が固く、分厚くて、アリサは少し驚く。
思っていた通り、その手は柔らかく華奢で、拓光は少し微笑む。
もしかしたら、私は彼のような人を待っていたのかもしれない。魔女ではない、普通の人間が、魔女である自分のことを魔女と知りながら、それでもなお、親しくなってくれようとする人を。自らの秘密を打ち明けることの出来る、普通の友達が欲しかったのかもしれない。私が持つ最大の秘密をもうすでに知ってしまっている、平凡な彼とならば、そういった関係を築くことができる可能性があるのかもしれない。と、そう思いながらアリサはその手を放す。
「でもまあ、今日のところはもう帰ろうか。きっとすぐに暗くなる」
「そうね」
と、二人はほぼ同時に立ち上がる。
別に、今すぐに、急に仲良くなる必要はない。これから先も二人は同級生で、明日も明後日も会える。今はまだ友達ではなくても、会話を重ねることによって、少しずつ友達になっていくのかもしれないし、もしかしたら、そんな約束を交わした時点で、もうすでに二人は友達と呼べる関係性になってしまっているのかもしれない。友達というものの定義はよくわからない。
燃えるような赤いの西の空と、金色の月が浮かぶ、濃紺色の東の空。きっと今が、最も夕方と夜の境目の輪郭が曖昧な時間帯だ。
それじゃあまた明日、とアリサが言いかけたところで、拓光が右手を伸ばした。その指の先には、一人の少年。
「アレ、見える?」
少年は俯き、肩を落として泣いているように見える。
「泣いているのかな?」
と、アリサが訊ねた次の瞬間にはもう、拓光は駆け出していた。慌ててアリサもその後を追う。
少年は大きな木の下で泣いていた。声をあまり出さないようにして、それでも悲しくて仕方がない、といったふうに。年は七歳くらい。小学校の低学年くらいの子だ。そんなに小さな子供なのだから、泣くときくらいはもっと声を上げて泣いてもいいのに、とアリサは思ったものの、そもそも自分がこの子くらいのときにはどんなふうに泣いていたか思い出せなかった。
「どうしたの?」
と、拓光は腰を落として目線を少年の目の高さに合わせて訊ねる。
そんなもの、訊ねるまでもなかった。少年の隣には、大きな木。その枝のひとつに、黄色い風船が一つ、引っかかっている。きっと、掴んでいた風船の糸を手放してしまい、木の枝に引っかけてしまったのだ。
「風船……が」
弱々しく少年は呟く。
「そっか、お父さんかお母さんは?」
拓光は明るく少年に問いかける。少年に心配を掛けまいとしている風にも見えるけれども、彼は普段からこんな声のトーンなので、アリサにはその彼の声のトーンが演技なのかどうか、判別がつかなかった。
少年は指を伸ばした。そこには、大きなベビーカーを覗き込んでいる女性がいた。明らかに双子用の大きなベビーカー。きっと、この女性が男の子の母親なのだろう。ベビーカーの中にはこの男の子の弟か妹、もしくはその両方がいるのだろう。母親は必死にベビーカーの中に話し掛けている。赤ちゃんが泣き止まないのだろうか。確かに、双子の相手をするのは大変そうだ。お兄ちゃんが一人離れて、気付かないのも仕方がない。
「お母さんはこの風船のこと知ってるの?」
と、訊ねる拓光に、少年はかぶりを振る。
「わがまま言ってやっと買ってもらった風船なんだ……言ったら怒られる」
「そっか、じゃあ怒られる前に何とかしなきゃね」
そう言って、拓光は両腕を組んで、枝に引っかかった風船を眺める。とはいえ、風船の引っかかっている位置は、やや高く、幹からも離れている。簡単に取ることはできなさそうだ。下手に棒でつついたりしても、枝から外れて空高く逃げていきそう。
拓光の表情はやや厳しくなる。当然、ジャンプをして届くような高さなんかじゃない。男の子も、俯いたまま、目尻を拭い続けている。打つ手はなく、辺りは暗さを増してきている。このままこうしていても埒が明かない。と、アリサはため息を吐き出して決意する。
「ねえ、周りの人は誰もこっちを見てないよね?」
「え? まあ、そうだね。この子のお母さんはベビーカーの赤ん坊から目を離せそうにはいだろうし、他には釣りをしている人くらいで、誰もこっちには目を向けていないと思うけれど……」
と拓光が言い終えるのを待たずに、アリサは風船に向けて手を伸ばす。目を閉じて、静かに息を吐き出す。
風が吹いて、枝葉が揺れる。そして、ゆっくりと風船は降りてくる。まるで、そこにあるのが最も自然であるかのように、風船の糸はアリサの手に納まる。
「ねえ、顔を上げて」
アリサは少年に語りかける。少年は何度も拭っていた目尻を最後にもう一度だけ拭って顔を上げる。
「ほら、風船」
と、風船の糸を少年に持たせる。それを見て、少年は一瞬、驚いたような表情を見せてから、笑みを浮かべる。年相応の、無邪気な笑みを。
やっぱり、これくらいの年頃の子供は笑っているのがいい。
「ありがとう!」
そう言って、少年は母親の下へと走り出す。その後ろ姿を見送りながら、拓光は小さく手を振っている。手を振りながら、拓光は口を開く。
「今の、魔法だね」
「うん、まあね」
少年は母親と一緒にベビーカーの中を覗き込んでいる。風船はベビーカーのほぼ真上に浮かんでいる。
「やっぱり何度見ても凄いな、まったく理屈がわからないよ。魔法ならば本当に何でも出来てしまいそうだよね」
「当然じゃない。私は魔女だよ。誰よりも魔法の力を信じている。魔法は奇跡だよ。奇跡に理論も理屈も理由も必要ない」
そう、少しだけ誇らしげにアリサは言って、茶色いショートブーツのかかとを起点にくるりと振り返り、スカートを翻す。
魔法はこんな風に小さな子供を一人、笑顔にすることができる。ロンドンで起きている事件のように、多くの人を傷つける魔法の使い方は、決して正しい魔法の使い方とは言えないはずだ。一週間前に見た、雨雲を一気に消し去った、見ず知らずの魔女と思しき女性の、魔法らしきもの。あんな風に、たくさんの人たちの心を晴らし、笑顔にすることが、アリサの考える最も正しい魔法の使い方だ。
だって、魔法は奇跡で。
奇跡は、多くの人々を笑顔にするものなのだから。
そしてそれはつまり、魔法は多くの人々を笑顔にさせるために使うべき、ということなのだとアリサは思う。
「それじゃあまた明日ね、桐宮くん」
と、アリサは軽やかに帰路に就く。
うん、また明日、と拓光も返したけれども、その声が彼女の耳にまで届いたのかはわからなかった。
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