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第1章
Black Black 2 3
しおりを挟む「無理です。もうこれ以上」
「いや、まだいける」
「昼間は客先なんですよ? それを、帰社してから別の仕事なんて」
「大丈夫だ。なんとかなる」
「残業代だってカットするくせに。タダ働きの上に、体まで壊したんじゃたまらない!」
「そんなことにはならないよ……」
「いいえ、僕はロボットではありません! そんな働き方をしたら、体がもちません!」
遼が帰社すると、門川部長と幸崎が言い争っていた。
幸崎は、去年採用された社員だ。
中途入社で、遼よりは五つか六つ、年上だ。
「私は、過労死したくない!」
「どうしたんですか?」
過労死、という言葉に反応し、頭で考えるより先に、言葉が出ていた。
部長が、ほっとしたように遼を見た。
「ああ、田村さんの後継ぎの件だよ。社内LANのメンテを幸崎君に頼んだんだがね……」
そういえば、社内向けの仕事は、結婚退社した田村さんが一手に引き受けていた。
自社の仕事だから、田村が辞めた後もつい、後回しになっていたものだろう。
「とにかく僕にはできませんから」
きっぱりと幸崎が言った。
「そこをなんとか……」
「いやです。できないって言っているのに押し付けるのは、ブラック企業のやることですよ!」
「君、いくらなんでもそれは、言い過ぎじゃないのか?」
「僕がやりますよ」
カバンをデスクに投げ出し、遼は言った。
「僕がやります」
「だって、柳ヶ瀬君には、銀座の仕事を振ったばかりじゃないか。辞めた新田が放り出していった」
「今、銀座へ行って来たところです。かまいませんよ。田村さんの仕事も、僕がやります」
「……そうしてくれると助かる」
口籠りつつ、部長は言った。
明らかにほっとしている表情だった。
「柳ヶ瀬さん、あんた、何を考えてる」
コーヒーカップを片手に、窓から外を見ていると、後ろから声をかけられた。
幸崎だった。
帰り支度をして、コートを腕にかけている。
「何って……?」
紺色の夜景から目を離し、物憂げに遼は振り返った。
オフィスを出た、廊下の先にあるこの大きな窓は、気分転換の場だった。
ここから外を見下ろし、仕事でこんがらがった頭を休ませる。
下の道路を歩く人を見ながら、暑いのか、寒いのか、或いは雨が降っているのか、外の気配を想像する。
どうせ、日付が変わるまで帰れないのだから。
いらだたしげに、神崎が言い募る。
「あんただって、限界ぎりぎりじゃないか。それなのに、人の仕事まで引き受けて。そんな義理はない筈だ」
「ああ、そのこと」
どうにも頭がぼんやりしていた。
うすぼんやりと霧がかかっているようで、この霧は、コーヒーを飲んだ程度では、晴れそうにない。
「大丈夫ですよ。できますから。心配しなくても」
「そんなことを言ってるんじゃない!」
激昂したように神崎が叫んだ。
「この会社、おかしいよ。できる以上の仕事を受注して、人は減るばかりだというのに。バイトの尻拭いまでさせられた挙句、残業代カット。当然、社員はくるくると入れ替わる。この会社、まともじゃない」
「知ってます」
「そんな会社に、あんた、何年になる?」
「さあ。五年かな……」
「長すぎる。二年もいれば、次を探したくなるのが普通だ」
「そんなものかな」
「そんなもんだ。みんなそのくらいで辞めてくじゃないか。柳ヶ瀬さん、あんたはおかしい。わかってるのか? 自分の仕事だけで充分過重労働なのに、その上、辞めてった奴の尻拭いまでさせられて。毎晩、日付が変わるまで残業してるな。休日だって、ろくに休んでないだろ。それなのにまだ、仕事を引き受けようなんて。柳ヶ瀬さん、あんた……、」
言葉を切らした。
不意に、神崎は詰め寄ってきた。
「あんた、死にたいのか」
「!?」
「俺が入社する前、仲の良かった後輩が、過労死したって聞いた。その責任を取って、あんた、死のうとしてるのか!」
「……」
そんなことは、考えたこともなかった。
でも、考えようとしなかっただけで、本当は、そう思っているのかもしれなかった。
もう、ずっと。
あの日、蒼を拒んでから。
もし、自分が、蒼を受け容れていたら。
蒼は、まだ、生きていたかもしれない。
だって、胸に耳を寄せれば、鼓動が聞こえる。
抱き合っていれば。
心臓の奇形なんて、簡単に見抜けたのではないか。
何度も何度もそう考え、胸が潰れるほど、悔しかった。
悲しく、辛かった。
それなのに、あの夜、自分は仕事を口実に逃げた。
そう。逃げたのだ。
遼は、自分を憎んだ。
つまるところ、仕事なんて、どうだってよかったはずだ。
だって、ただ、生きていくだけの手段にすぎないのだから。
この会社にこだわる必然性だって、全くない。
蒼と二人で生きていく。
それが、なにより大事なのではなかったか。
くるりと幸崎は背を向けた。
「俺は、死にたくない。ただ、人並みの生活をしたいだけだ。普通の、人間らしい暮らしをな。ブラックな会社にこき使われて死ぬなんざ、ごめんだよ」
「……辞めるんですか?」
掠れた声で、遼は尋ねた。
「辞めない。今はまだ。俺ぐらいの年齢になると、次を探すのは難しいからな。子どももいるし、いずれ親のめんどうもみないといけない。そうそう仕事をなくすわけにはいかないんだよ。それでも」
僅かな間をおいた。
「それでも、次を見つけ次第、この会社は辞める。転職を繰り返せば、ダメージになるだろう。でも、過労死するよりはましだ。俺には嫁がいるからな。多少、収入が下がったって、二人で力を合わせれば、なんとかなる」
「奥さんのこと、信頼してるんですね」
「ああ。人生のパートナーだ」
「愛してるんですか?」
「当り前だ。なぜ、そんなことを聞く」
その疑問は、するりと遼の口から零れ落ちた。
「愛と信頼は、両立するものなのかと思って。俺にはわからないです。それとも、男と女だから?」
幸崎は、まじまじと遼を見た。
「柳ヶ瀬さん。あんた、疲れてる。顔色悪いし、目の下、ひどいクマだ。このままじゃほんと、過労死するぞ」
「かまいません。どうせ、いつかは死ぬんですから」
窓越しに夜景を見つめながら、遼はつぶやいた。
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