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第3章
逢魔 4
しおりを挟む吹っ切れたように、石川が笑った。
「それなら、僕も一緒に飛ぶよ。あなたと一緒に、どこまでも」
「……」
遼は息を呑んだ。
石川が、近づいてくる。
「柳ヶ瀬さん。会社の為じゃなくて、僕の為に働いてよ」
「は?」
「僕もあなたの為に働くから」
「言ってる意味がわから……」
「毎日同じことの繰り返しでさ、単調で退屈で。働くってことは。人の機嫌を損なわないように、そればかり気を使って。人間はさ。そんな風にはできてないわけよ。もっと自分勝手で、刺激を求める生き物じゃん。人間って。それでも、働くわけよ。それはさ。つまり、愛する人がいるから。大事な人がいるから。だから辛い、単調な繰り返しにも、我慢できる」
「何、言ってん……」
「柳ヶ瀬さん」
石川が、さらに一歩、間合いを詰める。
「僕は、あんたに、好きって言った」
その時の状況を思い出し、遼の顔が、さっと赤らんだ。
「あんな時の『好き』が、アテになるか!」
「あんな時だからこそ、本心なんだろ! ねえ、柳ヶ瀬さん。一緒に生きていこうよ」
「いやだ」
「なんで」
「お前のことなんか、嫌いだ」
「僕は、あなたが好きだよ」
「お前は、俺と、寝たじゃないか。俺は、好きなやつとは、絶対、寝ない」
「そう? 僕はね。好きだから、寝るんだよ」
「見解の相違だな」
「好きだから、あなたを抱いた」
「間違っただけだろ。それとも俺が誘ったから? どっちだっていい。俺は男だぞ?」
「男だからだよ!」
鋭い、草笛のような声で、石川は叫んだ。
「男だとわかってて抱くんだ。好きだからに決まってるじゃないか!」
「……」
遼は言葉に詰まった。
こんな風に言われるなんて、考えたこともなかった。
頭が真っ白になり、思考が止まった。
「ねえ、柳ヶ瀬さん。まだ太田さんのこと忘れられないの? だったら、僕でいいじゃん。僕は、太田さんのこと、知ってる。僕なら、太田さんごと、あなたを抱きとめてあげられる」
違う、と遼は言いたかった。
蒼は大事だが、蒼のことは忘れないけど……。
蒼はもう、いない。
今は、……今、守らなければならないのは……。
意を決し、遼は口を開いた。
「俺は、蒼を拒んだ。それは、蒼に幸せになってほしかったからだ。皆に祝福されて、普通に生きて欲しかったから」
「僕は、太田さんじゃない」
「そうだな。お前は蒼とは違う。俺も、お前のことなんか、何とも思ってやしない」
「柳ヶ瀬さん……」
石川は、泣きそうな顔をした。
……今日はこの男の、いろんな顔を見る。
緊張した顔。
腹黒そうな顔。
自信なさそうな顔。
一瞬だけ輝いた顔。
胸が、きゅんとした。
……いや、だめだ。
……蒼がダメなら、蒼と同じ理由で、この男もダメなんだ。
……自分がいたら、この男は、幸せになれない。
その思いの根っこの部分から、遼は目そらし続けた。
気づきさえしなければ、ないのと同じだ。
石川が好きだ、という気持ちは、だから、彼の意識には上らなかった。
遼は言った。
「とにかく帰ってくれ。俺にはよく、わからない」
「なにが?」
「全部が! 帰れよ、早く」
「いやだね。一晩あれば、あなたはまた、僕から逃げる」
「そんなことはない」
もちろん、そのつもりだった。
……家も仕事も、選ばなければ、いくらでもある。
その時、目の端に、何かが動くのが見えた。
暮れかけたアパートの前庭に、誰かがいる。
どこかで見たことのある……。
遼の目を追い、石川も同じものを見た。
「!」
次の瞬間、石川は遼を突き飛ばした。
階段の下のコンクリートに肩をぶつけ、遼は振り返った。
赤い光に包まれて、勢い余った誰かが、石川に、体ごとぶつかった。
女だ。
両手を前に突き出し、背を丸め、渾身の力をこめ……。
石川が遼を見た。
「柳ヶ瀬さん、ごめん。僕が……」
ゆっくりと崩れていく。
しばらく、誰も動かなかった。
ゆらり、と、女が立ちあがった。
鬼気迫る表情で、遼を見つめた。
電車の中で、自分を痴漢と決めつけたあの女だと、遼は気づいた。
女は不思議そうに、自分の両手を見つめた。その手は、赤く染まっていた。
不意に、甲高い悲鳴を上げ始めた。
「石川!」
魔法が解けたように、体が自由になった。
遼は石川に駆け寄った。
助け起こそうとした石川の顔が、苦しそうに歪んだ。
「ごめ……、僕が……連れてきちまった……んだ……」
「石川?」
「柳ヶ瀬さん……無事、……よかった」
夕日に照らされ、どす黒い帯が、倒れた石川の下に流れていた。
庇うように脇腹に当てられた指と指の間から、固い、柄のようなものが見える。
……なんで生えて? 何が?
……刃物!?
「石川!」
固く目を閉じ、石川は答えなかった。
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